第4章 秘密質問 (前編)

 新たな鑑識結果が得られてから農業関係者が調べられたが、進展ははかばかしくなかった。大阪とて農家が少ないわけではないが、安那とのつながりが不明なままでは、片っ端から取り調べるというわけにもいかない。これが殺人事件であれば、もっと大規模な捜査も可能だったろうが、暴行未遂事件で、しかも被害者である安那からの働きかけがなければ捜査の継続すら怪しくなってくる。

 安那は事件発生の2週間後に警察から報告を受けたが、その直後に茶道教室の担当者からも気遣いの電話をもらった(事件翌日に続き2度目)。次回以降の教室を心配してのことと思われたが、それと共に「事件の関係者がお見舞いに行きたいと言っているが、どうか」という問い合わせでもあった。聞けば、教室の参加者で、襲われたときに駆けつけてくれた女性とのこと。その女性については安那もよく憶えていたし、快く承諾したのだが、なぜ今頃という気がしないでもない。

 もっとも、親しい友人でもなければ見舞いに来てくれはしないだろうとも思った。現に、事件のことを何かで知った高校や大学の友人数人から電話やメールをもらったが、来てくれた人や会おうとしてくれた人はいなかった。安那の“家柄”が邪魔をしているとも言える。気軽に会えないと思われているのに違いない。門人ですら、通り一遍の心配の言葉をかけてくれただけだった。

 その見舞いの女性とも、安那はやはり私室で会うことにした。この前、鑑定家を招いたときと同じように、香を焚いたり花を活けたりして迎える。違うのは茶の準備をしなかったことくらい。

 3時5分前に来客の知らせがあって、その15分後に部屋に通されてきたのも、この前と同じだった。ただし、来客はお手伝いの言うことに従って廊下に膝をついて座り、障子が開くと腰を折って丁寧に挨拶した。

「本日はお忙しいところ私のためにお時間をいただき、大変ありがとうございますです」

 日本人とは思えない容姿ながら、仕草と言葉遣いだけはそこそこ日本人らしい。しかし満面の笑顔は日本人とは違っていた。その笑顔に釣り込まれて、安那も表情を崩しそうになり、慌てて頭を下げて笑いを押し殺した。

「本日は遠いところをご来訪いただきありがとうございます。どうぞおくつろぎ下さい」

 客は安那の案内のままに座布団に正座したが、部屋の中を興味深そうにあちこちと見回している。安那は彼女がエリーゼ・ミュラーというドイツ人であり、三浦エリという“日本式愛称”を持っていることは知っていたが、素性についてはほとんど知らなかった。職業は“自由業”らしいのだが、美人だしプロポーションは抜群だし、モデルでもしているのだろう、と勝手に想像していた。

 加えて、その紺のベストに紺のスラックス、白地にダークグリーンのピンストライプブラウスという奇抜な服装がどうしても気になってしまう。しかしエリーゼは安那の密かな視線には気付くことなく、床の間の掛け軸を眺めたり、部屋に立ちこめた香を聞いたりしている。

「とてもいいお部屋ですね。私の住まいにも畳を取り入れたいですが、狭いし他の調度と釣り合わないので難しそうですよ。もっと広いところに引っ越せば、一室を和室にするのもよさそうですが」

「はあ……」

 エリーゼがどんなところに住んでいるのか、安那には想像が付かなかった。咲洲に住んでいるということだけは知っている。そこにはマンションが林立しており、一軒家はないらしい。だから狭いといっても2LDKはあろうと思っているのだが。

「この前から、変わったことは起こっていませんですか。茶道教室の生徒たちは安那先生がもう来てくださらないんじゃないかと、センセンキョーキョーとしていますよ」

「そんな、ご心配をおかけして申し訳ありません。特に何も変わっていませんし、教室へは今後も変わらず参りますから」

「それはとても嬉しいことです。ただ、安那先生を誰かが送り迎えすることにした方がよいのではないかということになっていまして、私は単車しか持っていないので立候補できなくて、とても残念なのですよ。私が一番信用度が高いのですけれどね」

 信用度というのが何のことかは不明なのだが、安那がそれを確かめないままに、エリーゼは茶道教室に関する雑談(というよりはゴシップ)を始めてしまった。各参加者の参加率や、男性参加者が平日に休みを取るのに苦労していること、安那に関する知識を競い合っていることなど。安那に花束を渡す係を毎回あみだくじで決めていることは、初めて聞いた。茶道教室の生徒に怪しい者はいないと言いたいのかと安那は思い、しかもエリーゼの話しぶりが楽しいので、機嫌よく聞き入っていた。

 しばらくして、お手伝いが来た。お茶(抹茶ではなく煎茶)を持って来てくれたのだが、なぜだか花を活けた花瓶まで盆に載せている。花は安那自身が花屋から取り寄せ、活けて床脇に飾ってあるのだが、お手伝いは持って来た花瓶を書院(床の間と縁側の間の出窓)に置いた。お手伝いが下がると、エリーゼがその花瓶を見ながら言った。

「あれは私が持って来たのです。この部屋まで持って来ようとしたのですが、お手伝いさんが預かると言って聞いてくれなくて困惑しましたですよ。花瓶に入れて持って来てくださるつもりだったのですね。ようやく納得しました」

「あっ……そうでしたか。すいません、家に来る方はみなさんそれに驚かれるので、やめてくれるよう多喜さんにはお願いしているんですが」

 お手伝い本人だけでなく、両親を通じて申し入れているのだが、なぜだか言うことを聞いてくれない。花だけでなく、土産の菓子も預かってしまったりするし(それを後で茶菓子として出してくるのだが)誕生日のプレゼントの箱も預かり、勝手に開けてしまうことすらあった。

 それに、お手伝いは部屋の花を毎日買ってきて活けてくれるのだが、安那が自分で用意すると不機嫌になることがあった。今日もそうだったし、鑑定家が来たときも。

 彼女の息子――名前は確かゴロウだったか――が花屋に勤めていると言っていたような気がするが、そこの花が一番いいと思っているのだろうか。安那が花を取り寄せるのは別の店からなので、機嫌を悪くするのかも……

「いえいえ、気にしてはいないのですよ。ただ、この花を持ってきたのは理由があったので、待っていただけなのです。実はATCの広報誌に『茶道と季節の花』というテーマで安那先生のインタビューを載せたいと頼まれたのです」

 そんな目的もあったのか、と安那は思っていたのだが、エリーゼがバッグの中から出してきた紙を見て驚いた。そこには『これを見ても声を出してはいけません。私の指示に従って下さい』という言葉とともに、『湾岸探偵事務所 所長 エリーゼ・ミュラー(三浦エリ)』という名刺が貼り付けてあったのだ。驚いて顔を上げると、エリーゼが探偵業届出証明書(ただし“写”の文字入り)を目の前に広げた。そして裏返すと『ご安心下さい。本物です』という言葉と、茶道教室の世話人であるATC事務局の鴨川氏の署名(+ハンコ)があった。

 呆気にとられている安那をよそに、エリーゼは「では、インタビューを録音するので、準備します」と言い、バッグの中を探っていたが、出てきたのはレコーダーではなく、“自由帳”と書かれたノートだった。手渡されて、表紙をめくると“インタビュー台本”の文字。

「対談形式で行いますが、普通の会話と違って、十分にお考えになってから、お答えいただければよいですよ。後で適切に編集しますから」

 エリーゼがそう言いながら、ページをめくれと手で指示してきた。安那がそのとおりにすると『書かれているとおりに答えながら、その下の質問に筆記で答えて下さい』とある。わざわざプリンターで印字したように見えるが、どうしてこんなことをするのだろうと考えていると、エリーゼが“インタビュー”を始めた。

「茶道では茶室に季節の花を活けるそうですが、安那先生が花を選ぶときにはどんなことに気を遣われますか?」

「そ、そうですね……お茶会は単にお茶を頂くために開くのではなく、何かしらの目的を持って開くことが多いです。ですから私は、その目的に応じて花を選ぶことにしています……」

 安那は書かれているとおりに答えたが、文章を読み上げつつ、その下に書かれている質問を読み取らなければならないので、いささか戸惑った。そこには『最近、匂いを感じにくいと思ったことはありますか?』と書かれていた。

 驚いてまたエリーゼの方を見たが、エリーゼはしたり顔で別のノートを見ながら、「それは春のお花見の後のお茶会には桜を飾るというようなことですか?」と訊いてきた。質問の台本も用意してきたということだろうが、答えつつ書くというのは容易な業ではない。

「いいえ、本物の花を見るときには、活け花は用意しません。例えば梅雨の頃ですと、明るい晴れ間を感じさせる金糸梅きんしばいを選んだりします……」

 台本どおりに答えてから、ノートの方の質問に『はい』と答えを書く。その場合は『→P.3』と書かれているので3ページ目を開く。『それは恒常的なものですか、それとも周期的なものですか?』。答えを書こうとしていると、エリーゼが声で次の質問をしてきた。頭が混乱する。

「では、例えば花火を見る時にふさわしいのはどんな花ですか?」

 その答えは、ちゃんと3ページ目に用意されていた! それを読むか、それとも先にノートの質問に答えるかで迷うが、エリーゼがノートを指差したので、先にそちらに答えることにした。『周期的』を選ぶと、次はP.5となっている。ページをめくる前に、声の質問に答える。

「花火と言えば大輪の花を連想しますが、私は小さな花がたくさん並んでいるようなものを選びたいです。例えば藤空木ふじうつぎ九蓋草くがいそう禊萩みそはぎなどがよいと思います」

「それは花火の火の一つ一つを小さな花にたとえるようなものですか?」『それはこの1年以内ですか、それとも1年以上前からですか?』

「そうですね。それと、色も涼しげなものを選ぶようにしています」『1年以内』

「でも、最近は冬に花火見ることもありますが」『暑さ寒さと関係することがありますか?』

「私は冬に花火を見たことがないのですが(ここに“笑”と書いてあったのだが、安那は笑うことができなかった)例えば南天などいかがでしょうか」『あると思う』

 エリーゼの質問は聞かず、紙の質問を読んで回答して、書かれた答えを読み上げる、というリズムにようやく慣れた。同時に、どうしてこんな面倒なことをするのだろうという疑問がわいた。もしかしたら、誰かが部屋の中の会話を立ち聞きするのを心配しているのだろうか? だとしたら、誰が立ち聞きしているのだろう? まさか多喜さんが……

「珍しい花、“ちん”を飾ることがあるそうですが、安那先生はどう思われますか?」『暑いときと寒いときではどちらの方が感度が悪いですか?』

「珍花が喜ばれることもありますが、いつもそれだと奇をてらいすぎになりますから、私はなるべく無難な花を選ぶことが多いです。特定のお客様を、どうしても驚かせたいときだけ、珍花にします」『暑いとき』

「私も同じようなことがあります。行きつけの喫茶店で、たまには違う銘柄のコーヒーを頼みたいと思いながら、ついいつもと同じ銘柄を頼んでしまうんです(ここでエリーゼはいかにもおかしそうに笑った)。茶道では季節に応じて違うお茶の銘柄を選ぶこともありますよね」『“瑞雲の白”と“宮の森”が嗅ぎ分けられなくなったことはありますか?』


(続く)

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