第2章 茶道教室 (後編)

 原がエリーゼに質問を続ける。

「こっちの絵は?」

 犯人の隣に、手を腰に当ててポーズを取る女性型マネキンのようなものが描かれていた。絵画のデッサン風だが、なぜかベストを着ている。

「それは私です」

「なんでこんなもん描いてんの」

「犯人と身長を比較するのにちょうどいいと思ったからですよ」

 確かに、何センチメートルと数字で書くよりも、実物大の何かと比べるほうがわかりやすい。それに体格についても、エリーゼが自分の身体と比べてどうかという観点で描いたのに違いないから、実際の印象に近いのだろう。

 ただ、それでも犯人は中肉中背という言葉で表されそうなほど平均的な見かけで、参考にできそうなのは後ろ髪の長さくらいしかない。

「胸の大きさがえらい誇張してあるなあ」

 見なくてもいいものを見ながら原が感想を述べる。

「今は押さえつけているのです。脱ぐとそれくらいになるのですよ」

「ほんまに?」

 原が顔を上げてエリーゼの方を(たぶん胸を)見た。エリーゼは姿勢よく座っていたのを、さらに胸を反らすようにして座り直す。プロポーションの良さを自慢したいらしい。その胸がどれくらい押さえつけられているのはわからないが、原は絵の方に視線を戻した。

「手に持ってたのは普通の布なんかな。それともハンカチか」

「ハンカチだと思いますよ。綺麗にたたんでありましたし、ハンカチらしい大きさをしていました。それから、手袋をしていましたです」

「どんな手袋? 色は……白か」

 絵の中にカタカナで「シロ」と書いてある。

「白かったですが、真っ白ではなかったです。灰色よりは明るいですが、少し黄色が混じっていたように思いますね。光沢が全くなくて、手よりも少し大きいように見えました」

「ぴったりやなかったっちゅうことやな」

「そうです。それから、生地はスウェーターのように編み目が大きく……んん? 目が粗い、というのでしたっけ? そういう生地に見えました。作業用の手袋ではないかと思います」

「軍手やないですか」

 門木が横から口を出すと、原は「なるほど」と呟いて、絵の中に「白い軍手?」と書き加えた。その“軍”が“筆”に見えそうなほど汚い。注釈の意味がない。

「繊維片は鑑識で調べてるから、綿やったら軍手という可能性が高まるな。そうすると、犯人は土木関係者」

「それはいくら何でも絞りすぎですやろ」

「その他、軍手を使うような仕事の人間」

「安うて足が付きにくいもんとしてうただけかもしれませんで。百均やったら二組ふたくみセットで売ってるはずやし」

「エリちゃん、この手袋は新品に見えた?」

「私のことをエリちゃんと呼んでいいとは言ってないですよ、原刑事さん」

 エリと呼んでいい人には何らかの基準があるらしい。少なくとも臨海署の女性刑事は全員該当するはずだが、男性刑事の該当者を門木は知らなかった。門木自身も「エリちゃん」などと呼ぶ気はない。

「ほんなら探偵」

「一般市民ですよ。三浦さんです」

「ほな三浦ちゃん、手袋は新品やった?」

「手袋だけでなく、帽子も服も靴も全部新品に見えましたですよ」

 そうするとこれらは犯行のために準備した物だろうか、と門木は考えた。ならば、安那の衣服から何かが検出されても、犯人の手がかりにならない可能性が高い。科捜研の調査を待たなければならないが、いつになることやら。

「犯行用に準備した物やとしたら、証拠隠滅のためにどこかに捨てた可能性もあるな」

 原が門木の方を見ながら呟いたが、門木は他人事のように「そうですなあ」と受け流した。証拠探しは鑑識の仕事だし、ぜひとも探し出してくれという感じで言われても困る。

「不思議ですね。捨てるのなら家へ持って帰って、ゴミの日に出してしまうのが一番見つかりにくいはずなのに、現場の近くで捨てようとするなんて、私には考えられませんですよ」

「うん、しかしそれが犯罪者の心理らしいんやな。証拠は自分からなるべく遠くへ離しておきたいというのと、現場から家へ帰り着くまでに見つかったら困るというのと。この二つの心理によって、現場の近くへ証拠物件を捨てるという行動に出るんや。例えば今回の場合やと……」

「ところでお前はなんで駐車場におったんや?」

 原が機嫌よく捜査情報を話しそうになったので、門木は割って入った。エリーゼはどうせバイクで来たに違いないが、ATCの駐車場にバイクは置けない。別に駐輪場があるので、エリーゼが駐車場にいるのはおかしい、と考えたのだ。

「一般市民に向かってお前とは失礼ですよ」

「じゃあ、あなたはなぜ駐車場に?」

「安那先生の熱烈な支持者なので、お帰りになるのをお見送りしたかったのです。毎回してますよ」

「それをやす……いや、辺見さんは知ってるんか?」

「私が熱烈な支持者だということはご存じのはずです」

「いや、毎回見送りに行ってることを」

「ご存じないと思いますね。私の密かな楽しみなのですから」

「怪しいな。ボディーガードか監視を依頼されてるんとちゃうか」

「それはありませんですね。たとえ依頼だったとしても、はいそうですと答えるわけがないですよ。それにボディーガードなら正義の味方ですから、怪しいというのはおかしいではないですか」

「そやから監視」

「いえいえ、善意の一般市民です」

 エリーゼの表情は常に自信満々で、それは作り笑顔だということはわかっているのだが、嘘をついているとか何かを隠しているとかの証拠にはならない。それに被害を未遂で防いだという実績が付いてしまっている。これでは門木も疑いを引っ込めるしかない。

「じゃあ善意の一般市民さんは次回以降も辺見さんの帰りを見送ってあげてくれ。そしたらちょっとは安心や。ついでに来たときのお迎えもした方がええんとちゃうかな」

「それは依頼ですかね?」

「単なるお願いや、善意に基づく行動としてのな。それと、追っかけをするなら本人に言うとかんと、ストーカー扱いされるで」

「フェルシュテーエン、了解です。今回のことがあるので、積極的にお迎えとお見送りするようにしましょう。安那先生が怖がって来てくださらなくなったら、私も大変失望しますから」

「そうや、一つ訊くこと思い出したけど、暴漢は駐車場から建物の中へ戻ったんやな?」

 原が今さらのように尋ねた。さっきまで門木が割り込んでいたが、それはそれで重要だったので、話に区切りが付くのを待っていたのだろう。

「そうです。一度出口の方へ向かったように見えましたが、駐車場の中をぐるっと回って建物の中へ戻りました。それが何か?」

「犯人が何をしようとしたかわからへん。もしクロロホルムで気絶させようとしたとしてやな、まあそういうことはでけへんのやけど、どっかへ連れ去るんが目的やったら、近くに車を置いてんとおかしい。痴漢やったら身体をべたべたさわったりすると思うけど、それもしてない。何が目的で口をふさいだんかと」

「気絶させてから何かをしようとしたのですかね。案外、バッグの中の物を奪い取ろうとしたのかもしれませんですよ」

「強盗か。そういう線でも考えなあかんとすると、ものすごい大規模になりそうやなあ」

 その後、エリーゼを帰らせたが、まだ絵を見ている原に、門木は訊いてみた。

「なんであんな風に捜査情報を探偵にべらべらしゃべるんです?」

「別に、探偵やからしゃべったんやないけどな」

 原は絵から目を離さずに言った。ご丁寧に、女性型マネキンの図には「タンテイの実物大」と注記が加えてある。しかし、その実物の身長が何センチメートルとかがわからなければあまり意味のない情報だろう。

「婦女暴行やらストーカーやらを防ぐには、監視カメラだけやなくて市民の目が必要やからな。あの娘が仕事で茶道家をボディーガードしてるんやとしても、犯人の目的をあれこれ考えさせた方が、防御もそれなりにできるようになるやろ。今回の捜査には役立たんけど、今後の備えみたいなもんやな」

「なるほどね。でも、どうせ利用するんやったらもっと積極的に利用しましょうや」

「どうやって?」

 原はそこでようやく顔を上げて門木の方を見た。あの探偵は臨海署のほぼ全ての警察官がその存在を知っているのだが、一番煙たがっているのが門木なのだ。それなのになぜ利用しようなどと言い出すのかと不思議に思ったのだろう。

「証拠物件が出てきたら、参考までに意見を聞きたいと言うて、見せたったらえんです。あいつが仕事で茶道家をボディーガードしてるんやったら、勝手に捜査始めるでしょ」

「なるほど。ほんなら、それをやるときは門木ちゃんの責任でやらせてもらうわ」

「いや、それはない」

 しかし、門木の提案は実現されなかった。ATC2階のゴミ箱から軍手とマスクは発見されたが、その他の証拠物件は何も発見できず、「これだけを見せても参考にならない」と原が判断したのだった。

 もちろん付着物は鑑識と科捜研で調べられ、マスクの唾液からDNAが検出されたものの、過去のデータベースにはヒットせず、またATCの職員や茶道・華道・詩吟の各教室の参加者とも一致しなかったのだった。


(続く)

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