第6章 動機解析 (前編)

 説明会が終わると、不二恵が安那を署の外まで案内した。そしてさっきの車を指差し、「乗って下さい。お家まで送って行きますから」と言う。

「あ、いえ、一人でも帰れますから……」

 ニュートラムに乗って住之江公園駅に行き、そこからバスに乗って南海の堺駅で降りれば、後は歩いて帰れる。住之江公園駅から南海の住吉大社駅まで歩いて、電車に乗ってもいい。歩くのは2キロほどあるが、普段は運動不足なのでそれくらいならいい運動だし、住吉大社を中を久しぶりに歩いてみたい気もする。犯人が逮捕されたのだから、もう護衛してもらう必要もないし……

「いいえぇ、ちょっと寄ってもらいたいところがあるんですよぉ。エリちゃんのところなんです」

「エリちゃんって……あの探偵さんの?」

「そうですよ」

 安那は半ば強引に車に乗せられた。不二恵がうきうきとした顔で車をスタートさせる。彼女は、エリーゼとは別の意味で、楽しそうに見える。

「捜査情報を漏らしてもええんかなーって心配してはります? でも今回はいいんですよ、ちょっとだけなら。犯人についてはあるところから情報をもらったって、原さんが言うてたでしょ。それがエリちゃんなんです」

「ああ……」

「そやから、事件解決の顛末をちょっとだけお話ししに行ってええんですよ。協力者ですからね。門木さんにも許可もらってます」

 また驚きだった。ではやはり、彼女は私の家に来たときに、周辺の捜査もしていったのだろうか? だが花屋を疑った理由がさっぱりわからない。もしかしたら、それをこれから聞かせてくれるのだろうか。

 不二恵の運転する車は人工島の東側の工場地帯へ入っていった。この辺りに来るのは安那にとってはもちろん初めてだ。そして車が停まったところは明らかに工場の事務棟と思われる建物の前だった。探偵の事務所というよりは、誘拐されたときに監禁される場所という気がする。さすがにそれはテレビドラマに影響されすぎかもしれない。

 正面入り口へは行かず、裏に回って錆びかけた非常階段を登ると、ドアに“湾岸探偵事務所”の札が貼ってあった。開けると中は大企業の重役室のような重々しい造りになっていて、安那は思わず息を止めて見入ってしまった。別世界へ来たような気がした。豪華な洋室に縁がないからだろう。

「安那先生、いらっしゃいませ。フジコちゃんから連絡をもらっていたので、コーヒーを用意しておきましたですよ」

「フジコやなくて不二恵です。辺見先生、ここのコーヒーはうちの署のと違ってかなりおいしいですよ。ぜひ飲んで下さい」

 エリーゼが不二恵の名前を間違えたのは2度目だが、不二恵は全く気にしていないようだ。それとも、これは定番のやりとりか何かなのだろうか。しかも不二恵は自分の部屋のように安那を案内してソファーに座らせると、横に座った。そこにコーヒーが出てくる。

「まさか安那先生はコーヒーを飲まないとおっしゃらないでしょうね?」

 エリーゼが複雑な笑顔で安那を見ながら言う。こうして見ていると、喫茶店のバリスタにも見える。

「いえ、そんな、コーヒーも大好きですよ。とてもおいしそうです」

 コーヒーは元々香りが強いせいか、今の安那でもわかる。ところで、この症状は結局何なのだろうか。それも知りたいのだが……

「よかったです。砂糖とミルクはご自分でお願いします。フジエちゃん、事件解決に協力したお礼として、感謝状が出たりはしませんでしたか」

「ダメでした。私はあげたらどうですかって原さんに推薦したんですけど、刑事部長さんがうんて言わへんかったみたいです」

「残念です。私が優秀なので、ひがまれているのですかね」

「依頼料もらって調べてたんやろって言うて」

「それでも私が被疑者を特定したのは間違いないことですのに」

「最初、全然信用してはりませんでしたもん」

「当てずっぽうとでも思われてましたかね。でも、違うのですよ、安那先生。ちゃんと根拠があるのです」

「はい、ぜひお教え下さい。私、自分のことなのに何もわかっていないんです。私しか知らないはずのことを皆さんが知っていたりして……」

 安那が真剣な顔でそう言うと、エリーゼが目をぱちくりとさせた。いつもと違って少し可愛らしく見える。

「そう改まられると、私も困ってしまいますね。もちろん説明しますですよ。まず犯人の目的です。自白では何だったと言われましたか?」

「近付いて身体に触れたかったからと……」

「そう言うと思いました。しかし、それは三つある目的のうちの一つでしかないのです。第二の目的は、ハンカチに安那先生の口紅の型を取ることでした」

「口紅の型?」

「英語でキスマークという方がわかりやすいでしょうか? 第二というよりこれが第一の目的のように思います。おまけとして、安那先生の化粧品の香りもハンカチに移ったでしょうね。要するに犯人は、安那先生の身体から何か形に残るものを取りたいと思ったのです。好きな女性の髪の毛を集めるのに似た感覚ですかね。そのハンカチをどのような目的に使おうとしたかまではわかりませんけれど」

「うわあ、変態さんや」

 不二恵が完全に引いていた。安那も犯人の行動に不純なものを感じた。警察で話を聞いたときは何とも思わなかったのに。もしかしてこれは“嫌悪”だろうか?

「でも、どうしてそれが目的だったとわかるんですか?」

「手袋が捨てられていたのに、ハンカチが捨てられていないからです。ハンカチには犯人の痕跡は一切残らないのですから、捨てたって構わないはずです。そうしなかったということは、ハンカチを持ち帰りたかったからです。ハンカチは犯人の部屋に密封して保管されていたのではないかと思いますが、フジエちゃんは何か聞いてますか?」

「はい、机の抽斗からそういう状態で見つかったらしいです」

「当たりでしたね。安那先生も納得していただけましたか?」

「まだ信じられないですけど、理解はしました。それで、第三の目的は?」

「それは安那先生に香水を嗅がせることでした」

「香水ですか……じゃあ、あの香りが……」

 気絶させるための薬かと思って息を止めていたので、よくは憶えていない。ただ普通の薬品ではないと思ったくらいだった。

「それはわからへんなぁ、嗅がせてどうなるん?」

 安那の代わりに不二恵が質問した。

「さあ、そこが問題なのですよ。犯人が自分の臭いを安那先生に嗅がせたいと思ったのなら、わかりやすいのですがね。ただそこに大きな勘違いがあるのではないかということ、そして安那先生の嗅覚のことを合わせて想像してみたのです」

 嗅覚が鈍っていても、あの香水の匂いくらいは気付いた。安那には、エリーゼの想像していることが全く予想できなかった。彼女の想像力はとんでもなく大きいのかもしれない。

「フジエちゃん、安那先生はこれから私が話す事情により、嗅覚が少し悪くなっていたのです。しかし、これは秘密ですから他の人に話してはいけませんよ」

「大丈夫ですよぉ。私は警察官ですから、口が堅いです」

「信じておりますよ。さて、私がいつそれに気付いたのか、今は置いておきましょう。とにかくそれを確かめるために、私は安那先生のお家へお花を持っていきました。ある花屋でコスモスを買ったのですが、そこへジャスミンの香水を薄めたのを少し振りかけて、ついでに茎の一部に緑のマーカーを塗っておきました。

 ところが、お家に着くとお手伝いさんにお花を取り上げられて、困ってしまったのです。後で花瓶に入れて出してもらいましたが、よく観察するとそれは私が持っていったお花ではありませんでした。香水の匂いは遠すぎてよくわかりませんでしたが、緑のマーカーがついてないのは見えたのです」

「じゃあ、あの時の花は……」

「はい、お手伝いさんが同じような花を取り寄せて、すり替えてしまったことになります。私は玄関の横の小さな部屋で10分以上も待たされましたし、安那先生のお部屋に通された後、お手伝いさんがお花を持ってくるまでにも時間がありましたから、その間に配達してもらったのでしょう。

 どうしてそんなことをしたのか、その時はわからなかったのですが、後で安那先生にお花の香りを確かめてもらおうと花瓶を取ったときに、おかしな匂いに気付いたのです。とても薄かったですが、私が振りかけたのとは、全然違う香水の匂いでした。ただし、ひとまず安那先生にはその匂いがよくわからないことを確認してもらいました。花を戻すときに、花びらと葉っぱの一部をちぎって持って帰りました。後でその香水の銘柄を調べて、ある男性用香水だとわかったのです」

「警察官でも香水してる人がたまにいますよぉ。特に交番の巡査は、装備が重くて夏場は汗を掻きやすいからって、その臭いを抑えるために香水着けています」

「そうなのですか、初めて知りましたよ。憶えておきます」

 不二恵が妙な豆知識を披露した。それはともかく、エリーゼがあの時、身をよじっているように見えたのは、花びらや葉を採取してたからということに、安那はようやく気付いた。


(続く)

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