第7章 病人の出頭
翌日。
その日も、午後から行旅病人の行方の調査を始めよう、と
「門木さん、大変大変! 逃げた病人さんが出頭して来はりました!」
左手に受話器、右手におやつを持った田名瀬が、門木の方を向いて言った。声は大変そうだが、表情は大変そうではない。おやつを早く口に入れたそうにしている。
「出頭? え、どこに?」
「ここです。受付に来てはるそうです。生活安全課の担当に会わせてくださいて言うてはるみたいです」
逃げた行旅病人を探す担当は、門木に割り当たったままなので、会わねばならない。しかし、一人でやろうとすると、書類を回したりする手続きの時に時間がかかる。「お前も来い」と田名瀬に言うと、田名瀬は「えー」と不満そうな顔をしながら、おやつを口に入れた後で付いて来た。
受付まで降りて、さて行旅病人は、と探したが、それらしい姿がない。しかし受付係に訊くと、「そこのベンチにいてはる人が」とのこと。
その男はスーツを着ていた。道理で病人に見えないわけだが、いったいどういうことか。ホームレスだったのではないのか。
男のスーツは汚れてもおらず、むしろ買ったばかりのように見える。いわゆる「着こなした感じ」がない。髭は綺麗に剃っているが、顔色は良くなく、髪もそこそこ伸びている。要するにやつれた感じだ。
とりあえず、相談室に連れて行く。名前を聞くと「
「せっかく入院させてもらったのに、逃げ出してしまって、申し訳ありません。名前を知られるのが怖かったんです」
「前科でも持ってんのかいな」
「いえ、ホームレスをしていることを、この近くに住んでいる人に知られるのが……」
それはあるだろう。それなら知り合いが誰もいないところでホームレスをすれば、と思ってしまうところだが、土地鑑がないところでは色々と不便が生じるものだ。何年も続けて「ベテラン」のホームレスになってしまえば何も気にならなくなるはずだが、そこまで達するのはなかなか難しい。特に、この男のように若い場合は。
そうだ、見るからに若い! 顔色が悪いのは栄養が足りてないからだろうが、まだ30歳にはなっていないだろう。一体何があったというのか。もちろん、それを詮索するのは警察の仕事ではないのだが。
「それで、出頭した理由は」
「治療費と入院費を払いに来ました」
「ホームレスやと思っとったけど、どこかで金作って来たんか」
「ある人から借りました。それと、持ち物を返してもらいに……」
主目的はそっちやろうな、と門木は思った。特に、あの懐中時計だろう。何かの謂われがあって、取り戻しに来たのに違いない。もちろんそれについても、詮索するのは警察の仕事ではない。しかし、気になることは気になる。
「素直に朝まで入院して、退院してくれたんやったら何の書類もいらんかったんやけど、正規の手続き外になってしもうたんで、受取書は書いてもらうで」
「わかりました。しかし、住所は書くことができなくて……」
「実家もないんかいな」
「火事で、焼けてしまいました。両親もおりません。僕はその時はこっちにいなくて、その後で仕事も辞めてしまいました。身寄りもこの近くにはいません。親戚が火事の後に両親の遺産や何かを整理してくれたんですが、その時に金をだまし取って逃げてしまったんです」
「そら二重の災難やったな。そうすると、連絡先になるところも?」
「それは……それを訊かれたときには、書いてもいいという住所があるんですが……」
「とりあえず、それ書いて。それから、身分証明書……は持ってんのかいな」
「キャッシュカードと戸籍謄本が」
行旅病人として収容されたときには、そんな物は持っていなかったはずだ。どこかに預けていたとでもいうのだろうか。身分証明のような大事なものを。
「その前に、こっちで預かってることになってるものを訊いとくわ。今回は、遺失物の受け取りっちゅう扱いになってるんで」
「はい、財布と懐中時計です」
財布の特徴や中身も、懐中時計のデザインも、正堂が答えたもので間違いなかった。特に、懐中時計のことは微に入り細を穿った説明だった。
受取書に名前と住所を書かせる。正堂が書いた住所は、大阪市住之江区南港東――
「ちょぉ待て、それ、お前、探偵の住所やないか!」
「うわあ、ほんまや、エリちゃんの事務所の住所や!」
門木の指摘に、田名瀬が驚きの声を上げた。
「彼女が、そうしていいと言うてました。何やったら、電話で確認してもらっても……」
「というか、そうするとお前をここへ出頭させたんは、あの探偵やっちゅうことやな?」
「はい」
正堂は澄ました顔で答えたが、門木には訳が解らなかった。あいつが探してたのは懐中時計のはずやないか。それが、どこからホームレス探しになったんや?
そしてさっき正堂は懐中時計を、まるで自分のものであったかのように詳しく説明した。時計を探す依頼者は女だったはず。一体、誰の持ち物だというのか?
その時、応接室にノックがあって、制服の警官が二人、敬礼しながら入ってきた。
「え、髭なくなってるやないですか。うーん、こんな顔やったかな。夜で真っ暗やったんで、ようわかりませんわ。背格好は確かにこんな感じやったけど。あ、髪の毛の長さもかな」
「警邏の警官がそんなこと憶えてへんでどうするんや。何のための警邏や!」
「わあ、すんません、すんません!」
恐縮する二人を追い返す。これ以上確認が必要なら、病院の看護婦を呼んだ方がいいかもしれない。もっとも、そのところは門木の裁量でよくて、状況的に本人で間違いないだろうと思える。
「そしたら、これな。財布と、懐中時計」
「ありがとうございます」
正堂は財布よりも懐中時計の方を大事そうに手の中に収めた。
「親の形見か何か?」
「いえ、僕のものではないです。ただ、これを返さないといけない人がいるので、取りに来ました。その人は、これを川に落として、見つからへんかったので、途方に暮れてるらしくて」
「はあ、そしたら、その人に返したってくれ。別に、君がそれを拾ったいきさつまで、わしらに話して欲しいとは言わへんけど……」
「いや、一応話しておこうと思います。探偵さんにも、聞いてもらいました。この時計は、この近くに住んでいる人のものなんです。僕がこの時計を偶然手に入れて、返すために
昨日、探偵と一緒にいた女性が「その人」であろう。それでだいたい話はつながった。しかし、エリーゼはどうやって正堂の存在を知り、見つけ出したのか?
「時計は、大和川の阪堺大橋の下で拾いました。一昨日のことです。僕は体調が悪くなって橋の下で寝てたんですが、もう一人ホームレスがいて、そいつと話をしていました。仲間内ではトロって呼ばれる、中年の男です。
その時に、何かが川に落ちる音がしました。橋の上から落ちてきたようでした。でも、音からして空き缶やゴミではなさそうやし、『金目のものだったら儲けもん』とか言うて、トロが拾いに行ったんです。そいつ、しょっちゅうゴミ箱とかあさってる奴で。
街灯の下に落ちてたんで、すぐに見つかったみたいです。それがこの時計でした。トロは僕に時計を見せて、値打ちがわかるか、と訊きました。僕は機械いじりが好きで、それをホームレス仲間に知られてるんで、訊いてきたんでしょう。
ところが、値打ちどころやない、僕が知ってる時計やったんです。一目見てわかりました。その時計の持ち主に、昔、見せてもらったことがあるんです。その時に、時計の価値がわかったのは、僕だけでした。骨董品というだけやない、素晴らしい思い出と、重い価値と持った時計でした。一時期、僕が預かっていたこともありました。時計を修理したんです。でも最終的に、まだ僕はそれを持つような身の程には至っていない、と言うて、その人に返してしもうたんです。思えば、それが今のこの有様に陥る原因の一つでしたね。時計を持っていれば、もっと頑張れたかもしれない。
まあ、そんな悔恨はここではよしておきましょう。とにかく僕はトロに、時計を譲ってくれと言いました。そうしたらトロは、これが値打ちのある時計だと気付いたんでしょう。金を要求してきました。そして、どれくらいの値打ちがあるのか、質屋に見てもらう、と言って、北加賀屋の店まで僕を連れて行きました。それで、水没してたのを直したら1万円と言われたらしくて、『1万円出したら譲ったる』と僕に言いました。
1万円なんてとても出せませんから、必ずそのうち金を作る、と言うて、借金の
逃げ出した後は、トロにも合わせる顔がなかったし、阪堺大橋の下にもいづらくなって、違うところで過ごそうと思って、大和川をさかのぼりました」
「ちょっと。大和川をさかのぼったのは何で?」
「それはその……僕が昔、住んでたんが藤井寺で、大和川の近くやったんで。だから何となく、大和川から離れがたくて……」
「住之江の交番の巡査は、君のことをイサムと呼んでたようやが」
「ホームレス仲間に本名を知られるのが嫌やったんで、そう名乗ってたんです。本名の勇心の『勇』を訓読みにしたんです」
「わかった。中断してすまん、話の続きを」
「よさそうな居場所を見つけてから、大阪市内に仕事を見つけに行きました。その日は見つけられず、夜になって、居場所に決めた橋の下に戻ったら、僕宛らしいメッセージが橋台の壁に書いてあって……」
「メッセージ?」
「はあ、その……落書きかと思ったんですが、よう見たら、相合い傘に僕の名前と、かの……その時計の持ち主の名前が書いてあって、その横に、懐中時計らしいものが描かれてて。僕と、その時計と、持ち主との関係を知っている人が描いたんやと、直感しました。そして、僕を探してるんやと思って……」
橋の下に、相合い傘の落書き! 何とも奇抜なメッセージを考えたものだ。他の人が見たのでは、それが特定の人物へのメッセージだとはわかるまい。彼の名が「勇心」という、ちょっと珍しいものだったことも、手助けになっただろう。
探偵め、なかなかやる、と門木は思った。しかも、ドイツ人のくせに「相合い傘」を知っているとは……
「それで……」
「行くべき場所は、もちろん阪堺大橋の下やと思いました。時間は、絵の中の懐中時計が9時になっていたので、その夜に行ってみました。でも、誰もいなかったので、今朝も行ったら、探偵がいたんです。時計の持ち主から依頼を受けて探してた。僕がその時計を持っていると思ったので、メッセージを書いて呼び出した、ということでした。その橋だけやなくて、藤井寺の手前まで、全部の橋の下に書いたらしいですが……」
何ちゅうことを。全部消させなあかん、と門木は思った。
「しかし、何で君が持ってると思ったんか、さっぱりわからんな」
「僕も同じです。でも、彼女によれば、質屋で聞き込みをしたときに、ピンときたらしいです。時計の価値を訊きに来た男がいた。他にもう一人いたようや。では、その二人の間で時計を売り買いしようとしたんやろう。実際に売り買いしたに違いない。ホームレスがそこまでして、時計を買った理由は何か? その時計の、本来の価値と持ち主を、知っていたからに違いない、と」
「論理が飛躍しとるなあ」
「僕もそう思いましたが、実際に当たってるし、その時は感心するしかありませんでした。彼女は、持ち主や知人から過去のことを訊いて、その友人で、時計の価値を知っていて、なおかつホームレスになっていそうな男を探したそうです。わずか1日で見つかったんは運がいい、とは言うてましたが……」
「それで君は、時計は病院に置いてきた、と言うた。たぶん警察が預かってると……」
「はい、そうしたら、どうしても自分で取り戻しに行け、と。過去を取り戻すチャンスは、今しかないとも言うてました。治療費と入院費も、トロへ返す金も、貸してくれました。服を買う金も出してくれたし、スーパー銭湯で身体を綺麗にして髭を剃れとかも言われて。何から何まで世話してもらって、彼女には足を向けて寝られません。もちろん、これから真面目に仕事して、ホームレスも脱却して、彼女に金を返すし、時計の持ち主に会いに行くことも約束しました。何年かかるかわかりませんが、必ずやり遂げます」
隣で鼻をすする音がした。門木は田名瀬の方を見て、ぎょっとした。目にハンカチを押し当てている。何で泣いてんねん!
「ええ話ですねー。後でエリちゃんに詳しいこと聞きに行ってきます」
「いや、聞きに行かんでええから!」
(第3話 終わり)
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