第2章 茶道教室 (前編)

 大阪市内最大の人工島・咲洲さきしまには、住宅と工場だけでなく、イベントを開催できる建物がいくつかある。ATCことアジア太平洋トレンドセンターはその一つだ。総面積7千平方メートルのATCホールは大規模なイベントに使用できるし、ITM(インターナショナルトレードマート)棟の11階と12階には催事場がある。

 その日は11階のエイジレスセンターで、月に一度の茶道教室・華道教室・詩吟教室が開かれていた。各教室は滞りなく無事に終わったのだが、その後で事件が発生した。茶道教室の講師で相庵流の次期家元候補である辺見やすが、帰りに駐車場で暴漢に襲われたのだ。

 悲鳴を聞いて、警備員と善意の一般市民(女性)が駆けつけたため、暴漢は逃走し、安那に怪我はなかった。病院へ行くこともなかったが、事情聴取のため大阪臨海署へ連れて行かれた。有名な茶道家が襲われたとあって、臨海署では捜査員を大動員し、現場での遺留物収集や犯人の逃走経路の調査に当たった。

 事情聴取に先立ち、安那の衣服や肌から遺留物採取が行われた。要するに、繊維片や微量物質の類いを鑑識や科捜研で調べて、暴漢の特徴を割り出すためのもの。後ろから抱き付かれ、口に布をあてがわれたということで、接触したと思われる部分を中心に(もちろん口の周りも含め)女性の刑事および鑑識員によって行われた。

 そして事情聴取。布で口を塞がれたため、解放された後の安那の顔は化粧が乱れ、口紅がはみ出すなどしていたが、肌からの証拠物採取の後で化粧を直し、事情聴取場所である会議室に現れたときには、居並ぶ刑事たちから(女性も含め)感嘆のため息が漏れるほどの美しさに戻っていた。大学時代は「アイドル並み」と評されていたが、今では「女優並み」だ。

 ショックを受けたためか、微かに愁いを帯びた表情が保護欲をそそる。「海棠かいどうの雨に濡れたる風情」とはこのことかと実感した者もあろう。もちろん、そんなことは聴取資料に一切書かれない。

 ついでに安那の事情聴取に当たる刑事もいつもの3倍増しとなったが、これは単に美貌の茶道家を、生で一目見たいという下心であったかもしれない。

「茶道教室が終わったのは4時頃でした。参加者の皆様と挨拶を済ませ、お隣の華道教室の講師が知人だったためそこでも挨拶して、駐車場へ入ったのは4時20分頃だったと思います。車に近付いてバッグから鍵を取り出そうとしていたら、後ろから急に誰かが現れて、つかみかかられました。男の人でした。声を上げたのですが、すぐに白い布で口を塞がれました。息をしてはいけないと思い、息を止めたまま暴漢から離れようともがいてましたが、苦しくなってきたのでもうダメだと思いました。そこへどこからか男の人と女の人の声が聞こえて、急に暴漢が手を離しました。よろけたときに膝をつきましたが、そのときに掌を少しすりむきました。暴漢は逃げて行ったようです」

 以上が安那の証言の概要だった。暴漢の姿の特徴はよくわからず、黒いジャージを着ていて、安那よりも背が高く(ちなみに安那自身も女性としては背が高く165センチある)力が強いということだけを憶えていた。

 助けに駆けつけた二人の証言により、襲ったのが確かに男性であったことが確認され、さらに黒い帽子にサングラスを着けていたこと、マスクをして人相は全くわからなかったこと、体格は中肉中背で黒いジャージの上下を厚ぼったく着ていたことが追加された。なお誰も暴漢を追わなかったため、どこへ逃走したかは不明。

「布で口を押さえられたということですが、何か匂いがしましたか?」

 事情聴取の主担当である、刑事課の原警部補が訊いた。普段は強盗犯や窃盗犯を相手にしかめっ面をしているが、今日ばかりは慣れない笑顔を精一杯引き出している。

「さあ、息を止めていたのでよく憶えていませんが……甘いような、刺激的なような……」

「クロロホルムかもしれませんね。ただ、これは知っていていいこと思いますが、クロロホルムを嗅ぐと気を失うというのは嘘ですよ。大量に吸い込むと多少気分が悪くなる程度です。だから息を止めなくても大丈夫です」

「あ、そうでしたか……」

 安那は初めて知ったというような軽い驚きの表情を見せた。やはり一般人は、フィクションの世界のでたらめな知識を刷り込まれているのだ。病院で使う吸気式の麻酔薬ですら、眠りに落ちるまで数分かかる。

「それで、後ろから抱き付かれて、左手で身体、右手で顔を押さえられた」

「はい」

「左手は肩から胸の辺り……触られているという手の動きではなかったということですが?」

「はい、そうは感じませんでした」

 これらに関しては証拠物採取の時に聞き取り済み(採取する部分を特定するため)なので、改めて確認しているだけだ。

「犯人は声は出しませんでしたか」

「はい、マスク越しに私の頭の後ろに息がかかっていて、小さな唸り声のようなものは上げていましたが、言葉は聞き取れませんでした」

「そのうめき声に聞き覚えは」

「さあ、その声だけでは……」

「匂いはしませんでしたか、体臭とか口臭とか」

「憶えていません。それに襲われてすぐに口と鼻の辺りを塞がれてしまったので」

「相手が逃げるところを見ましたか。走り方とかに見覚えは」

「見ていませんでした。転んで地面に膝をついていましたし、息が苦しかったので振り返る余裕もなくて……」

 暴漢が逃げる姿については、警備員は見ていなかったが、善意の一般市民(女性)の方が見ていた。ただし「かっこわるくて速そうに見えなかった」というだけで、目立つ特徴はなかったらしい。

「今までに襲われたことは」

「ございません」

「出歩いてるときに、誰かに跡をけられてると思ったようなことは」

「ございません」

 これらについては堺の警察署へ問い合わせ済みで、過去にストーカー被害はなかったことがわかっている。電話をしたときに相手の刑事が「本署からも事情聴取に参加したいのだが」などと異例のことを言ってきたので、向こうではよほどの重要人物と考えているのだろうと、原も驚いたくらいだった。

 そのあと原は、ATCでの茶道教室はいつからやっているか、参加者に男性はいるか、その中に言い寄ってきたりする人はいなかったかなどを尋ねた。教室は1年半ほど前から実施しており、月一で毎回平日の午後に行われるが、会社員と思われるような男性も何人か参加していたらしい。いずれも、茶道より安那に興味を持っていると思われたが、犯人特定にはつながらなかった。

 事情聴取が終わると、安那は自身で車を運転して家に帰ったが、護衛の覆面パトカーが1台付けられた。


 警備員への事情聴取の後、「善意の一般市民(女性)」への聞き取りが行われた。

「一般市民とちゃうやないか」

 原はその女性を見ながら呆れ顔で言った。

「とんでもない。茶道教室には公募で当選して参加したのですよ。仕事ではなしに。だから一般市民なのです」

 三浦エリことエリーゼ・ミュラーは得意気な笑顔で言った。公募で当選したというのはそのとおりらしいのだが、参加するときはいつもと同じような、紺のベストに紺のスラックス、白地にグリーンとブラウンのピンストライプブラウスという、“仕事着”姿だった。「事件はいつ起こるかわからないので、動きやすい服装をしているのです」というのがその言い分だ。実際、今回は役立ったとも言えるが。

「それやったら暴漢を追いかけてくれとったら、もっと役に立ったのに」

「安那先生の安全が優先です。それに、私は警備員のおじさんに、あの人を追いかけて下さいと言ったのですよ。おじさんが安那先生に見とれて、追いかけるのをサボっただけです」

 その警備員に訊いたときも「人の安全が優先」と言っていた。ガードマンではなく、駐車場の誘導係同然であるから、暴漢を追いかけて取り押さえようなどとは思いもしなかったのだろう。

「まあええわ。それで、暴漢の詳しい特徴を教えてくれることになっとったけど」

「その前に、どうして門木刑事さんがこの事件の事情聴取に来ているのか、教えてくださいませんかね。生活安全課なのでしょう?」

「余計なこと訊きよるなあ」

 原の横で、やる気のない態度で座っていた門木は呟いた。門木自身も、なぜ生活安全課の自分がこの件に参加を要請されたのかよくわかっていない。しかも門木の他に、聴取に参加する刑事は誰もいなくなっていた。

「実は犯人はストーカーで、襲われた茶道家がそのことに気付いてなかった、という可能性があるちゅうことで」

「なるほど、人手不足というわけではないのですね」

 原の説明にエリーゼが相槌を打ったが、門木としてはエリーゼが言った“人手不足”のせいだろうと思っていた。たまたま別の事件で刑事課の人員を取られていたところに、今回の“総動員”がかかったというのが裏事情なのに決まっている。

「それで、犯人の詳しい特徴」

「ちゃんと絵を描いておきましたですよ」

 エリーゼが誇らしげに絵を見せてきた。画用紙を用意してくれとのことだったので、原が似顔絵捜査官の使っている用紙を与えたら、待っている間に描き上げたらしい。

「……ほー、けっこううまいな」

「知り合いの漫画家に習ったのですよ」

 エリーゼが鼻高々の――実際に高くて綺麗な形だが――顔をするだけあって、描かれた立像は帽子やサングラスの形、ジャージの模様とだぶつき具合が、劇画のように写実的に描写されていた。ところどころに注釈が入っているのは親切だが、困ったことにカタカナと外国語が混じっていて、しかもかろうじて読める程度の下手さだ。注釈の注釈を入れなければならないだろう。


(続く)

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