第4話 憂える茶道家の謎
第1章 抹茶賞味
日本で茶を飲む習慣は、平安時代に遣唐使が持ち帰ってきたとされる。当時は薬として用いられており、栄西が『喫茶養生記』を書いたことからもその事実を窺うことができる。「茶は養生の仙薬なり」で始まるこの文書は、医書なのだ。
それがなぜか鎌倉末期には、飲んだ茶の銘柄を当てる「闘茶」という、賭博まがいの遊戯に発展した。実際に金品が絡むこともあった。これを禁止し、茶会での亭主と客の落ち着いた対峙を楽しむ「わび茶」を創始したのが室町時代中期の僧、村田
紹鴎と利休の
ただ、一筋の明るい光はある。相庵流の若き家元候補、辺見
茶を楽しむことよりも、茶を点てる所作や、周りの雰囲気の方に注目が集まりすぎているのではないだろうか、というのが安那の感じるところだった。あたかも、服としての実用性を無視したファッションショーのように。だがその潮流を覆すことは、実際のところ難しい。今の安那にできることではない。まだ一人前にもなれていないのだから。
ただ、家元になってから茶道の未来を考えていたのでは遅すぎる。今からそれを考え、行動しつつ、なるべく早く家元を継ぎたい。もちろん、その実力を付けて。
しかし現時点の安那は、それ以前の問題を抱えていた。
来客の知らせがあってから、思ったよりも長い時間の後で、部屋の前に人が来る気配がした。安那は障子の方へ向いて座り直したが、廊下からお手伝いが「お座り下さい」と客をたしなめる声がした。立っている客の姿が、障子越しに透けて見えている。
「このままで」と客は言った。若い男性の声で、無愛想な表情が頭に思い浮かぶような素っ気なさ。
「お座り下さい」
「どうせすぐに立つのでしょう」
「安那様に失礼です。お座り下さい」
「あの、
なおもお手伝いが繰り返す声に、安那は静かに部屋の中から呼びかけた。「はい」と乾いた返事があった。
「お客様はお立ちになったままで結構です。私も立ってお迎えしますから」
「でも、そんな無作法な」
「いいですから」
安那は立ち上がると、障子のところまで行き、音を立てずに開けた。薄い色のサングラスをかけた男性が立っており、その横にお手伝いが膝をついて座っている。お手伝いは呆れ顔で安那を見上げていた。
「渡利様ですね。どうぞお入りになって」
笑顔で安那は言って、渡利を部屋へ迎え入れた。お手伝いにうなずいて見せると、呆れ顔のまま障子を閉めた。廊下を去って行く足音がいつもより高く聞こえる。そこまで機嫌を悪くするほどのことか、と感じなくもない。
渡利に座を勧め、安那も向かい合わせになって座った。私室に若い男性を入れて、二人きりになるというのは初めてのことだった。本当は椅子のある来客室を使いたかったのだが、お手伝いの部屋に近いので、避けたのだ。
相手は、思っていたよりもずっと若かった。なんでもこなす鑑定家、ということだったので、30代から40代を想像していたのだが、どう見ても20代の前半だ。安那自身よりも三つ四つ年下に見える。
グレーの薄手のジャケットに、白いワイシャツ、濃いグレーのスラックスという、和室には似つかわしくない出で立ちだった。しかし安那の方も、白い長袖のニットシャツに、膝下丈のフレアスカートという洋装。これは平服で来てもらうように申し合わせた結果なのだが、侘びのある和室に向かい合って座ると、やはり不自然な感じがするのを否めない。しかも安那の前には茶道具が置いてある。
「本日はご足労いただきまして、ありがとうございました」
安那は渡利に向かって手をつき、頭を下げた。渡利は胡座のまま無言で会釈した。
「遅くなりました。もう少し早く来るべきでした」
「あ……あの、申し訳ありません、お待たせしてしまって」
待たせたのは安那ではなかった。3時に来客があることをお手伝いに告げ、安那はその30分も前から部屋の準備を整えていた。しかし3時5分前に来客の気配があったにもかかわらず、案内されてきたのはその15分後だった。
お手伝いは来客を知らせに来たが、そんなことをせず、すぐに通すように言ってあったのに。それでもお手伝いは、準備ができるまでお待ち下さい、とでも言って彼を待たせたのだろう。それがなぜか、この家のやり方なのだ。
家だけではない、茶会の時にも客を必要以上に待たせ、亭主は遅れて悠々と現れ、客は這いつくばって挨拶をすることになっている。それが本当に礼儀なのだろうか。亭主と客は対等というのが基本であるのに。
「いつから始めますか」
「はい、すぐに」
安那は一礼し、袱紗を捌いた。今日は彼に茶を振る舞うことになっているが、いつもの点前とは違って、茶器類を運んだり並べたりする段取りは省略している。部屋に花を活けたり香木を置いたりするところから、全て準備を済ませておいた。点前の手順を見せるのが目的ではないから。
ただ、柄杓で湯を汲むところからは普通の手順にした。点てた茶を渡利の前へ差し出す。
「どうぞ」
渡利はにじり寄っては来ず、左手を畳につき、右手を伸ばして茶碗を取った。茶碗を回すこともしなかった。今日は茶会ではないのだから、作法どおりでなくても安那は気にしないでいた。ただ、渡利の動きは無駄がなく、作法はともかく“侘びさび”に通じるところがないでもない。
渡利が茶碗の中を覗き込んだとき、サングラス越しに目を細めたのが見て取れた。冷たい目だった。それから茶を口に含んだが、特に味わっている様子もなく、また香りを嗅いでいるようにも見えなかった。
それでも安那はいつになく自分が緊張しているのを感じていた。稽古で師(父)を相手に点てるときでも、これほど緊張したことは久しくない。数年前に外国の大使を相手に点前を披露した時くらいだろうか。あの時は点前の最中に英語で挨拶をしなければならない、というので緊張したのだったが……
「粉の方を」
「はい」
安那は横の盆に置いていた懐紙を取り、
そういえば、点てた茶と抹茶そのものの味を見る間に、口をゆすぐ必要があるかと思ってグラスに水を用意しておいたのに、出すのを忘れていた。いつもの手順にないからだろう。やろうと決めていたことを、思い出せないほど緊張しているのか……
「特に問題があるようには感じません。点てた物は粉の味から推定される完全なものです」
「そうですか……ありがとうございます」
安那はまた手をついて一礼した。点てた茶が、抹茶そのものの味を十分に引き出しているかを鑑定して欲しい。それが今回彼に依頼した内容だった。こんなことを、師匠や門人に依頼するわけにはいかない。日本茶の鑑定士というのもいるのだが、茶道の家元筋ともあろう者が、そんな資格者に茶の味を見て欲しいなどと頼めるはずがない。
かと言って科学的な調査をしても、粉末状態の抹茶と点てた茶の味(成分というべきか)が同一であることはわかりきっている。
あくまでも“人間の味覚”で茶の味を
「鑑識結果を書面にしたものは必要ないとのことでしたので、今の言葉をもって結果報告としますが、よろしいですか」
「はい、それで結構です……では、こちらの依頼料をお納め下さい。それから、わずかですが謝礼を用意しましたので……」
「謝礼は必要ありません」
安那が袱紗に置いて差し出した二つの金封のうち、渡利は無地の袋だけを取り、のし袋を突き返してきた。
「ですが、わざわざご足労いただいた上に、無用にお待たせしてしまったのに……」
「出張料と交通費は規定の金額を頂きましたので」
その出張料と交通費は合わせて2千円。鑑識料の千円とで、合計3千円だけが無地の袋に入れてあった。金額は依頼したときに通知されたものだ。わざわざ来てもらうのにあまりにも少ないと思い、のし袋の方には1万円を入れておいた。
しかしそれは袱紗の上に置き去りにされ、さらにその上に「三千円」と書かれた領収書が載せられた。但し書きには「依頼料、交通費、出張費」とある。
「そうですか、では……こちらは引かせていただきます」
「今日の香は白檀ですか」
「えっ?」
唐突な質問に安那は驚いた。
「はい、そうですが、それが何か……」
「お気になさらず、参考までです」
渡利は何気なく言ったが、部屋へ入ったときに香を聞いていたのに違いない。安那の心の中に不安がわき起こってきた。何か違う香りが混じっているのだろうか。だとしたら彼は、私の“本当の心配事”に気付いてしまったのではないだろうか……
「他の用がなければこれで失礼します」
「はい、ありがとうございました。玄関まで送らせます」
「必要ありません。帰ることさえ伝えてもらえれば」
「はあ……」
内線電話でお手伝いを呼び出したときには、渡利は既に障子を開けて廊下へ出ていた。その去って行く姿を見ながらお手伝いに客の帰りを告げ、安那は部屋の片付けを始める。茶碗の中には、点てた茶のほとんどが残されていた。渡利がほんの一口しか飲んでいないことを物語っていた。
何から何まで異例の来客だった。後片付けが終わると、安那は激しい疲れを感じていた。やはり彼に“心配事”を気付かれたのではという気がして、それが影響しているのかもしれない……
(続く)
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