第6章 過去の関係 (後編)

 大阪メトロ堺筋線長堀橋駅の北改札で、6時。会社が引けてから、宇井は指定された場所に来た。大学時代のクラブの先輩の、鳥居弥子みこからSNSで連絡が来た。ただし、待っているのは彼女ではない。「いかにも探偵さんらしい格好をした女の人!」であるらしい。あまり見かけない顔文字が付いていたが、どうやら女の顔を表現したもののようだ。

 「探偵らしい格好」は何となく想像できる。鳥打ち帽にコートだろう。もしかしたら虫眼鏡かパイプを持っているかもしれない。あるいは黒いスーツにトレンチコートか。しかし、女がそんな格好をしているのかどうか。

 だが、改札右手の壁際の、コインロッカーの横に立っていたのは、白いブラウス、黒のベスト、同じ色のスラックス、そして同じ色の中折れ帽の人物だった。その中折れ帽に右手をかけて、顔を隠しながら立っている。

 あ、探偵らしい格好って、そっち系ね、と宇井は思った。昔のテレビ番組の再放送で見たことがあるような服装だ。身長は160センチくらい。足がやけに長く見える。ほんまに女? いや、尻から足のラインは確かに女やけど。

「えーと、三浦さん?」

 宇井が近付いて声をかけると、探偵は帽子に手をかけたまま「ヤー、さようでございます」と返事をした。まだ顔は見えない。

「ウイギンゾー様ですか?」

 いつもならここで「ウィー、ムッシュ」などというギャグをかますところだが、相手が女であることから、ムッシュと言ってはいけないと思い付き、「はい、宇井銀蔵です」と少し上ずった声で返事をしてしまった。

「初めまして。鳥居弥子様にお願いして、お会いする約束を取り付けていただいた、探偵の三浦エリでございます」

 探偵は帽子を取りながら言ったが、その顔を見て宇井は飛び上がりそうになった。

「うええー! めっちゃ美人やん!」

 心の中でそう思っただけのはずが、すっかり声に出してしまっていた。それにめっちゃ巨乳! さすがにそれは口に出さなかった。

「お褒めにあずかり恐縮です。お話ができるところへ移動したいですが、喫茶店で良いでしょうか。それとも、どこか適当なお店をご存じですか?」

「あ、ええとこ知ってる知ってる。俺、この辺詳しいから。でも、喫茶店やなくて、ちゃんとした食事できるところにせえへん? 晩ごはん食べながら話しよ」

「結構ですとも。ただし、なるべく静かなお店でお願いします。居酒屋はうるさすぎるので却下です」

「あ、それは大丈夫。えーとね、そしたらこっち」

 宇井はそう言って探偵を、駅に続く地下街「クリスタ長堀」の方へ誘った。そちらには洋食レストランがあるはず。あるいはイタリア料理がいいかもしれない。

「えーっと、三浦さんって日本人に見えへんけど、外国人?」

 日本人でなければ外国人に決まっているのだが、宇井は合コンに行って好みのタイプの女の子の前の席が当たったときのように、心が浮わついていた。

「外国人ですよ。ドイツ人です」

「ハーフやなくて?」

「百パーセント純粋のドイツ人です」

「でも何で三浦っていう名字なん?」

「それは色々と事情があるのですよ。今は訊かないでいただけますか」

「それを聞かしてくれへんかったら、俺も話せえへんって言うたら?」

 探偵がぴたりと立ち止まる。宇井も慌てて立ち止まる。

「鳥居様に別の人を紹介していただきます」

 さらりとした顔で探偵が言った。すぐにも振り返って去って行きそうに見える。

「あ、えーっとね、冗談冗談。俺、ちゃんと話するから」

 せっかくこんな美人を紹介してもらったのに、逃してなるものか、と宇井は思った。すっかりデート気分だったが、相手が探偵であることは考慮しなければならない。

 本来、情報提供者の方が立場が強いはずだが、相手が訊こうとしているのは大学の同期の正堂勇心のことで、それなら他にも数人は情報提供者がいるはず。自分が選ばれたのは、この近辺に勤めていて、一番手っ取り早く会えるからと思われる。たとえそんな理由でも、こんな美人と話をする機会を手放せるわけがない。

 そして洋食レストランにたどり着く。まだ空いていたので、待たずに席に案内してもらえた。

「では改めまして、自己紹介しましょう。探偵の三浦エリです」

 そう言って探偵が差し出した名刺には、「湾岸探偵事務所 探偵 三浦エリ」。それ以外の情報が一切なかった。住所や電話番号、メールアドレスすらも書かれていない。

「この探偵事務所って、ネットで検索したら出てくる?」

「出るかもしれませんね。最近はどこからか情報が漏れてしまいますから。でも基本的には紹介者のある依頼しか受け付けてないのですよ」

「ご注文が決まりましたらお呼びください」

 水を持ってきたウェイトレスがそう言って戻っていった。宇井が探偵にメニューを差し出しながら訊く。

「日本語読める?」

「もちろんです」

 それからしばらくは二人とも無言でメニューを選ぶ。探偵はメニューを開いて上から下まで眺めた後で、さっさと閉じてしまった。決まったようなので、宇井が手を上げてウェイトレスを呼ぶ。レディーファーストで探偵に訊く。

「何にします?」

「あなたからどうぞ」

 せっかくレディーファーストにしたのに、譲られてしまった。押し問答をしても時間の無駄なので、先に注文することにする。

「えーとね、そしたら、エビフライセットと生中」

「ステーキセットと生大」

 エビフライセットは1000円(税込み)、ステーキセットは1500円(税込み)だった。しかもビールのサイズまで探偵に負けている。男としては見栄を張って一番高いメニューを頼むべきだったかと宇井は後悔した。しかし、今さら注文を変えるのも情けない。

「えーっと……もしかして、俺がおごった方がいいですか?」

 ウェイトレスが注文を確認して行ってしまった後で、宇井は探偵に訊いてみた。

「あなたは情報提供者ですから、おごる必要なんてないのですよ。いつもであれば、私がコーヒーを1杯くらいおごるところですが、今日は生中にしておきましょう。もちろん、あなたの情報にそれだけの価値があれば結構なのですが」

「ええー、それはもちろん。訊かれたことはちゃんと全部答えるから」

「ビールを飲んで酔う前に訊いておかないといけませんね」

 そう言ってる間にビールが出てくる。ウェイトレスはちゃんと、宇井の前には中、探偵の前には大を置いていった。

「乾杯します?」

「いいえ。でも、飲んでいただいて結構ですよ」

 そう言われても宇井は躊躇したが、探偵の方が先にグラスに口を付けた。4分の1ほどがなくなり、その後で探偵は流れるような動作でベストの胸ポケットからハンカチを出し口をぬぐった。宇井も慌ててビールに口を付ける。

「ではウイ様に、ショードーユーシン様のことをお訊きしたいです。同じ大学で、同じ学年で、同じクラブでしたね?」

「ああー、そうそう。ほんで、実家も結構近いねん」

「どこですか?」

「藤井寺。知ってます?」

「もちろんです」

 大阪の中部にあるベッドタウンだが、南河内という地域に分類されている。近鉄南大阪線の沿線で、かつては近鉄バファローズのホームである藤井寺球場があった。

「でも高校は別々やねん。俺が富田林で、あいつが東住吉」

「彼の家の住所をご存じですか?」

 あざは知っていたが、地番までは知らない、と宇井は正直に答えた。電話番号も訊かれたので答えた。ただし、ここ1、2年間は電話もメールもしていないとも言った。

「一番最後はいつ頃ですか?」

「うーん、一昨年おととしの夏頃かなあ。あいつ、関東の方に就職したんやけど、めっちゃブラックな会社やったらしくて、新人の5月くらいから月80時間くらい残業させられて、夏には120時間超えやとか言うとった。メールしても夜中の2時頃に、すぐに返事でけへんですまんいうメールが返ってきとったなあ。10月頃にはもう全然連絡取られへんようになってしもたはずで」

 それから宇井は会社の名前や連絡先を話した。と言っても2年ほど前の情報ばかりだ。その間に料理が運ばれてきた。

「ショードー様というのはどういう人ですか?」

「えーとね、とにかく真面目。勉強はすごいできるわけでもないけど、授業にはちゃんと出るし、ノートは取るし、クラブもサボらへんし。工学部の機械系やってんけど、手先が器用で、機械とか電気回路とかいじるのめっちゃ好きやねん。あと、語学はそこそこ得意やけど、文系科目と運動が苦手。バドミントンは頑張ってたけど、基本的に下手。趣味はようわからへんけど、テレビはあんまり見ぃへんし、音楽も聴かへん言うてた」

「ショードー様が森下茉莉様とお付き合いしてたのはご存じですか?」

「あー、もちろん知ってるよ。あいつ、草食系やのにうまいことやりよったなー言うて、みんなで悔しがっとってん。バドミントンもあいつが一番下手やねんけど、茉莉ちゃんに教えてもらいために、うまくならへんようにしてんねんやろ、とか」

「ソーショクケイ……ああ、女性にあまり熱心でないとかいう意味ですね。会社に就職してもしばらくはお付き合いしていたらしいですが、いつ頃別れたかご存じですか?」

「うーん、いつやったかな。ゴールデンウイークの時はいっぺんだけデートした言うてたけど、その後やろうな。夏頃かな。7月か8月とちゃうかな。そや、盆休みも実家に帰られへん言うとって、その後くらいに、茉莉ちゃんに振られたみたいやていうメールが来たんちゃうかったかな。俺からも茉莉ちゃんに、勇心と別れんといたってって言うとくから、気をしっかり持てよー、いう電話かけたんやけど、その後1回メール来たのが最後やったんちゃうかなあ」

 エビフライをフォークで突き刺しながら宇井はスマートフォンで古いメールを検索し、探偵に見せた。探偵はステーキを頬張りながらそのメールを眺めている。

「9月25日が最後ですね。わかりました。ありがとうございます」

「他に質問は? 何でも答えるよ」

「ショードー様は車の免許をお持ちでしたか?」

「持ってへんかったんちゃうかな。大学の時に、クラブで合宿とかに車で行ったことあるけど、あいつが運転してんの見たことないし」

 それから探偵は、二人がどこへデートに行っていたか知ってるか、と宇井に訊いた。「場所とかイベントとか色々相談されたけど、ほんまにそこにデートに行ったかどうかまでは知らへんねん」と宇井は言ってから、憶えている限りのことを答えた。

 さらに探偵は、茉莉のことをどれくらい知っているかと訊いた。宇井はクラブ活動や飲み会のことを話したが、そうたいした数は憶えていなかった。いくら美人でも、他人の彼女のことは忘れるものだ。

 では最後に、と探偵は言った。もうとっくにライスまで食べ終えている。宇井はたくさんしゃべっていたので、サラダとライスが残っていた。

「森下茉莉様が時計を大事にしていたのをご存じですか?」

「はあ、時計? ……いや、憶えてへんなあ。約束の時間はよう守る子やったと思うけど、それ以外に何かあったかなあ。……うーん、やっぱり思い出されへんわ」

 サラダとライスを食べながらじっくり考えてみても、何も思い出せない。探偵はビールの最後の一口を飲み干していた。

「他に質問は?」

「もうおしまいですよ。これで十分です」

「俺の言うたこと、役に立ちそう?」

「ええ、かなり役に立ちそうです」

「えー、よかった。ところで、なんで勇心のこと調べてるん?」

「調べてるのはショードー様のことではなくて、森下様のことですよ。鳥居様からお聞きになっていませんか?」

「え、全然聞いてへん。何があったん?」

「森下様がちょっとした事件に巻き込まれたのです。鳥居様に聞いていただいても結構ですよ」

「でも勇心の質問ばっかりやったやん」

「そこが大事なところなのですよ。森下様の過去を知れば、現在の問題も解決できるのです」

「何それ、めっちゃかっこええ! シャーロック・ホームズみたい。え、それで、今日の調査はもう終わり?」

「はい、終わりです」

「この後予定ある?」

「あります。とても大事な用事です」

「残念。でも、今度飲みに行かへん?」

「却下です。ただしカラオケならお付き合いしますです」

「え、カラオケすんの!? よっしゃ、ほな今度、鳥居さんに言うてセッティングしてもらうわ!」

「楽しみにしておきますですよ。それでは」

 探偵は伝票の上に自分の食事代と宇井のビール代を置くと、気取った仕草で帽子を被った。


(続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る