第3章 病人の逃亡

かどさん、病人さんの話、聞きました?」

 門木が朝の引き継ぎを終えて自席に戻ってきたときに、隣の田名瀬が訊いてきた。朝の9時半だというのに、なぜに彼女はおやつを食べているのだろうと門木は思った。寮で朝飯あさめし食うて来たんとちゃうんかいな。

「聞いたよ。えらい仕事押しつけられた」

 病人さんというのはもちろん「行旅病人」のことだ。昨夜10時過ぎ、警邏中の警官から署に連絡があり、シーサイドコスモで急病人を発見したので、病院に連絡して救急車を回して欲しいとのことだった。当直の刑事が対応した。

 病人は咲洲さきしま中央病院に担ぎ込まれたが、身元を示すような物は何も所持しておらず、「行旅病人」として一晩入院させる手続きが取られた。しかし、夜が明けきらぬうちに病人は、あっさりと逃げ出してしまったのだった。解熱剤を打って意識が戻ったので、明日の朝に警察が事情を聞くから、という話までしてあったらしいのだが。

 病院に残されたのは、わずかな小銭の入った財布と、古い懐中時計だけ。そして門木には、その「行旅病人」の身元を突き止めるという仕事が残されたのだった。

「ほんで、田名瀬はなんで病人さんのこと知っとるんや?」

「夜勤やったバンちゃんから聞いたんです」

 バンちゃんというのは同じ課の板東ふみという女性刑事――自称臨海署のヒロイン――のことだが、田名瀬よりも五つは年上で、しかし署内の皆からバンちゃんと呼ばれているので、田名瀬もそう呼んでいる。もちろん、板東本人のお墨付きの元で。

「ほんでも、病人さん、財布と時計だけ置いていかはったらしいですけど、それだけで身元わかるんですかねえ」

「さあな、これで調べるんはちょっと厳しいわ」

 入院させたときにはもちろん患者衣に着替えさせ、その時に身元を調べるために、当直の刑事が、男が着ていた服のポケットを探ったのだが、出てきたのはその二つだけだったらしい。一晩だけ署の方で預かっておき、翌日返すことになっていたのだ。

 しかし、男は夜明け前に逃げてしまった。財布も持たずにどうするつもりなのか、と門木は思ったものだが。

「身元がわからへんかったら、やっぱりその時計を売ってお金を作るんですかあ?」

「それで足りたらええんやけどなあ」

 財布の中に入っていたのは千円足らずで、これでは薬代くらいにしかならない。懐中時計はかなり古いもので、見た目はぼろぼろだが、骨董品としての価値があるのなら、入院代くらいにはなるだろう。ただし、売ってしまうのは最後の手段で、しばらくは警察が入院代を立て替えることになる。調べて身元がわかったら、その家族あるいは縁者から払ってもらう。

 もちろん、財布と時計の指紋は調べたのだが、男の指紋を採らなかった――採るには同意がいる――ので、両方に共通してついているのが男のものだろう、ということしかわかっていない。しかも警察の記録に同じものはなかった。そのこと自体は、犯罪者でなければ当然なので、何ら問題ではないのだが、とにかく身元を知るための手がかりが少なすぎる。

「この懐中時計は、珍しい物なんやろうか」

 ビニール袋に入れられた時計を門木が机に置くと、横から田名瀬が覗き込む。両蓋であるので、文字盤は見えない。蓋には唐草のような、というと洋物の懐中時計には似合わない表現だが、とにかく凝った模様が彫られている。大きな竜頭に、それを取り囲む金輪。短い組紐が付いている。

 門木はまだ蓋を開けていないが、夜のうちにこれを調べた刑事によると、タバンという銘柄だそうだ。手巻きで、針は止まっていたらしい。しかも、水没した形跡があると。

「ネットで、同じような物があるか調べたらええんやないですか」

「一応調べたらしいんやけど、タバンの時計いうてもピンキリなんやと」

「そしたら、骨董屋さんに持って行って見てもらったらどうです?」

「もちろん、そうするんやけどな。珍しい物やったら、それで身元がわかるかもしれんし」

 骨董屋は咲洲に1軒だけある。質屋も兼ねているところだ。しかし、珍しい物でなかったら、わかるのはたぶん値段くらいだろう。科捜研で調べたら他の何かがわかるかもしれない。そして科捜研よりももう少し融通の利く調べ方をしてくれるところが、すぐ近くにある。ただし、科捜研と違って有料。

 もっとも、名目さえあれば費用は署から出してもらえる。それでも、行旅病人のことを調べるために、出してもらえるかどうか。申請書によほどうまい書き方をしなければならないだろう。今のところ、課長を説得できる自信が、門木にはない。どうしたものだろうか……


 住之江区南港北1丁目。住宅地の南の外れに立つ、南港共同法律事務所ビル。その4階の、渡利鑑識事務所で、門木はソファーに座りながら、目の前の若い男の様子を伺っていた。その男はもちろんここの所長の渡利だ。彼の手には懐中時計。それを持ち込んだのは、もちろん門木。行旅病人が置いていった懐中時計だ。

 渡利は白いハンカチで時計をくるんで持ち、まず表と裏を一通り見てから、表蓋を開けてしばらく文字盤を眺めた後、蓋を閉めて次に裏蓋を開け、またしばらく眺めていた。

 ここに来る前に、門木も蓋を開けてみたのだが、裏には"TAVANNES WATCH Co"という文字と、模様を描いた刻印がいくつかあるだけで、大した情報はなかった。せめて、名前か企業名か「○○記念」などの文字が彫られていれば、持ち主を探すヒントになったのだが。渡利が裏蓋を閉めたのを見てから、門木は尋ねた。

「その時計で何かわかることは?」

 こういう訊き方をせねばならないところが苦しい。渡利が挙げてくる項目の数だけ、鑑識料を払わねばならない。一項目千円だが、十数項目も挙げてくると、それだけで時計の売値を超えてしまい、本末転倒になる。

「シリアル番号から見て、1920年代に作られた」

 時計を見ただけで、資料などは見ずに、渡利は答えた。よくそんなことを憶えている、と門木は半ば呆れていた。持ち込まれるのがわかっていて、あらかじめ調べていたのではと思いたくなる。

「貴重品?」

「いや。この時期のものは、日本に大量に輸入されたと聞いている。だから、ありふれていると言えばありふれている。この型だと、高くてもせいぜい1万円くらい。正確な値段は、骨董屋に聞いてください。一番高く買い取ってくれそうな店なら紹介します」

 1万円では入院代に足りるかどうか。

「値段だけやなくて、他にわかることはないんかいな」

「ほとんどない」

 渡利はハンカチの上に時計を載せたまま、ソファーの前の低いテーブルに置いた。それから右手の中指でサングラスのブリッジを押し上げながら言った。部屋の中だというのに、いつも薄い色のサングラスをしている。

「ムーブメントは何度も修理したらしい。オリジナルの部品は、おそらくほとんどない。年代の割に、外側の傷がやけに少ない。あまり持ち歩かなかったか、袋にでも入れて、大事に持っていたと思われる。もっとも、傷は古いものばかりなので、大事にしていたのはここ3、40年間と推測する。あとは、つい最近水没して、その直前までは動いていただろう、ということくらい」

「水没したのはわかってんねんけどな」

「淡水が浸入した形跡がある。汚れの跡が見えるので、川と思われる。少なくとも人工の池ではなさそう」

「なんでそんなことがわかる?」

「錆具合で。水道水と淡水と海水では錆びる速さが違う。分解すればもっとよくわかる」

「分解せんでもわかるんかいな」

 錆と言われても、門木は全く気が付かなかった。テーブルから時計を取り上げ、改めてじっくりと見てみる。しかし、わからない。水没はわかる。ガラスの内側が少し曇っているし、何より組紐が湿ったままだ。汚れについては、文字盤にそんなふうな跡があるかもというくらいで、それも気のせいだと言われればきっと見逃してしまうだろう。

「川ねえ」

 咲洲は埋め立て地なので、もちろん川はない。周りは全て海だ。島内にはいくつか池があるが、水道水か工業用水だろうし、それらに該当しないとしたら、どこで水没したというのか。

 ここから近い川と言えば、安治川か尻無川か木津川か……だが、どれにしても少し上流へ行かないと、海水が混じってしまうだろう。中之島の辺りまで行けば確実に淡水だろうが、その辺りで懐中時計を落とした人間を探そうとしたら、とんでもなく苦労するだろう。

「どういう奴が落としたか、わからへんかな。というか、持っていた奴の特徴とか」

「先ほど言ったとおり、最近の傷が少ない。それなのに動いていたのだから、置き時計の代わりに使っていたと思われる。よって、骨董屋や質屋で持っていたのではない。それ以外のことは不明。持ち主を調べるのは警察か探偵でお願いします。ここでは鑑識しかしない」

「ホームズは時計の持ち主の特徴を言い当てたやないか」

「ワトスンの兄の時計の話ですか。あれは観察と推理の両方できる人間がやることでしょう。ここでやるのは観察だけということです」

 シャーロック・ホームズの長編第2作『四つの署名』の冒頭で、ワトスンが最近手に入れたと称する懐中時計をホームズに見せ、それがワトスンの兄のものであることと、兄がだらしない性格であることや、最後は酒浸りになって死んだことをホームズは言い当てた。

 渡利はこの時計が大事にされていたらしいと言ったが、それでは持ち主の特徴を当てたことにはならない。古い懐中時計はある時期から骨董品として扱われるようになることが多いため、持ち主は実用品として使うのではなく、保存用として大事にするだろうことは、容易に想像できるからだ。

「小説のようにはいかんか」

「観察と推理の両方ができる人間は、そうはいないということ。そもそも、持ち主の特徴よりも、その時計に何が起こったかを推理する方が、持ち主を見つけ出す手がかりになるでしょう」

「しかし、水没したっちゅうだけではなあ」

「どういう状況で水没したのかが手がかりでしょう。しかし、後は門木さんの方でお願いします。どうやら次の依頼者が来たらしい」

「わかった。退散するわ」

「その前に料金を」

「いくらやったっけ」

「年代と、傷の件と、水没の件で3千円」

「5分間時計を眺めただけで3千円とは」

本町ほんまちに行ってたら、もっと時間がかかってるでしょう」

 本町というのは東警察署の住所で、大阪府警の科捜研の所在地でもある。からなら地下鉄で15分ほど。ただし、行ってもすぐに鑑識をしてもらえるとは限らないし、時間もかかる。

 それでも、門木自身が金を払わなくて済むから、いずれに頼むのかは、どれほど急いでいるかにも依る。もっとも、今回の依頼もそれほど急ぐことではないのだが。

「湾岸署の請求に積んどいて」

「了解」

 3千円で済んでよかった。課長から承認された費用は、ぴったりその3千円。それ以上かかったら門木が自腹を切らなければならないところだった。渡利から仮請求書を受け取る。持って帰って、課長に提出しなければならない。

「わかってると思うけど、わしがこの時計の鑑識を依頼したことは、口外せんように」

 もちろん鑑識前に、どのような事件で入手した物件であるかは、渡利には伝えていない。渡利の方から訊いてくることもない。

「その時計を落としたと称する人がここへ来ても?」

「そんな人が誰か来たんか?」

「いいえ。ただ、まれに、落としたんだが写真で鑑識できるか、という依頼が来ることもあるので」

「そういうのが来たら、警察へ知らしてくれへんかな」

「そうしましょう」

 門木が腰を上げると、渡利も立ち上がって、デスクの方に戻った。門木は廊下に出たが、次の依頼人はいなかった。エレベーターの数字が上がってくるから、それに乗っているのだろう。

 まさか、あの病人やないやろな、と思ったが、ドアが開いて降りてきたのは下の法律事務所の事務員だった。顔見知りなので、挨拶をして、入れ違いにエレベーターに乗る。ドアが閉まる前に、事務員がノックをして事務所に入っていくところが見えた。筆跡鑑定でも頼むのかもしれない、と思ったが、当たっているかどうかは定かでない。


(続く)

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