第2章 早朝の依頼 (前編)

 茉莉まりは一晩中まんじりともせず、夜明けと同時に、名刺に書かれた住所に電話をかけた。8回のコールの後で、「はい、湾岸探偵事務所でございます」という若い女の声が聞こえた。茉莉が口を開こうとしたら、その声はいたって機械的に言葉をつなげた。

「ただいま営業時間外でございます。朝8時から営業いたしますが、お急ぎの場合は伝言をどうぞ」

 茉莉はため息をついたが、伝言を残すことに決めて、ピーという発信音を待った。

「すいません、探偵をお願いしたいんです。探し物です。緊急なんです。時計を探して欲しいんです。急いでいるので、7時、いえ、7時半に伺ってもいいでしょうか? 大事な時計なんです。本当に急いでるんです。よろしくお願いします」

 焦っているので、同じようなことを何度も言ってしまった。これで伝わるだろうか。電話を切ったが、もちろん、もう一度寝られるわけがない。何もできないまま時間が過ぎるのを待つことほど、つらいものはない。

 ベッドの上に座り、目を閉じると、昨日の夜の光景が目蓋の裏によみがえってくる。開け放たれた車の窓から、懐中時計が飛んで行く……


 それは丸い金の縁に黒い組紐をまとわりつかせながら、くるくると回転し、橋の低い欄干を越えると、川に向かって落ちていったのだった。もちろん、もう日はとっぷりと暮れて、川面すら見えなかった。そこに橋があるから、いつも通るから、川があるとわかっているだけだ。水に落ちた音さえしなかった。

「何するんですか!」

 大声を上げて、車から降りようとしたが、その時には前の信号が変わって、車が動き出していた。信号待ちで止まっている間の、一瞬の出来事だったのだ。

 住之江公園前駅で車を降り――最初からそこで降りることになっていた――川に向かって800メートルほどを駆け戻った。欄干越しに覗き込むと、橋に取り付けられた街灯の明かりで、川面がかろうじて見えた。だが、時計はどこにも見えなかった。そんなに深くはなくて、川底が見えているくらいなのに……


 6時半から身支度をして、朝食も摂らずに家を出た。家族は驚いていた。昨夜、帰ってから一言も話をしなかったから、心配していたかもしれない。だが、それどころではなかったのだ。今だって、少しも落ち着いていない。

 島内の住宅街を東に抜ける。交番のある交差点を渡る。右には南港中央公園、そして左には工場街。目指すところはその工場街の中。なぜ探偵がこんなところに?

 しかし、躊躇したのは一瞬だった。角を2回曲がると、白い2階建てがあった。駐車場を突っ切って、正面玄関へ行く。貼り紙がしてあって「湾岸探偵事務所は裏口へ」。一緒に描かれていた図に従って、建物の裏へ行き、非常階段を駆け上がる。「湾岸探偵事務所」のプレートが貼られた白い鉄の扉を、強めにノックする。しかし、反応はなかった。

 時計を見た。7時15分。探偵は7時半に来てくれるのだろうか。それとも、8時にならないと来ないだろうか。スマートフォンから、もう一度電話した。「ただいま営業時間外でございます……」。さっきと同じメッセージが流れた。待つしかなかった。

 下を見ながら、踊り場に座り込んだ。探偵だって、ここを上がってくるはず。来たら、すぐに依頼して、すぐに川へ行こう。一刻を争うのだ……

 朝の工場街は静かだった。近くにある阪神高速湾岸線から、車の流れる音がするくらい。そして時折、車やバイクが駆け抜けていく音。その中で、1分間に何度もため息をつきながら、茉莉はひたすら待った。

 5分待ち、10分待っても、探偵は現れなかった。しかし、約束の時間まであと5分ある。その7時半に来なかったら、もう一度電話しよう。

 不意に音が聞こえてきた。すぐ横にある扉から。、誰かがノックをしている!? 慌てて立ち上がった。どうしようか迷っていると、しばらくしてまた2回ノック。

「はい……」

 思わず返事をしたが、声が上ずっていた。いや、裏返っていたと言うべきか。私は訪問をしている側なのに、どうして返事をしなければならないのだろう?

 ロックが外れる音がして、ドアが細く開いた。中から若い外国人の女性が、唇の端に笑みを浮かべながら顔を覗かせた。

「電話をくださった方でしょうか?」

 外国人らしからぬ流暢な日本語だったが、それでもやはり外国人のしゃべり方だった。

「はい、そうです」

「お名前をどうぞ」

「森下茉莉です」

「探偵の依頼ですね?」

「そうです」

「しばらくお待ちください」

 ドアは閉められた。チャラチャラと金属がぶつかり合う音がした後で、ドアが大きく開け放たれた。

「どうぞ!」

 外国人女性はレストランのウェイターのように――ウェイトレスではなく――左手を軽く横に開き、茉莉を部屋の中へ招いた。スリーピースのような、黒のベストと黒のスラックスだったので、ウェイターのように見えるのだ。ブラウスは白。そして赤いストライプのネクタイを締めていた。

「いえ、すぐに一緒に来て欲しいんです。時計を探さないといけないんです!」

「おやおや、お急ぎなのはわかりますが、それほどのことでしょうか。誰かに取られてしまうのですかね?」

「そうなるかもしれないんです」

「どこに行こうとしているのでしょう?」

「川です。大和川……住之江公園と、堺市の間にある……」

「そうすると、川に時計を落としたのですか?」

「そうです」

「どんな時計ですか?」

「懐中時計です。タバンの……」

「高級品でしょうか?」

「いえ、すごく古い物なので、それほど高くはないと思いますが……」

「川のどこに落としたのかわかっているのですか?」

「だいたいの場所は……」

「それなら、あなた一人でも探せそうですが、どうして私に依頼するのですかね」

「それは……誰か、探し物が得意な人に手伝って欲しくて……」

 もちろん、茉莉自身、川の中に入って探すつもりなのだが、一人で探す自信がなかったのも間違いない。しかし、誰に手伝ってもらったらいいのかわからず、あるいは探偵ならいい方法を知っているかと思ったのだったが……

「それを私に依頼するには、少しばかり依頼料が高いのではないのかと思いますね。だからと言って、断ろうというのではありませんよ。とにかく落ち着いて、詳しい状況を話していただかないと、依頼が受けられないのですよ。よろしいですか?」

「あ、はい……」

「では、中にお入りください」

 茉莉は探偵の言うことに従うことにした。勧められるままにソファーに座ったが、周りを見回す余裕もなかった。「コーヒーをお出ししましょう」と探偵が言ったのにも断った。早く時計を探しに行きたくて、気が焦って、何も喉を通りそうにない。

「そうですか。せっかく二人分用意したのですがね。まあ、テーブルに置いておくので、飲みたくなければそのまま残してください」

 探偵がそう言って茉莉の前にカップを置いた。かろうじて、コーヒーの香りだけは感じ取ることができた。いつ用意したのだろう、と茉莉は思った。さっきまで、中には誰もいなかったはず……

 そもそも、彼女はどこから入ってきたのだろう? まさか正面入口からだろうか。あるいはここに住んでいるのか……

「さて、依頼をお伺いする前に、簡単に自己紹介いたしましょう。私が当探偵事務所の所長で調査員のエリーゼ・ミュラーでございます。あなたがお持ちの名刺には、三浦エリという名前も書かれているでしょうが、どちらでお呼びいただいても構いませんですよ。そして、あちらに見えますのが探偵業届出証明書でございます」

 探偵・エリーゼが、バスガイドよろしく右手を上の方に振り上げた。壁に額がかかっているが、茉莉の目に文字は入ってこなかった。

「従業員名簿をお見せするのは省略しましょう。どうせ私の名前しか書かれていないのです。そしてこちらが身分証明書です。新品のマイナンバーカードでございます。その他には運転免許証。ご安心ください、この近くの臨海警察署の署長にすら名前を知られた、至って優秀な探偵でございます」

 エリーゼは何かの義務に従って自己紹介をしているらしいが、茉莉にはほぼ関係のないことだった。別に、頼む相手が正規の探偵でなくてもいいのだから。しかし、一応茉莉も会社の名刺を渡して、自己紹介をした。

「それで、いつから探しに行っていただけるんですか?」


(続く)

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