第5章 刑事、大和川へ
午後になってようやく時間が空いたため、
まず、病人が病院を抜け出した時間。これは病院内の防犯カメラからわかっている。不審人物の侵入に対してはちゃんと警戒しているのだが、病人が抜け出すことに関しては監視が甘いようだ。とにかく、抜け出したのは午前4時頃。
その後の足取りがよくわからない。そもそも、以前からホームレスとして
ホームレスは食糧を調達するのに便利な所に住まう傾向がある。最も便利なのは、ホームレス向けの「炊き出し」をやっている施設に近いところだ。咲洲内でそれをやっているところはなく、一番近いのは西成区の萩之茶屋だが、そこまでは10キロ以上もある。
なおかつ、咲洲に歩いて出入りする道は一つだけで、すぐ南の南港埋立地に通じる橋しかない。北へは道路が2本通じているものの、一つは高架の高速道路、もう一つは海底トンネルで、いずれも人は通れない。ホームレスは地下鉄には乗ろうと考えないだろう。
念のため、地域課に聞いてみたが、警邏中の目撃情報はなかった。もっとも、病院から橋はすぐ近くだし、警邏の目を逃れるのはそう難しいことではないので、仕方ない。だいたい、病人が収容されたその夜のうちに抜け出すなんて、予想もしないことだ。
そもそも、病人はどこから来たのか?
水没した時計を拾った。それは川に落ちたものだ。だったら、川の近くにいたのだろう。淀川、安治川、尻無川は咲洲よりも北だ。そこから来るには遠回りをしなければならない。
特に淀川はあまりにも遠すぎる。歩いたら4時間はかかるだろう。どうしても咲洲へ来なければならぬ理由があったのだろうと推量はするし、そのせいで病気になったのかもしれないが、可能性は低いと思われる。
一方、木津川は咲洲の東にある。南港埋立地から近くて、6キロもない。そこから来た可能性はある。
しかし、見逃せない事実が一つあって、安治川、尻無川、木津川には河原がない。いずれも運河の役割を果たしていて、護岸からすぐに数メートルの深さがあるのだ。時計を落としたら、飛び込んで潜らないと拾えない。いくら大事な時計を落としたからといって、それはあまりに無謀だ。
ところが、ここに一つ、おあつらえ向きの川がある。大和川だ。大阪市と堺市の間を流れ、南港埋立地のすぐ南に河口がある。しかも河口付近は浅い。落とした時計を拾うことも容易だろう。河口は砂が堆積しているため、数百メートルも遡れば満潮でも海水は来ない。すなわちその流域は真水だ。ぴったりと当てはまるではないか。
門木はそこまで考えてから、南港埋立地との間の橋に設置された、防犯カメラの映像の閲覧を申請した。臨海署管轄内の防犯カメラは、民間のものであっても比較的容易に閲覧申請が通るし、その橋のものは住之江区が設置したカメラで、署内からもネットワーク越しに見ることができる。
申請はすぐに受理されたので、録画の映像を見てみた。果たして明け方5時頃に、咲洲から南港の方へ行く人影があった。画質が悪くて人相まではわからないが、病院の患者衣を着ているように見える。もっと画質を上げてくれればいいのだが、今のところはこれで十分だろう。よって、病人は大和川の方から来て、そちらの方へ戻って行った、と考えて間違いない。
さっそく署を出て、ニュートラムに乗り、住之江公園駅へ行く。すぐ近くに、住之江署がある。挨拶をして、大和川付近にたむろするホームレスのことを訊きたいと言うと、ここと川の間にある交番の方が詳しいと教えられた。そこへ行く。
「若い男のホームレスですか。それならイサムかもしれません」
交番にいた
「どこにおるかわかる?」
「いや、いつも
その居場所に連れて行ってもらう。新なにわ筋を下ったところにある、阪堺大橋の下だった。ただし、そこはイサム以外に数人のホームレスが根城にしているらしい。とは言っても、橋の基部がネットで囲われているので、段ボールハウスやブルーシートハウスは作れず、比較的暖かい季節に雨よけができるくらいということだった。
「それに、しょっちゅう警邏して、追い出してますから。川の向こうで、最近まで
「昨日の夜は?」
「夜中には誰もいてませんでしたよ。ところで、イサムが何かしよったんですか?」
「いや、悪いことは何もしてへん。行旅病人になっただけでな」
「行旅病人ね。はあ」
門木はいきさつを簡単に話した。そして、イサムがどうやらこの辺りで懐中時計を拾ったらしいということも。
「そういえば今朝、川の中で時計を探している女が二人おりましたが」
「女が?」
「はい。そのうち一人は咲洲の、エリーとかいう探偵やったと思いますが」
エリーゼか! おそらく連れていた女が依頼主なのだろう。そして時計の落とし主? それをイサムが昨日の夜のうちに拾って、咲洲まで持って来た? それで話は通るのだが、イサムはなぜそんなことをしたのだろう。
「それは何時頃?」
「9時頃やったと思います。川へ入って何かやってる連中がおると、通行人が交番へ知らせに来たんで、一応見に来ました。別に怪しいことをしている様子やなかったので、転ばんように気ぃ付けぇよ、と声をかけるだけにしましたが」
「探偵が、後で交番へ来たりはせんかった?」
「来ませんでした」
門木は考え込んだ。どういう経緯かはわからないが、エリーゼはどうやらあの時計を探しているらしい。あれは臨海署にあるというのを、教えてやるべきかどうか。しかし、持っていたのはホームレスだから、勝手に依頼主の女に渡してしまうのはおかしい。
あるいはエリーゼに任意出頭を要請して、話を聞くか。「依頼の内容は教えられませんですよ」と澄ました顔で言うに違いないが、どうやって情報を交換すべきか……
「イサムか、探偵か、どっちでもええから、もういっぺん見かけたら、知らせてくれへんか」
「了解です。あ、河原でですか、それとも街中でも?」
「どこでも」
もちろんこの辺りは住之江署の管轄なので、イサムを探してくれと依頼するには、住之江署へ話を通さねばならない。しかし、情報提供くらいなら、うるさいことは言われないだろう。ましてや犯罪者ではなく、ホームレスと探偵に関する目撃情報なのだから。まあ、署の地域課に一声かけておくに越したことはないが。
帰りがけにエリーゼの事務所に電話してみたら、
「ただいま依頼遂行中でございます。お急ぎの場合は伝言をどうぞ」
というメッセージが流れてきた。門木はメッセージは残さず、とりあえず様子を見ることにした。時計の落とし主を探すのではなくて、逃げ出した行旅病人を探すのが仕事だ。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます