第3章 証拠鑑識

 事件から1週間経ったが、捜査は進展しなかった。犯人を示す証拠になるような物がほとんどなかったせいだ。

 まず、安那の衣服に付いていた遺留物。胸の辺りから抹茶、綿と化繊の繊維片、背中からは同じ化繊の繊維片と花粉が検出された。

 抹茶はもちろん教室で使ったもので特に問題なし。綿の繊維片は軍手の物であろうと思われ、後に捨てられていた軍手との照合で一致が確認された。化繊は犯人が着ていたジャージの物と推察され、メーカーと商品まで特定できたものの、一般品であることがわかっただけ。ゆえに売っている店は数知れず。

 花粉は事件の日に会場に飾られていた花か、参加者が安那に渡した花束のものと推定された。茶道教室の他、華道教室や詩吟教室の前と室内に花が飾られており、なおかつ安那がその花の近くで(しかも花束を持って)教室の生徒たちと写真を撮っていたのが確認されたためだ。飾られたものは教室が終わった後ですぐに廃棄され、安那が持って帰った花束も明くる日には処分された(安那自身が部屋に飾ったが、お手伝いが取り替えて捨ててしまった)ため、照合はできなかった。

 次に安那の肌から採取した物。化粧品と、香水の成分が検出された。化粧品は安那自身が使っているものだったが、香水はそうではなかった(安那は着けていなかった)。銘柄については特定に至らず。安那が嗅いだ匂いはこれだろうという想像しかできなかった。

 クロロホルムは結局、検出されなかった。揮発が早いということもあるが、それに似た化学物質すら検出できなかったため、原たちは首を捻ったが結論は出なかった。

 また、遺留品の軍手とマスク。軍手は繊維片が一致したことと、花粉が付いていること以外は何もわからず。やはりクロロホルムは検出されなかった。マスクはDNA以外に何も検出できず。どちらも新品であり、該当する既製品について調べられたが、いずれも雑貨屋やドラッグストアで購入できる一般品とわかっただけだった。

 そしてATC内の防犯カメラの映像。事件が発生した前後で、犯人らしき人物が駐車場に入るところ、出るところが映っているのが確認された。入る前にはサングラスをしていなかったが、解像度のせいで科捜研の容貌解析すらお手上げで、人相は判別できず。ぼやけた映像を安那に見せたが、心当たりがないとのことだった。

 さらにその前後の時間帯の映像を調べると、犯人は華道教室が終わる前、すなわち4時前頃にATCに現れ、事件の直後に建物内のどこかで姿を消したことがわかった。つまり、防犯カメラに写らないところで変装を解いたと思われる。ジャージを厚ぼったく着ているように見えたのは、その下に普通の服を着ていたからだろう。そうすると変装用の靴まで用意していたことになる。

「変装用の衣装を袋か何かに入れて持って来て、トイレかどこかで着替え、茶道家を襲った後、またどこかで着替えて出て行った……」

 という状況が考えられるので、ジャージの上下と靴が入れられる程度の大きな鞄を持っている人物を映像から調べようとしたが、調査の担当者から「該当する人の数が多すぎる」という泣きが入り、まだ調べを続行中という有様だ。犯人が来た時間も帰った時間も判然としないため、ATCに来た交通手段さえ調べることができない。

 そして「このままでは大阪府警の威信に関わる」ということで勅命が下った……かどうかはわからないが、証拠物件の再吟味が行われることになった。要するに衣服から検出された物質と、マスクと軍手をもう一度詳細に調べろということだ。しかし既に調査をした科捜研は「これ以上調べたいなら大学病院にでも民間の研究施設にでも持っていけ」と逆ギレした……かどうかはわからないが、府警本部から所轄へと指示が回され、刑事課の原から生活安全課の門木のところへバトンが渡されたのだった。事情を聞いた門木が「何でわしが」とぼやいたのは言うまでもない。

「まあまあ、例の鑑識事務所へ持っていくだけやし、僕も付いて行くから」

「原さん、そういう問題やないでしょ。持って行くんやったら府警本部ほんてんの捜査一課から持っていったらええねん。わしは別にあそこ専門の依頼人とちゃうんでっせ」

「費用は府警本部ほんてんの共通費から出るし、結果も府警本部ほんてんへ丸投げしたらええから」

 色々と諭されて門木はしぶしぶ腰を上げ、原を渡利鑑識事務所へ連れて行った。渡利はようこそとも言わず、いつものように無表情で二人をソファーへ誘導した。

「それで、何を調べますか」

「とりあえずわかること全部お願い」

「あかんあかん、原さん、そんなん言うたらべらぼうに金かかりまっせ。どんな小さなもんでも1件千円や、条件出さへんかったらそれこそ『チリ積も』で何十万円取られるか。既にわかってることを先に言うとかなあかんのです」

 初めて来たときに門木はそれで失敗しているのだ。服を一着渡そうものなら、渡利はどんな小さな埃でも見逃さず、どんな微かな匂いでも嗅ぎ逃さず、数十項目に渡って鑑識結果を並べ立てる。今回は服ではないとはいえ、服に付いていた埃類と、マスクと軍手、それだけでも20や30は鑑識結果を出してくるだろう。

「そやから、捜査情報開示しまっせ」

「しゃあないな」

 原の同意が得られた。府警本部から指示が出ていることだし、共通費を使って調べるのだから、どこからも文句はないだろう。

「先週、ATCで茶道家が暴漢に襲われた事件知ってるか?」

「知りません」

 門木は渡利に事件の概要を話した。そして持ってきた物が証拠物件であり、既に調べたことを列挙したメモも渡した。

「これ以外にわかることだけ調べてくれればええ。それと、鑑識の要不要を判断したいんで、項目を一つずつ列挙して」

「わかりました」

 渡利はまず軍手を取り上げた。左右が別々のビニール袋に入れられている。その一方を、袋の外から見ていたが、しばらくして袋の口を開けて覗き込んだ。と思ったらすぐに顔を離して言った。

「まず化粧品」

「はあっ!?」

「女物だと思いますが」

「ちょっと待て。それは茶道家のものやろ?」

 化粧品は調査済み項目に入っているが、軍手から検出されたものではない。犯人はハンカチを持っていたため、軍手で顔を直接触っていないはずだが、一部が触れていたのだろうか。

「多分そうでしょう。女物ですから」

「いや、それはいらんわ。暴漢が使ってた男性化粧品ならともかく」

「そうですか。では、香水」

「それもパス」

「コーンスターチ」

「なんでそんな物が……」

 あまりにも意外な物に、門木は思わず呟いた。もちろん、調査済み項目にはない。しかし、微量であっても科捜研で調べようと思えば調べられるはずだ。が、そもそも鑑識や科捜研への依頼は「含まれている物を全部列挙してくれ」ではなく「○○が含まれているか調べてくれ」だ。調べようとする対象物は、それに見合った検出方法を試みないと特定できない。つまり、何でも判別できるというわけではない。それは門木ももちろんわかっていたのだが。

「必要ですか?」

「一応聞いとくわ」

「食用ではないみたいなので、メーカーは思い当たらない。品質が悪そうなので、使い捨て手袋に付いていた物でしょう」

「というと……手袋を着脱しやすくする、あの粉か」

「おそらく」

「でもあの粉は手袋の内側に付けるんやろ。使い捨て手袋の上に軍手をはめとったら、付くはずないやないか。いやそれとも、手袋を着けるときにもう片方の指先に付くんかな」

「それもありますが、分量が多そうなので、軍手の前に使い捨て手袋を着けていたということでしょう。それを脱いで軍手を着けた」

「理屈はそうやけど、なんで使い捨て手袋を着けたり外したりせなならんのやろ」

「それを調べるのは警察でお願いします。次に抹茶」

「それはリストにあるやろ。茶道教室で使ってたのが」

「2種類以上混ざっていますが……」

「いや、それでもパス」

「花がいくつか」

「それもわかってる。パス」

「抹香。おそらく防虫剤」

「それもいらんわ。いや待て、抹香ということは和服用?」

「おそらく」

「茶道家は洋装やったけどな。まあ洋服用の匂いが嫌いなんかもしらへんな。和服用の防虫剤を洋服タンスに入れてても不自然はないやろうし」

「詳細を言うんですか」

「パス」

「それから……」

 渡利は何か言いかけたが、もう一度ビニールの口を開き、今度ははっきりと匂いを嗅ぐ仕草をした。

「どうした、犯人の体臭でもわかった?」

「それもありますが……この手袋は表向きですね」

「そうやと思うけど」

「内側も調べたんでしょう」

「もちろん。犯人が指のどこかに怪我してたら、それも証拠になるからな」

「裏返していいですか」

「原さん、ええかな」

「もちろん、かまへんで」

 原が答えると、渡利は軍手をビニール袋に入れたまま、親指と人差し指の部分だけを内側に押し込んだ。つまり軍手の“口”から裏返った指先部分だけが出る形になっている。そこの臭いを調べたかったらしい。しばらく考え込んだ後でおもむろに口を開いた。

「だめです。種類が多すぎて、判別が付かない」

「何の話?」

「植物の種類。多すぎるのと、葉とか茎とかの青臭さのせいで、他の香りが押さえ込まれている」

「それもええわ。どうせ花の匂いと変わらんやろ」

「そうですか。重要なことのように思いますが。では次に、石鹸」

「それは女物?」

「石鹸に女物も男物もないでしょう。それに手袋の内側からの匂いです」

「犯人は石鹸でよう手を洗っとるちゅうことかな。まあ銘柄わかるんやったら教えて」

 渡利は手元の紙にメーカーと銘柄を書き込んだ。「そんなんわかるんやなあ」と原が感心している。

「それから、土」

「土? そういえばさっき植物の匂いと言うとったけど、農家か? それなら確かに軍手を使いそうやけど」

 こういうところがわかるのが、ここの強みやな、と門木は感心していた。科捜研でも香りの鑑識はできるが、それなりの量が必要な上に、混合物の場合は分別が難しいのだ。そもそも、技官がその匂いを感知できなければ、調査しようと思わないだろう。

「どこの土かまではわからない」

「ええよ、それは鑑識項目に含めて」

「それと男性の体臭がしますが……これは言葉にできません。本人を連れて来てくれたら同定できますが」

「ええよ、それで。その匂いはとりあえず憶えとって。軍手はこんなもんかな。次はマスク」

 マスクからは男性の口臭、それと女物のシャンプーとリンスの香り(後ろから抱き付いているときにマスクが安那の髪に当たっていたのだろう)が検出された。

 衣服に付いていた物質からは特に新しい発見はなかった。しかし、ほとんど“埃”のような繊維片から、渡利が“香水”を嗅ぎ当てたことに門木も原も驚いた。ひょっとしたら茶道家の体臭もわかったんやないやろか、と門木は思った。

「ご苦労さん、参考になった。結果と請求書は原さん宛に回しといて」

「門木ちゃんが受け取ってえな。それにしても、今日一番の結果は、犯人が農業に関係しとるかもっちゅうことやろな。ひょっとしたら、茶農家かもしれん」

「調べは刑事課で頼みますわ。ところで、被害者の辺見安那って知ってる?」

 門木が訊くと、渡利は調査結果を詳細化しながら返事をした。

「知っています」

「会ったことある?」

「あります」

「どこで?」

「ATC」

「ひょっとして茶道教室に参加したことあるとか?」

「いや、そこで使う茶道具を鑑識した時に、その茶道家も同席していた」

「そしたら去年あたりかな。美人やったやろ」

「さて、どうでしたか」

 渡利は言いかけたが、立ち上がって机のところへ行き、抽斗から紙を取り出しながら続けた。請求書だろう。

「そもそも人の美しさはここの鑑識対象じゃないですから」


(続く)

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