第3話 骨董懐中時計の謎

第1章 行旅病人《こうりょびょうにん》

 探偵は腕時計を見た。

 古風なアナログ時計だった。文字盤にはローマ数字が配されていた。

 先端に飾りの付いた二つの針は、8と12を指していた。仕事を終える時間だ。

 デスクの上の電話を留守番モードにセットして、豪華な革椅子から立ち上がると、壁際の姿見鏡に歩み寄った。そこでネクタイのゆがみを直した。

 それから帽子掛けの中折れ帽を取って、被った。かなりの時間をかけて、その角度を調整しながら。

 外の非常階段に通じるドアの戸締まりを確認し、部屋の灯りを消した。そして反対側のドアを開けて、廊下に出た。

 小さな2階建てのビルだが、部屋はたくさんある。しかし探偵がオフィスとして使っているのは一つだけだった。他に使っているのは手洗いと、1階の倉庫だけ。倉庫はバイクを置くガレージとして。

 真っ暗な階段を降り、廊下を歩き、正面玄関前のロビーまで来た。しかし正面へは出ず、裏口のドアを開けた。そこが元々の、従業員専用口だ。

 そこから表へは回らず、裏の工場との間を隔てるブロック塀をよじ登った。塀から音もなく飛び降り、工場の中を通り抜け、さらに鉄柵を跳び越えて道に出た。

 辺りはひっそりとしていて、もちろん人影もない。東側の高速道路の下の道を、時折大型トレーラーが走り抜けるだけ。

 立ち止まったまま、塀をよじ登った時の服装の乱れを直すと、探偵は暗い夜道を歩き始めた。猫のように、軽やかな足取りで。


  *   *   *


 大阪市住之江区咲洲さきしま。大阪市最大の人工島であり、大阪南港の一角をなす。住宅地・商業地・工業地が隣り合いながらも画然と棲み分けている計画都市。ただし、いまだに空き地になっているところも多い。つまり計画倒れ都市……かもしれない。

 それでも「さきしまコスモタワー」の愛称を持つ大阪府咲洲庁舎や、アジア太平洋トレードセンター、インテックス大阪などがあるため、昼間の人通りはそれなりに多い。ただ、繁華街がないせいで、夜ともなればひっそりとしていて、岸壁で海を眺めるカップルの姿が目立つくらいだ。

 そんな静かな夜の人工島でも、警官はもちろんけいをしている。島の北端に近い、入国管理局の側に建つプレハブ造りの「大阪臨海署」庁舎から自転車で出発し、島内をほぼ時計回りに巡る。

 島の一番北の縁は「シーサイドコスモ」と呼ばれる公園になっていて、気候のいい時期には夜釣りをする人がいる。時折、釣り人どうしのトラブルがないでもないが、概して皆、マナーよく釣りを楽しんでいる。だいたい、夜釣りに来るような人に、短気な性格は少ないのだ。

「足下気を付けてくださいよー、海に落ちんといてくださいよー」

 しん巡査はかん巡査とともに、釣り人に声をかけながら、東へ向かってゆっくりと自転車を走らせていた。行く先には、海を隔てて天保山の夜景が見えており、観覧車の光の輪と、阪神高速湾岸線の天保山大橋の灯が重なっていた。その景色は、警邏中といえどやはり美しいと感じる。

 陸側には広場がある。丸いものと空豆型の二つ。もちろん、遊んでいる子供などいない。それらの横を通り抜けようとしたときに、二人の釣り人から声をかけられた。

「お巡りさん、ちょっとちょっと」

「はい、何です?」

 新間はその二人組の横で自転車を停めて聞き返した。まだ自転車からは降りないでおく。釣り人のふりをした悪人が、警官を呼び止めて殴りつけ、気絶している間に拳銃を奪う、という事態も考えられないではないからだ。

 が、よくよく見ると二人のうち一人は、よくここに夜釣りに来ている男だった。もう一人の顔は見覚えがないが、いかにも釣り人らしいジャケットを着ている。新間は自転車を降りた。相棒の神部も同じく自転車から降りて、鍵をかけた。

「そこに、人が倒れてますんや」

「人が? どこに?」

「そこの、滑り台の下ですわ」

 空豆型の広場には子供用の遊具がある。遊具と言っても、滑り台とブランコと砂場が広場の南の一隅にあるだけで、その滑り台も幼稚園にあるような小さいものだ。

 二人の男の案内で、新間たちは滑り台の方へ歩いて行った。公園脇の街灯はそれほど明るくないため、黒っぽい頭陀ずだぶくろのようなものが転がっているようにしか見えなかった。が、すぐ側まで近づいてみると、確かに人だ。汚れた服を着ていて、ホームレスのように見えた。若い男のようだ。新間は声をかけてみた。

「どうしましたかー、どうしましたかー」

「死んでるんでっか?」

 男を覗き込む新間の後ろから、心配そうに釣り人が聞いてくる。

「いや、生きとるみたいやけどな。どうしましたかー、どうしましたかー」

 新間が呼びかけても、男は苦しそうな声を出すだけで、返事もしない。

「熱があるみたいやな。病人か。誰や知ってますか?」

「さあ、見たことない顔やけど」

「いつからここにおるんやろ」

「わしは日が落ちてから来たんやけど、その時はここは通らんかったんで、気ぃ付きませんでしたんや」

 その釣り人の話によると、公園の一番東の端で太刀魚を釣っていたのだが、つい15分ほど前、公園の外の道路脇にあるコンビニへ、飲み物と夜食を買いに行こうとしたらしい。それで近道をするために広場を横切ったところ、その時に滑り台の下に何か大きなものが置いてあるのにたまたま気付いて、近寄ってみると何とそれが人だった。

 慌てて近くにいた見知らぬ釣り人に声をかけ、交番へ届けようか、でも一番近いところはどこやろ、などと相談しているときに、ちょうど新間たちが通りがかった、ということだった。

「交番へ連れて行ってくれますやろか?」

「うん、そうやな。いや、病院の方がええかな。えらい熱出しとるようやから」

 新間はそう言って、神部に署へ電話するように命じた。身元はもちろん調べるけれども、もしわからないのなら「行旅こうりょ病人」として扱わなければならない。新間としては初めての経験だった。

 社会保障法の一つに「行旅病人及行旅死亡人取扱法」がある。その定義によれば、行旅病人とは「歩行ニ堪ヘサル行旅中ノ病人ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキ者」だ。要するに、家以外の場所で歩けないほどの病気にかかり、お金もなく身元もわからない人、ということになる。

 そして第2条によれば市町村に救護義務があるのだが、もちろん、状況に応じて警察がそれを代行する。要するに、病院へ連れて行く。

 ちなみに行旅死亡人とは「行旅中死亡シ引取者ナキ者」のこと。臨海署では前例がないはずだ。

 やがて救急車がやって来て、男を病院に連れて行った。新間と釣り人らはほっと胸をなで下ろしたのだった。


(続く)

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