第4章 秘密質問 (後編)

 それまでの質問でも、安那は自分の“心配事”が見抜かれているのを感じていたが、この質問のページを見たとき、それが決定的なものになった。“瑞雲の白”と“宮の森”は共に相庵流家元の“御好おこのみ”と言われる抹茶の銘柄で、安那は定期的にその香りが嗅ぎ分けられなくなること、それどころか他の匂いにも鈍感になることに気付いていた。

 ただし、茶を点てるときは、身体が点前の所作を完全に覚えているので、香りがわからなくてもいつもと同じ味を作り出せるということが、鑑定家へ依頼した“味見”で確認できたのだった。

 しかし、私の嗅覚に異常があるかもしれないということを、なぜ見抜かれたのだろうか? しかも、彼女がなぜそれを知っているのだろうか? 安那はずっと混乱していた。いや、不安を抱えているというのが正しいかもしれない。

「そうですね。季節によって銘柄を変えますし、服加減や湯の量も変えます。茶室の温度や湿度によって、人の味覚も変わりますから」『あります』

「花の質問に戻りますが、花の香りとおこうの香りとお茶の香り、それらを全て考慮されるのですか?」『刺激臭を感じなくなることがありましたか?』

「考慮したいし、しなければなりませんが、とても難しいです(ここにも“笑”と書いてあったのだが、安那はやはり笑えなかった)。ただ、花はなるべく香りの少ないものを選びます。目を楽しませることが大事と思いますので」『あります』

「例えば私が今日持って来た花はいかがですか?」

 ノートにも全く同じ質問が書いてあった。エリーゼは立ち上がって――しびれが切れたのか、足がふらつかせ「ホップラ!」と小さな悲鳴をあげ――書院に置かれていた花瓶を這いながら取って来て、安那の前に置いた。コスモスだったが、ほとんど香りがしない。菊を薄めたような香りがするはずなのだが……

 どう答えたものか困っていると、エリーゼがノートのページをめくれという仕草をした。すると、『香りがすると思ったとき』と『ほとんどしないと思ったとき』の答え方が書かれていた。正直に『ほとんど……』の方を読み上げた。

「これくらい香りが薄い方が、飾る花としてはふさわしいですね。そ……」

 言いかけて口を閉じた。『その後は見た目の感想をそのままどうぞ』と赤字で書かれているのを、読み上げそうになったからだ。

「……それに、これはとても綺麗な色ですね。私は薄い色のコスモスが好きなので、私の好みにちょうど合いますし、茶会に飾る花としてもふさわしいと思います」

 エリーゼがまたページをめくれとジェスチャーした。めくると『質問はこれで終わりです』とあった。安那はほっとした。慣れてきたとはいえ、頭が疲れてきて、これ以上続けると答え間違いが起こりそうだったから。

 ふと、同時通訳のことが頭に思い浮かんだ。外国語を聞きながら、訳して、言葉にするというのは、こんな感じではないのだろうか?

「ありがとうございます。ちなみに、安那先生のお好きな花を季節ごとにあげていただけますか? お茶と関係なく個人的なお好みで結構ですよ」

 エリーゼは花瓶を元の場所に(這って)戻しながら言った。まだ足が痺れているようで、花瓶を置いた瞬間に書院の前で身をよじらせている。そういえば彼女はさっきから“横座り”になっていた。

「そうですね、私はシンプルで大きな花が好きなんです。ですから、春は水仙、夏は朝顔や昼顔、秋は……」

 答える安那の目の前で、エリーゼがノートをバッグにしまい込んだ。安那もノートをそっとエリーゼに返す。何のためにこんな“秘密の質問”をしたのか訊きたかったが、ここではよすべきだろう。盗み聞きを用心してのことなのだから。次回の茶道教室の後で、訊いてみようか……

「どうもありがとうございました。安那先生にお花をプレゼントしたい男性はたくさんいると思いますので、この答えを参考にしていただきましょう。では、次回の茶道教室を楽しみにしておりますです」

「こちらこそ、どうもありがとうございました……あの、もうお帰りですか?」

「安那先生に引き留めていただけるのなら2時間でも3時間でも長居したいところですが、今日は残念ながらこの後、別の約束があるのですよ。次は私の家にお越しいただいてお話をしたいですね」

「そうなんですか。じゃあ、その……また連絡を下さい。お待ちしていますから」

 エリーゼの家というのは探偵事務所のことだろうか。事件のことで何か話が聞けるのなら、行ってみたかった。しかし、今日は私に対する調査をしに来たようだ。誰が依頼して私のことを調べているのだろう……

「今日はお話しできてとても楽しかったです。ありがとうございますです」

「いえ、こちらこそ。ありがとうございました」

 奇妙なインタビューだったため、「楽しかった」と言えないのは残念だった。安那は内線でお手伝いを呼び、エリーゼを送り出した。エリーゼはまだ足をふらつかせている。

 それにしても、彼女はなぜ私の嗅覚の問題を知っていたのだろう。そしてそれは、暴行事件に関係があるのだろうか?


 事件が起きてから3週間目、ATCの防犯カメラの映像から割り出していた“大きな鞄を持っている人物”の顔映像一覧がようやく完成した。安那が臨海署に呼ばれ、一覧の中に知っている人物がいるかどうかを確認することになった。もちろん、知っていたからといってそれが犯人であるとは限らない。しかし明らかに安那を狙っての犯行であるに違いないから、一度でも面識があるはず、というところから被疑者を絞ろうというのが捜査陣の狙いだった。

 異例なことに、これには堺署の刑事が同席した。刑事課の持橋警部補と相羽巡査が来て、安那の横で同じ一覧を見た。堺署で把握している強盗や痴漢や変質者がその中に含まれているかを確認するためという。わざわざここまでんでも、後で一覧を送るのに、と思いながら門木は堺署員の二人を眺めていた。どういう流れかは知らないが、また同席させられることになったのだった。

 安那は長い時間をかけて見ていたが、はっきりと知っている人物はいない、という結論だった。映像がぼやけているせいもあっただろう。安那が帰ってからも、持橋と相羽は居残った。

「数人に心当たりがあるので調べてみる」

 持橋がふてぶてしく言った。その人物の身元を原が訊いたが、なぜか答えを断られた。臨海署の管轄外であるのはわかっているが、こういうときでも所轄どうしは連携が悪いなあと門木は思った。堺の重要人物だけに、堺署の方で手柄を立てたいのだろうが。

「それにしても臨海署の捜査進捗は遅すぎる。もう3週間も経ってるのに、なんで被疑者マルヒの一人もあげられへんのや。たるんどる」

 腕組みした持橋が、叱責するような口調で言った。原がむっとして言い返す。

府警本部ほんてんに言うてえな。発破はかけられたけど、向こうの捜査員は引き上げたし、先週からは協力ももらわれへん。ATCに依頼して防犯カメラは増設してもらったし、次からは茶道教室の関係者が送り迎えすることになった。もちろん、うちも網張って待つ。彼女をおとりに使うわけやないけど、犯人がもういっぺん現れんことにはどうもならんっちゅう状況や」

「警備の増強も網を張るんも当たり前や。二度とあんなことが起こらんように十分警戒してもらわんとな。もし起こったら、次はうちから警護の要員を出させてもらう。それから、辺見先生の家を探偵が訪問しとったが、あれはあんたらの差し金か」

「知らんがな、何のことや」

「相羽、話したれ」

 相羽が訪問者の人相を説明する。もちろん、原も門木も直ちにそれがエリーゼであることがわかった。「外国人の女で」「ベストとスラックス」というのだから間違いようがない。

「それは事件の発見者の一人や。彼女が直ちに駆けつけたから、犯人は逃走したんや。そもそも茶道教室の参加者やし、辺見さんと個人的に親しかったから見舞いに行ったんやろ。うちらの知ったことやない」

「どうやろな。辺見先生に近付く目的で、あんな事件を起こしたのかもしれんやろ。家に行って、盗聴器でも仕掛けてきたのかもしれん。誰かから金もろうてな」

「そう思うんやったら、茶道家の家でも探偵の事務所でも調べたらええやろ。ただし、探偵事務所があるんはうちの管内や。勝手なことは許さへんで」

 臨海署内でエリーゼの評判は分かれているものの、こういうときはさすがに原も弁護に回った。所轄どうしの意地の張り合いである。つまらん、と門木は思った。争うレベルが低すぎんねん。

 堺署の二人が帰った後で、門木は原に訊いてみた。

「原さん、なんで堺署はこの事件にあんなにムキになるんです? あの茶道家がいくら重要人物いうたかて、まだ家元ですらない。それやのにまるで人間国宝みたいな扱いや。しかも探偵を疑うんは、さすがにやりすぎでしょ」

「ああ、門木ちゃんにはまだ言うてへんかったかな。大変なんやで、ほんま」

 原がため息をつきながら言った。心配事があるというより、呆れてるというふうに。

「そやから、何が?」

 刑事課でない自分には情報が届いてないというのはわかるが、原の様子からすると署レベルの大事おおごとになっているのだろうか。門木は少し心配になった。そのわりには、先ほど原自身が言っていたように、府警本部ほんてんは手を引きかけているようだが。

「驚きなや。堺署にはなあ、あの茶道家のファンクラブがあるらしいんや」

「ファンクラブ!?」

「それも最近できたんやないで。7年前や。彼女が阪大に入学して、学生茶道家としてちょっと有名になったんは知っとるか? その2、3年後やと。僕は全然知らんかったんやけどな」

 7年前といえば門木も新人刑事だった頃だ。その数年前に学生茶道家が話題になったことがあったかもしれないが、よく憶えていない。公務員試験の勉強と刑事ドラマを見るので忙しかったのである。

「堺署が大事おおごとにしとるみたいやから、向こうの課長に訊いてみたんや。それでファンクラブのことも教えてもらったんやが、困ったことにその課長自身もメンバーでなあ。臨海署で彼女を守れんかったら、堺署から警護を出すいうて、今日の持橋とほとんど同じようなこと言いよったわ。公私混同やわなあ」

 原の嘆きは当然のことだが、その公私混同に、部署はたけ違いで巻き込まれた自分はどうしたものかと、門木も嘆きたくなった。

「ほんで門木ちゃん、ついでやから、あの探偵が茶道家の家で何の話してきたか、訊いといてくれへんかな。探偵を疑う訳やないけど、何か調べさせよかて言うたんは門木ちゃんやろ。あんたが訊きに行くのがまずいんやったら、田名瀬ちゃんに訊きに行かせてもええから。彼女、探偵と仲ええんやろ」

「仲がよすぎて困ってますわ。ほんでも、探偵の件は一応何とかしときまっさ」

 エリーゼは時々、「重要な情報提供」と称して生活安全課に電話をしてくる。それが妙なことに、門木がおらず田名瀬がいる、というときがほとんどなのだ。そして田名瀬は、情報を提供されたついでに、ついうっかりと警察側の情報を漏らしてしまうことがある。もちろん些細な情報だけだが、本人にはそれを漏らした自覚が全くないという、困った性格なのだった。


(続く)

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