第2章 早朝の依頼 (後編)

 茉莉まりが尋ねると、エリーゼは穏やかな笑顔のまま答えた。

「時計を落としたときの詳しい状況を、お話しください。どうして川に落としたのですか?」

「それを言わないと探していただけないんですか?」

「私にも仕事を選ぶ権利があるのです。依頼料を受け取れば何でもするというのではないのですよ。あなたが不注意で落としたのではないのでしょうね?」

「私が落としたんやありません」

「では、誰が落としたのですか?」

「私の……お付き合いしている男の人です」

「では、その人が川へ捨てたのに拾ってくれないので、私のところへ依頼に来たのですね?」

「そ……」

 落とした、ということにしておきたかったのに、どうして捨てたことがわかったのか。しかし、冷静に考えてみれば当然かもしれない。彼が落としたのなら、彼が探すのが当然だろう。そうではないから、私がここへ来たのだ……

「落ち着いて、最初から話していただきたいのですよ。それが探す範囲を狭くするのに役に立ちますし、そうすると探す時間も短くすることができるのです」

「わかりました……」

 答えながら、茉莉は改めて探偵の顔を見た。笑顔に慣れているのに、わざと抑え気味にしているように見える。こちらを落ち着かせようというのだろう。そしてよくよく見れば、驚くほどの美形だった。濃い茶色のショートヘア、すっきりした細い眉、濃い緑の目、通った鼻筋、笑みの似合う唇、そして尖った顎。外国人は日本人と比べて年上に見えるものだが、それでも20代前半だろうか……

 そんなことを考えながら、茉莉は自分がだんだんと落ち着いてきたことに気付いた。

「お話しします。昨日のことです、私はその男の人と、りんくうタウンへ遊びに行っていました……」

 もちろん、デートだった。男とは、結婚を前提に付き合っていた。ただ、些細なことで喧嘩になることも多かった。彼が時間にルーズだから。茉莉は逆に時間を気にするタイプで、彼に対してはかなり譲歩をしているのだが、どうにも我慢しきれなくなるほどのルーズさだった。彼は、彼の父が作ったブランド品販売会社――正確にはネットショップ――の役員で、出社時間が自由なので、生活にあまりリズム感がないらしい。

 それはさておき、その日は遊びに行った先で、またちょっとした口喧嘩があった。それは時間のことではなかったが、気まずい雰囲気になったので、夕食を摂らず帰ることにした。彼の車で阪神高速湾岸線に乗ったが、南港方面へは行かず、その手前の三宝ジャンクションで降りて、住之江公園駅で降ろしてもらうことにしていた。家の前まで送ってもらう気分ではなかったからだ。

 一般道で大和川を渡る橋に差し掛かったとき、信号待ちになった。その時に茉莉は「時計を返してください」と言った。懐中時計は先週のデートの時に、彼に預けていた。

「そうすると特別な時計なのですね?」

 探偵が質問を挟んできた。

「理由は、今は省略させてください。とにかく、とても大切な懐中時計なんです」

「後で伺いましょう。どうぞお続けください」

 時計はグローブボックスに入っている、と彼は言った。茉莉は驚いて飛び上がりそうになった。時計は手巻きで、1週間どころか2日も放っておけば止まってしまう! 目の前のグローブボックスを開けると、ごちゃごちゃとした中に時計が無造作に入れてあった。もちろん、針は止まっていた。

「ひどい!」

 ショックのあまり呆然としていたら、彼は茉莉の手から時計を奪い取ると、窓を開け、外へ放り投げてしまった。

「こんな古くさい時計にこだわってるから、お前は時間にうるさいんだ」

 彼は茉莉に言い放った。時計は鈍く光りながら、橋の欄干を越えて、その向こうの暗闇へと……

「トゥト・ミア・ライト、お可哀想に。さぞかしお気を落としでしょう。失礼ながら、その男性とは別れた方がよいでしょう。車が停まっていた場所は憶えていますね?」

「はい、車はすぐに走り出したんですけど、街灯からの距離とかは、しっかり憶えています。憶えたつもりです。その後、駅前で降りてから、橋まで見に行きましたが、場所は間違いないはずなのに、下には何も見えなくて……」

「その時は川の中は探さなかったのですね?」

「はい、ほとんど真っ暗でしたし、川に入ったら場所がわかるかどうか、自信がなくて……」

「もちろん、そのとおりですとも。明るくなってから探すのが賢明です。よろしいですとも、お受けしましょう。依頼料は4万円、そのうち5千円を前払いしていただきたいです」

「わかりました」

 川の中を探すだけなら4万円は高いという気がしないでもなかったが、あの時計のためなら致し方ない。5千円をエリーゼに払い、預かり証を受け取った。

「ダンケ・シェーン! では、さっそく現場へ行きましょうか。案内していただけますね?」

「はい、もちろん……」

「持ち物の準備をしますので、少々お待ちください」

 探偵は部屋中を歩き回りながら、あちこちから物を取り出しては小さな緑のリュックに詰め始めた。その時になって茉莉は初めて、この部屋の内装が豪華であることに気が付いた。壁紙は落ち着いた色だし、事務机はどっしりとして高級そうだし、本棚やその横の帽子掛けはアンティーク調でおしゃれだし……そして今座っているソファーは明らかに本革張り、足元のカーペットも単色だが毛足が長く踏み心地がよくて……

「お待たせ致しました。それでは、現地へ着くまでの間に、時計の詳しいことをお話しいただきましょうか。先ほど省略された部分です」

「あ、はい……」

 そこまで言う必要があるかと思ったが、どれくらい思い入れがあるかを説明した方が、探すのに身を入れてもらえるかもしれない。事務所を出て、ニュートラムの駅へ歩きながら話し始める。

「タバンの懐中時計です。100年くらい前に作られたものです。私は祖父からもらったんですが、元は祖母のものでした。祖母はその祖父、だから私にとっては高祖父と言うと思うんですが、その方からもらったそうです」

「つまり、あなたの4代前の祖先から受け継いだということですね。素晴らしいことです。どうぞお続けください」

「高祖父の持ち物なので、もちろん男物です。でも、祖母はその時計をとても気に入っていたらしくて、高祖父の家へ遊びに行くたびに、見せて欲しいとせがんでいたそうです。他のことをして遊ぶより、その時計がチクタクと動くのを見ている方が、ずっと楽しかったらしいんです。そうしたらあるとき、高祖父が、そんなに気に入ったのならあげよう、と言ってくれたらしいんです。その代わり、それは男物だから、結婚する相手にプレゼントするように、と約束して、それで祖母の手に渡ったんです」

「いいお話ですね。続けてください」

「祖母はもちろん、結婚してからその時計を、祖父へプレゼントしました。私は祖父の家へ遊びに行ったときに、祖母と同じように、その時計を気に入って……」

「なるほど、それで、その時計を欲しいとお祖父じい様にお願いしたら、結婚する相手にプレゼントするという約束をして、いただくことができたのですね。お祖母ばあ様もきっとお喜びだったでしょう」

「はい、そういうことです」

「実に幸せな懐中時計です。4人の人に、100年もの間ずっと愛されてきたというのは、非常な価値だと思いますね。見つけられるように、できる限りの努力をしましょう」

「ありがとうございます」

 ニュートラムに乗ってから、時計の外見や大きさを説明した。両蓋で、外側が金で、直径は5センチほど、ごく短い組紐が付いていて……

「彼に渡すまでは、持ち歩かずに、部屋に置いていました。中学の時、工作の時間に時計置きの台を作って、そこにずっと置いていたんです。何度か修理に出しましたけど、特に問題なく動いていました。一度だけ、時計に詳しい友人に直してもらいました。これからも大事にせえよって、返されてしまいましたが……」

「写真はありますか?」

「あります」

 彼に渡す前に、スマートフォンで写真を撮っておいた。それをエリーゼにメールで転送する。

「グートです。これだけ手がかりがあれば、何とか探し出せるでしょう」

「よろしくお願いします……」

 茉莉はようやく一息つくことができた。


(続く)

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