第5章 犯人逮捕

 次の茶道教室にも、もちろん安那は講師として出席した。気持ちは回復しているし、ストレスもない。ただし、今回は自分で車を運転せず、世話人である鴨川氏の車でATCへ行った。本来は、初回からこうして送迎してくれることになっていたのだが、安那の方から断っていたのだ。講師が客のように扱われるのはおかしい……と考えて。

 駐車場もいつものところではなく、南側の第2駐車場へ入った。そこにはエリーゼも来ていた。いつもどおりの服装に、いつもどおりの余裕綽々の笑顔で。

「今日はお迎えに来ましたですよ。生徒の代表なのです」

 車のドアを開けながらエリーゼが言った。彼女が探偵であると知ってから、どのように接していいか安那は少し迷っていた。それに、他の参加者は彼女が探偵と知っているのだろうか。あるいは、彼女に私の調査を依頼したのは、参加者の誰かだろうか?

「あの、それはお仕事としてですか?」

「いえいえ、アミダクジで勝ったのですよ。私はそういうことにはたいてい勝つのです」

「あみだ……あの、そうすると、希望者が何人かいたということに……」

「何人かではありません。全員です。特に男の人は気合いが入っていましたですね。負けた悔しさのあまり、全員でお迎えに行くべきだなどと言い出した人もいるのですよ」

「そんな、ただ面倒なだけに思えるんですけど」

「いいえ、みんな安那先生とお近付きになり、お話ししたくてうずうずしているのですよ。次回からは交代制になると思いますね」

 話しながら、鴨川氏に付いていく。後ろにエリーゼが付く。護衛のつもりらしい。いつもと違って、南棟の中を歩いて通り抜ける。単なるショッピングセンターなのに、不思議に新鮮な光景だった。教室の帰りに、ここへ少し寄るとかを、どうして考えなかったのだろう。

 ITMの11階までエレベーターに乗り、いつもの催事場に入ったが、何となくざわついているように安那は感じた。他の職員と挨拶したが、雰囲気がどことなくよそよそしい。私が来たので、またトラブルが起こるかもしれないと気にしているのだろうか。

 少し不安になったが、逆に教室の参加者はいつも以上に明るく、なおかつ安那のことを心配してくれていた。おかげで教室そのものもいつになく楽しい雰囲気で行われ、お茶会ならぬ飲み会(ただし飲むのはもちろん抹茶)のようだった。

 無事に終わり、いつものように写真を撮ったりしていると、催事場に見慣れぬ若い女性が入ってきた。ATCの職員ではない。こざっぱりしてゆるい感じの美人で、ダークグレーのパンツスーツがよく似合っていた。ただ、動きがどこかしらこなれていない。

「失礼しまーす、辺見安那さん? ちょっとお話があるんですけどぉ」

 その姿に似合わず、少し頼りないしゃべり方だったが、安那はすぐに返事をして、周りに群がっていた参加者たちに挨拶をしてから、女性のところへ行った。女性はスーツの内ポケットから何かを取り出し、他の人に見えないようにして安那に提示する。警察手帳だった。安那は驚いたが、かろうじて声を出すのはこらえた。

「臨海署の田名瀬不二恵巡査です。先月の事件のことで進展があって、お聞かせしたいことがあるので、この後でちょっと署まで寄ってもらえますかぁ?」

 不二恵が小さな声で言った。最初に声をかけてきたときは、周りに刑事とわからないように頼りない風を装ったのかと安那は思っていたのだが、一対一になっても同じようなしゃべり方だ。

「はい、わかりました。もちろん伺います」

「おや、フジコちゃんではないですか。今日は何のご用です?」

 後ろからエリーゼの声がかかった。

「わあ、そや、エリちゃんがおったんやった。フジコやなくて、不二恵です。今日は緊急の取材で、辺見先生にお時間もらいに来たんです」

 取材という言葉を出してきたが、雑誌か新聞の記者を装っているらしい。そうは見えな……くもない。

「私も付いていってよいですかね?」

「あれ、エリちゃんは一緒に連れていってもええんやったかな。ちょっと待って、門木さんに訊いてみるから」

 不二恵はスマートフォンを取り出して操作し始めた。どうやらショートメッセージを打ち込んでいるらしい。返事はすぐに来たようだ。

「今はあかんって。後で許可もらって、エリちゃんにも内容教えてあげる」

「お待ちしておりますよ。車でのお迎えですか?」

「ええ、下の外に停めてるんですけど」

「では、私もそこまでお送りしましょう」

 エリーゼがそう言うと、まだたむろしていた教室の参加者の男性の一人が「我々もお送りしましょう」と言い出し、結局全員でエレベーターに乗って1階まで降り、全員に見送られながら不二恵の車に乗って、安那は臨海署へ向かった。

「うわー、本物の辺見安那さんやー。一度お会いしたかったんですよぉ。私も茶道教室に何度も応募したんですけど、全然当たらんくてぇ。月に一度やから、その日に非番くらい取れるやろって思ってるんですけどねー」

 車が走り出すと不二恵はいきなりミーハーなことを言い始めた。こうして会いたい気持ちを表してくれる人を安那は何度も見ているが、まさか警察の人が、と思わざるをえない。

「はあ、ありがとうございます。あの、堺の警察署には茶道部があるんですけど、こちらの警察署には……」

「えー、堺署にはあるんですか。知りませんでした。そやから堺署には辺見先生のファンが多いんやわ。うちでも作ってもらわんと。あ、そや、こんなこと話してる場合やなかった。実はですね、先月の事件の犯人を確保したんですよ! あれ、確保したって、一般の人は知らんのやったかな。逮捕したんですよ」

「あっ、そうなんですか? それはよかったです……」

 ATCと臨海署は近くて、歩いても10分とかからないのだが、車で行くと一方通行の関係で少し遠回りしなければならない。それでもすぐに着くだろう。

「それでね、聞いて下さい。確保したの、私なんですよー」

「えっ、本当ですか。すごいですけど、危なくなかったですか?」

「いいえぇ、大丈夫でした。急に声をかけたから、逃げようとしはったんですけど、そこは私も逮捕術とかちゃんと習ってるし、他にもう一人応援もあったし」

「でも、すごいです。私なんて襲われたとき、ろくに抵抗もできなくて……」

「それやったら、私に護身術教えさせて下さい! 絶対役に立ちますよぉ」

 以前、堺署からも護身術を教えようかという提案をもらっていたが、その時は断った。しかし、今となっては習っておいた方がいいかもしれないと思えてきた。それでも、堺署ではなくて臨海署の刑事から習うというのは少し変な気がするけれども。

 署の前で車を降り、不二恵に案内されて、前と同じ会議室に入った。安那がここへ来るのはもう4回目だった。しかし今日はずいぶんと人が多い。見たことがある顔もあれば、見たことがない顔もある。スーツ姿の刑事もいれば、制服姿の警官もいる。大人数の警察官の前で話すことについては安那も慣れている(堺署で毎年講演している)のだが、一人で聞き役に回るというのはさすがに初めてで、にわかに緊張してきた。

 刑事部長という階級の人が立ち、にこやかに、しかし厳つい笑顔で安那に握手を求めてきた。用意された椅子に座ると刑事部長がもう一度口を開き、今回の事件では捜査に長く時間をかけてしまい、その間ご心配をおかけしたが、この度ようやく犯人を逮捕することができたのでご報告する、という趣旨のことを述べた。詳しくは原巡査部長の方から、と言い、刑事部長は座った。原が咳払いをして話し始める。

「まず犯人ですが、ふる吾朗という男性でした。名前はたぶん辺見さんもご存じではないかと思います」

「あっ、はい……」

 安那はその意外な名前に驚いた。もちろん知っているが……

「あの……そうすると、うちのお手伝いさんの……多喜さんの、息子さんが?」

「はい、そうです。その古見はご存じのとおり花屋に勤めておりまして」

 原の説明によると、古見はずっと以前から安那のことを恋慕しており、会って話をしたいと思っていたのだが打ち明けることができず、ただひたすら毎日安那に花を贈り続けていた。それでも相手にしてもらえなかったので、ついに我慢できなくなってあのような行動に及んだ。暴行を働くつもりはなく、ただ近付いて身体に触れたいと思っただけだった……ということらしい。

「花のことはご存じでしたか?」

「いえ……特に意識しておりませんでした」

 花は毎日お手伝いが買ってきてくれるのだが、息子が勤める花屋からだと言っていたし、「息子の吾朗が選びました」と言うのを何度も聞いた気がする。花を配達してくれたという理由で、引き合わされたこともある。しかし、まさかそこまで思われていたとは。それならそうとはっきりと言ってくれれば、きちんと返事をするか会うかしたものを……

「古見があなたを好いているということも?」

「全く存じませんでした。多喜さんからも何も聞いておりません」

 それだけは疑いない事実だった。安那は男性と付き合うのが嫌というのではなく、むしろ色々な人から紹介されることも多かったのだが、たいていは両親から反対されていた。相手の方も、安那の家柄を気にすることがあったかもしれない。古見もそうして思いとどまっていた一人だろうか。

 ただ、安那は古見吾朗の顔が全く思い出せなかった。交際する相手として意識していなかったからと思うが、それほど印象が薄い男性だったのだ……

「それはともかく、古見のDNAを採取して調べたところ、犯人が使っていたマスクのものと一致しました。実は採取したのはしばらく前で、あるところから情報をもらっておったのですが、確認に時間がかかりまして、逮捕が今日になったという次第です。さらに古見の部屋を調べたところ、これが……」

 原はビニール袋に入れられた白いハンカチを安那の前のテーブルに置いた。そこには安那の口紅の跡がくっきりと残っていた。少し切り取られた跡があったが、証拠品として採取されたのだろうか。

「犯行の時に使った、つまりあなたの口を押さえたハンカチと思われます。これがもう一つの決め手になりました。こちらで処分しますが、よろしいでしょうか?」

「はあ、それで結構ですが……」

 その後も犯人捜査と逮捕の過程についてくどくどと原が述べていたが、安那の頭にはさっぱり入ってこなかった。知り合い(しかもほぼ名前を知っているというだけの)に襲われたというのがショックだったからだろう。


(続く)

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