第6章 過去の関係 (前編)

 3時頃、淀屋橋のとあるビルの前に、探偵が現れた。探偵はビルのテナント名を確認してから、中に入って行った。1階にはビルの総合受付があるが、受付係はおらず、内線電話が置いてあるきりだった。電話の横には各テナントの受付の内線番号が書かれている。

 探偵はそのうちの一つに電話をかけた。相手はすぐに出たが、ちょっとした押し問答が続いた。ようやく話が付くと、探偵は受話器を置き、笑顔でエレベーターに乗った。

 とあるフロアで降りると一人の若い男が待っており、探偵を小さな会議室に案内した。どうやら応接室を兼用しているようだ。

 案内した男はすぐに出て行き、探偵がソファーに座ってしばらく待っていると――といっても10分は待たされたのだが――ようやく中年の男が、若い女性社員二人を連れて入ってきた。

「大変お待たせしました。先ほどは総務の者が失礼な応対をして、誠に申し訳ありません。私が人事副課長の城野じょうのです」

 城野は名刺を取り出して探偵に差し出した。探偵は立ち上がって名刺を受け取り、代わりに自分の名刺を渡した。「湾岸探偵事務所 所長 三浦エリ(エリーゼ・ミュラー)」と書かれている。探偵すなわちエリーゼは、同じ名刺を二人の女子社員にも渡した。二人のうち一人は目を丸くして驚き、もう一人はなぜか笑いをこらえている。

「探偵さんが現れたと聞いて、総務の者はどうやら動転してしまったようで。渡利鑑識さんのご推薦というのをもっと早くお知らせくださっていれば、話が早かったんですが」

「いえいえ、謝罪いただくには及びません。私の知名度が低いせいでしょう。アキラ様、ナイン、渡利所長の名前を使わなくて済むように、日々頑張っているところですよ」

「はあ、うちも渡利鑑識さんにはその節は大変お世話になって。ところで、今日は弊社の森下茉莉まりのことを調べに来られたそうで」

「そのとおりでございます。本日、茉莉様が出社しておられないのは、もちろん存じておりますよ」

「ええ、本人からは今朝、ちょっと遅れて出社するという連絡があったんですが、後になって、体調不良で休みたいということになりまして」

「ご本人にも少しだけお話を伺ったのですが、体調不良で続きができなくなりました。それで、彼女と仲のよいお友達に伺おうと思って、参上したのです。それで、こちらのお二人が茉莉様のお友達ですね?」

「はい、鳥居君と犬飼君です」

 二人が小さく頭を下げる。鳥居君が大学の先輩でリクルーターで、犬飼君が彼女と同期で一番仲がよく、と城野が説明した。

「リクルーター……ああ、大学へ会社を紹介しに行く人ですね。それでは彼女たちにお話を伺いたいですが、ここからは個人情報になりますので、城野様には席を外していただきたいです」

「え? ああ、そうですね。そしたら、私はいったん職場に戻ります。鳥居君、終わったら内線で人事課に電話して」

「はい、わかりました」

「では、また後で。ああ、そうや、三浦さん、一つだけ訊いてもいいですか?」

「何でしょう?」

「森下が急に休んだのは、弊社内に原因があると思われますか?」

「茉莉様は単に寝不足と心を痛めたことによる体調不良ですよ」

「心を痛めたというのはどういう……」

「個人的な事情で、会社とは関係のないことです」

「そうでしたか」

 城野は少し不安そうな顔をして、部屋を出て行った。エリーゼは目だけで見送っていたが、ドアが閉まると、二人の女性の方に向き直って言った。

「不思議ですね。ジョーノ様は、どうして茉莉様が来なくなった原因はこの会社にあるのか、なんてお訊きになったのでしょうね? 私はまだ何も質問していませんのに」

「えーと、それは、社内にパワハラがあったかどうかを気にしてはるんやないかと思います」

 鳥居がニコニコと笑いながら答えた。実際にそういうことがあったら、笑い事では済まないだろう。

「パワハラ……ああ、階級濫用のことですね。私も子供の頃はマイスターからさんざんきついことを言われましたけれど、逃げる方がもっと嫌でしたからね。しかし、1日休んだだけでそれは考えすぎでしょう。それとも、私が来たからそういうことをお考えになったのでしょうか?」

「さあ、どうだかよくわかりません。でも、探偵さんがそういうことを正面切って訊きに来ることはないと思いますけど」

「私も同感ですよ。それはさておき、そろそろ本来の質問をさせていただきましょうか。まず、鳥居様」

「はい」

「下のお名前は何ですか?」

弥子みこですけど、どうして下の名前を聞くんですか?」

 答える弥子の口元は、名刺を見たときから緩みっぱなしだった。この質問も、単に興味本位であるらしい。

「名字で質問されると、警察の尋問のような気がしませんか? 名前で呼ぶと親近感が湧くので、色々とお話が聞けるようになるのですよ」

「ふうん、まあ、そうかもしれませんね」

「それで、ミコちゃんと呼んで良いですかね」

「いいですけど、もう一つ質問していいですか?」

「良いですけれど、質問は一つですか?」

「え、どういうことですか?」

「女の人が質問をするときは、たいてい一つでは済まないからですよ。現にあなたは既に二つ質問をしています」

「あははは!」

 ついにこらえきれず弥子が笑い始めた。ハンカチで口元を隠しながらひとしきり笑った後で、ようやく質問を口にする。

「いただいたお名刺には三浦エリとエリーゼ・ミュラーの二つの名前が書いてあるんですけど、どっちが本名なんですか?」

「エリーゼ・ミュラーです。三浦エリは別名です。音が似ているので。でも、日本に帰化するときには三浦エリという名前にしようと思ってるのですよ。結婚して帰化できるのならその方が良いですが」

「そうなんですか。どこの国の人なんですか?」

「ほら、三つ目の質問です。ドイツから来ました。でも、もう日本には3年も住んでいるのです」

「そうなんですか。日本語お上手ですね」

「日々勉強してますからね。そろそろこちらから次の質問して良いですか?」

「あ、はい、すみません」

 そう言いながら弥子はまだ笑っている。

「では、犬飼様」

「はい」

「下のお名前は何ですか?」

「はい、登美とみですぅ」

「じゃあ、トミちゃんとお呼びして良いですかね。お二人とも、私のことはエリちゃんとお呼びください」

「えー、いいんですかぁ、探偵さんなのに」

「良いのです。ではトミちゃん、茉莉様が付き合ってる男の人のことをご存じですか?」

「え、いきなりそんな質問ですかぁ。茉莉ちゃんの仕事ぶりとかじゃなくて?」

「無用な質問はしない主義なのですよ」

「そうですか。えっと、知ってます。もしかして、名前も言うんですかぁ?」

「お願いします」

もとさん。洲本丈太さんです」

 エリーゼはもう一枚名刺を出してきて、その裏に登美が名前を漢字で書いた。エリーゼはそれに下手なひらがなで振り仮名をふった。

「どういう仕事をしている人かご存じですか?」

「ブランド品の輸入販売業者って言ってました」

「ブランド品と言っても鞄とか服とか靴とか香水とか宝飾品とか時計とかいろいろありますけれど、どれですか?」

「えーっと、鞄、あら? バッグですね。シャネルとかエルメスのバッグなんかを主に扱ってるって言ってたと思いますぅ。でも、茉莉ちゃん自身はブランド品にあんまり興味がなくって、彼からプレゼントされたけど使ってないって言ってたと思うんですよぉ。使わないなら、私にちょうだいって言ったんですけど、くれなくてぇ」

「その店はどこにあるかご存じですか?」

「普通のお店はなくて、ネットで販売してるだけって聞きました。その方が人件費とかかからないから利益率が高いらしくてぇ」

「何という名前のショップですか?」

「えーとね、一度教えてもらったことがあるんですよぉ。でも、私はまだそのショップで買ってないんですけどぉ」

 登美はスマホを取り出し、ブラウザの履歴からそのネットショップのサイトを表示させた。エリーゼがそのURLをメモする。

「どういう人ですか?」

「優しい人だけど、時々お金持ちなことを自慢するって言ってましたよ。あ、あと、怒りっぽいところがあるって言ってたかなぁ。でも、すぐに機嫌が直るんですって」

「その人の連絡先とか住所とかをご存じですか?」

「茉莉ちゃんに何度も訊いたんですけど、教えてくれなかったんですよぉ。でも、大阪だと思いますよ。茉莉ちゃんの家まで車で30分くらいって言ってたと思います」

「どんな車かご存じですか?」

「知らないです。茉莉ちゃんも車のことあまり知らないんですよぉ。でも、左ハンドルって言ってたと思うから、外車かなぁ」

「ヴンダーバー、素晴らしい記憶力ですね。そういう細かい点は大事なのです」

「ありがとうございますぅ!」

「では次はミコちゃんに質問です。茉莉様の大学の先輩だったそうですが、彼女のことをどれくらい詳しくご存じですか?」

「はい、彼女とは2学年離れてるんですけど、学科もクラブも同じなのでよく知ってます」

「ガッカ? フムムム? ファッハクールスのことですかね。クラブは何ですか?」

「バドミントンです」

「なるほど、道理で腕の力が強そうに見えました」

「ええっ、そんなに腕が太いですかぁ?」

 弥子はそう言って左手で右の二の腕をシャツの上からさすりながら、おかしそうに笑った。長袖を着ていて、二の腕が見えるはずがないのだが、本人は少し気にしているらしい。

「もちろん冗談です。そうすると、茉莉様とは2年間一緒に活動したのですね?」

「いえ、私は4年生になったらすぐに引退したので、実質1年間だけですね。でも、時々は活動を見に行ったり、飲み会に参加したりしてましたよ」

「茉莉様が付き合ってた男の人のことをご存じですか?」

「今付き合ってる人のことは全然知りません」

「今ではなくて、大学生の時のことは?」

「あっ、はい、憶えてます! しょうどうくん、正堂勇心ゆうしんくんです」

 さすがに大学で同じクラブに所属していると、男女関係のことまで情報共有されるようだ。

「どういう人ですか?」

「すごくおとなしい男子でしたね。春の新人勧誘が終わったずっと後で入部してきたんですけど、体育の授業で茉莉ちゃんと同じバドミントンを選択してたらしくて、だから彼女を目当てで入ってきたんやろうってみんな言ってましたよ」

 弥子の詳しい説明によると、大学では1年生時と2年生時に体育の授業が必修で、週に1コマ、いくつかの種目の中から選択して1年間ずつ履修しなければならないのだが、その種目の中にバドミントンが含まれていた。もちろん、バドミントン部員はほぼ全員バドミントンを選択していた。

 部員は初心者と組んだり相手をしたりして、教える立場になることが多いのだが、茉莉は積極的に初心者と組んだり、優しく教えたりしていたので、美人であることと相まって、男子学生の注目の的になっていたらしい。

「なるほど、でもそれなら、他にも後で入ってきた男の人がたくさんいるのではないですか? 同じ目的で」

「もちろんですよ! 他の年より男子が3割増しでしたね。飲み会だけ来る人とかもいたみたいです。先輩にも人気がありましたし」

「そうすると、茉莉様がショードー様とお付き合いすることになった、何か特別なきっかけがありそうですね」

「そうですね。正堂くんが茉莉ちゃんに猛烈アタックを仕掛けたわけでもないでしょうし。それに、茉莉ちゃんは文系で正堂くんは理系だから、あまり接点がなかったと思うんですけどねー。私は理由は訊かなかったです」

「家が近いのでしょうか?」

「それはないと思いますよ。難波でやった飲み会とかでは、帰り先が違ってたと思います。茉莉ちゃんは南港ですよね。正堂くんは、うーん、どこやったかな。大阪の南の方やったかな?」

「大学の時のお友達に訊いてみてくださいませんか」

「はい、訊いてみます」

「トミちゃんも後で何か思い出したことがあったら教えてください」

「はい、わかりましたぁ」

 そこでスマートフォンの電話番号を交換し合う。

「ところで、茉莉様はどうしてショードー様と別れて、スモト様と付き合い始めたのですか?」

「さあ、私が大学を出てからのことはわからないです。大学の間は続いてたと思うんですけど、登美ちゃんは何か知ってる?」

「えーっとぉ、新人研修の時には彼氏がいるって言ってたと思いますけど、洲本さんと知り合ったのはその年の夏頃の合コンやから、その間に別れたのかなぁ」

「ショードー様はどこの会社に就職したのですか?」

 それは二人とも知らなかった。エリーゼはそれも友達に訊いておいて欲しい、と弥子に頼んだ。

「茉莉様が時計を大事にしていたのをご存じですか?」

「時計? さあ、知りませんけど」

 弥子は首を捻り、登美も知らないと答えた。

「今日はお仕事中にご協力いただきありがとうございました。茉莉さんが早く会社に復帰できるように頑張りますです」

 エリーゼはそう言うと帰って行った。

「弥子さん、あの探偵さんって、茉莉ちゃんの彼氏のことしか訊かなかったですけど、全部しゃべってもよかったんですかぁ?」

「さあ……あら、そう言えば、探偵さんが帰るときに城野さんに電話するの忘れてた!」

 結局、二人はエリーゼのことを「エリちゃん」とは一度も呼ばなかったのだった。


(続く)

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