第3章 品触書《しなぶれしょ》
2025年に開催される万博で盛り上がっているはずの大阪。その会場は大阪湾に浮かぶ埋め立て地・
その日も臨海署は特に大きな事件もなく、静かに業務が運営されていた。小説やドラマで発生する悲惨な殺人事件とはほぼ無縁である。3階にある生活安全課もその例に漏れず。ただ、生活安全課は暴力事件と全く縁がないというわけでもない。ストーカー、家庭内暴力(DV)、児童虐待を扱うのは生活安全課であり、相談員は訪問や電話対応で一日中忙しかったりもする。
しかし、今のところはそのいずれにも無縁である刑事・
「はい、臨海署生活安全課です」
しばらく相手に受け答えした後で、不二恵は隣の席の男性刑事を見て言った。
「
「君が自分で相談に乗ったり」
「えー」
できるくせに、と門木は思いながら不二恵の抗議を無視した。品触書というのは窃盗事件などで盗難が発生したときに、その被害品をリストにしたものだ。それを
それについて骨董屋から相談があるということは、既に送付した品触書に記載された物を売りに来た人がいるときか、既に買い取った物が新たに送付されてきた品触書に記載されていたときかの、いずれかだ。そのどちらかによってやることは決まっているし、不二恵には何度もやらせたことがある。ただ、面倒くさがっているだけだろう。
「えーと、一番最近送付した分ですね? ちょっと待ってください。……何番ですか? はい、わかりました。担当の者と一緒に見に行きますので、いったん保管をお願いします。はい、よろしくお願いしますー」
不二恵が電話を切って、メモを門木に見せながら言った。
「門木さん、これ」
「そやから、君が自分でやりって」
「えー」
「やり方わかってるやろ。刑事課に電話して」
「わかってますけど」
「ちなみにどれ? うん、これか。これはトオル君やな」
門木は品触書と、不二恵がメモした番号を見て言った。指輪だった。
「トオル君って、武藤
武藤通は刑事課で、階級は巡査。門木と出身地が同じで、中学校の後輩だった。ただし6年も離れているので学校時代の面識は全くない。それなのに、門木のことをやけに頼ってくる時がある。生活安全課の職掌に関わることなら門木も相談に乗るが、その他の場合は「自分でやれ」「刑事課の先輩に相談しろ」と言うことにしている。
「どないしょって何やねんな。トオル君も君に頼られたら喜ぶで」
「でも、いっつも合コンしよって言うくせに、自分の方は全然約束守ってくれはらへんのです」
「仕事と関係ないがな。仕事で評価したりぃな」
「武藤さんがやってる仕事、全く知らへんのです。これってどんな事件の被害品なんですか?」
「これなあ、確か持ち逃げやったと思うけど」
ある有名なジュエリーメーカーの内部で発生した事件としか、門木も聞いていない。確か、社内の誰かが、指輪の現物とデザイン書を無断で持ち出したとか何とか。違ったかいな。
「それもトオル君に訊きぃよ」
「武藤さん、いてはりますかねえ」
不二恵は意外に素直に刑事課へ電話をかけた。「生活安全課の田名瀬不二恵でーす」と明るく名乗り――もちろん、電話用の声だ――武藤を呼び出してもらっている。不二恵は実は署内でかなり評判がいい女性刑事だ。ルックスがそこそこいいし、外面もいいからだ。もっとも、裏の性格が悪いとかひねくれてるとかいうわけではない。単に面倒くさがりなだけだ。
「お疲れ様です、田名瀬でーす。品触書の件で1件情報入りましたのでお知らせです。今週の品触書です。品番は……」
その後、骨董屋の名前と住所を告げている。住所は告げなくても、咲洲に一軒しかない骨董屋なので、署内の者はほとんど知っている。骨董のみならず、ブランド品や貴金属、カメラなども取り扱っている。買い取りだけでなく、質屋の代わりもする。
門木は不二恵の電話を、聞くともなしに聞いていた。不二恵はしばらくの間「はい」とか「そうです」とかしか言わなくなった。
「え、今から? そんなにすぐですか? えーと……」
不二恵が門木の顔を見る。どうせ「今から現物確認に行くので一緒に」と言われたのだろう。門木は無言のまま「行け行け」というように手を振った。見ようによっては「シッシッ」とも取れる。そもそも、門木の許可がいるようなことでもない。
「わかりました。じゃあ、5分後に。はい、はい」
不二恵は電話を切って「はあ」とため息をついた。
「課長に言うてから行って
「わかりました。たぶん、チャリですよねえ」
「当然」
島内の移動は、よほどのことがない限り自転車で回ることになっている。今日は天気もいいし、骨董屋は近いので車で行く理由がない。現物を回収する必要があるのなら車だろうが、今日のところはせいぜい保管命令だけのはずだ。店で、別途警察の指示があるまで保管しておくのだ。もちろん、その間はそれを売ったり、質入れ者に返したりしてはならない。
不二恵は課長に申告した後、「行って来まーす」と元気のない声で言って、出て行った。
それからしばらくして門木のところに電話が転送されてきた。刑事課の武藤からであるらしい。
「お疲れ様です。すいません、品触書のことでちょっとご相談が」
なんでやねん、と門木は言いそうになる。別に自分は品触書の担当でも何でもない。おおかた、一緒に行った不二恵が困って「門木さんに訊いて」とでも言ったのだろう。
「刑事課の人にまず相談した?」
「しました。その上で門木さんにご相談です」
ますます意味がわからない。とりあえず話だけは聞くことにする。
「品触書に記載の物と同様の品が店にあることを確認しまして……」
盗難として同時に申告された品は四つあるのだが、そのうちの一つであるらしい。しかし、数日前に刑事課に匿名の情報提供、いわゆるタレ込みがあり、「盗難品を確認するときはレプリカの可能性に注意せよと」のことだったらしい。つまり、盗まれた品その物ではなく、一緒に持ち出されたデザイン書を元に作ったものかもしれないということだ。そこまで聞いても、門木にはなぜそれが自分と関係あるのか理解できない。
「確認は届出人に依頼したらええんとちゃうの」
「それはやるんですけど、届出人の会社へ連絡したら、鑑定人を選別するからしばらく時間がかかると言うとるんです」
「ほんならしばらく待っときぃよ」
「それはそうなんですけど、うちの課長が、例の鑑識屋に頼んでみたらどうやと言うもんで」
渡利鑑識事務所のことだろう。しかし、門木はそのための代理人でも何でもない。もっとも、臨海署内では一番たくさん相談に行っているし、門木が利用して捜査の役に立ったことが、署内だけでなく府警本部でも評判になった。なので府警察から、公式の外部調査機関として認められているくらいだ。
「頼んでみたらええんとちゃう? 費用は署内共通費でも府警共通費でも好きにして」
「それなんですけど、あそこってこの手の物も見てくれるんですかね?」
「何でも見てくれると思うで。わかるかどうかは別やけど」
「わからんかったら困りますやん。宝石鑑定は得意かどうかとか、知りませんか」
「宝石鑑別士の資格は持ってるはずやけど」
「そうですか! それは良さそうですね。じゃあ、ちょっと行って来ます」
「はいはい、ほな」
「あ、ちょっと待ってください。不二恵ちゃんも連れて行っていいですか?」
「あかん。田名瀬だけ署に戻るように言うて」
「何でですの?」
「あそこを面白がられたら困る」
「ははは! ほんまですか?」
「今のは冗談やけど、あいつ、情報をポロッと漏らす可能性があるから、行かせたくないねん」
「それはわかる気がします。ほな、不二恵ちゃんは戻ってもらいますんで」
「一応言うとくけど、鑑識結果はわしに報告してもらう必要ないから」
「それはそうですけど、品触書に注釈付けて生活安全課に回すことになりますから、結局は門木さんも知ることになりますやん」
「まあ、それはそうかもしらんけどな」
ただ、電話を受けて話を聞くのが手間だというだけだ。必要な情報ならもちろん欲しいが、門木にとっては“渡利鑑識”関連のネタというだけで、関係ないものが多いからだ。もっとも、たまには無関係でも興味深くて野次馬をしたくなるような話も、あるにはあるのだが。
やがて田名瀬が帰ってきて、「はあー」とため息をつきながら椅子に座った。おばはんか、と門木は思った。それほど疲れることをしに行ったわけでもあるまいに。
「門木さん、ちょっと聞いてもらえます?」
「報告書にしたら見たるで」
「報告書は武藤さんが書くって言うてはりました。後で確認してサインしてって。でも、武藤さんが報告書に書くかどうかわからへんって言うてることがあって」
「気になることがあったら備考欄にでも書いといたらええんちゃうの」
「そうなんですけど、書き忘れはるかもしれへんから」
忘れとったらお前が書けよ、という言葉を飲み込んで、とりあえず聞いてみる。
「高額の指輪やったから、店主は当然、持参人に身分証明を提示してもらったんです。内容も控えてありました。でも、盗品を持ち込む人って、態度でわかるときありますやん。こそこそしてるみたいな感じで。そやのにその人は堂々としてて、ニコニコしてて、イケメンで、すごい誠実な感じの人やったんですって。店主がさりげなく買い取りの理由を訊いたら、好きな人のために買ったけど、受け取ってもらえるかどうかわからんようになったから、って言うたらしいんです。しかも買い取りやなくて質入れで、質請けもたぶんするやろうって。身なりもよくてお金に困ってる様子もないし、何で質入れするんかわからへんって店主が言うてはったんです」
「それは確かに変わってるな」
しかも備考欄に書きにくい。ただ、そういうぼんやりとした情報でも、何らかの形で書類に残さないと、他の捜査員に伝わらないから後で困ることもある。
「箇条書きでもええから、3行か4行くらいに何とかまとまらへん?」
「んー、武藤さんに頑張ってもらいます」
お前も頑張れよ、と言いそうになるが、窃盗の担当は刑事課なので武藤が頑張るのが確かに本筋だろう。不二恵とて、メモくらいは残しているだろうから、心配するほどのことではない、と門木は思い、気に留めておく程度にすることにした。
ところが翌日になると、気に留めるどころでは済まなくなった。府警本部から臨海署を含む府下全所轄署の刑事課と生活安全課に、該当の盗品・他関連の3点に関する通達が回ってきたのだった。その通達に曰く、
「大阪市内の4署の管内で、某窃盗事件の被害品と考えられる4点が、古物商あるいは質屋にて
「当該品4点のうち1点(臨海署担当)は被害品と類似ではあるものの被害品そのものではないことが判明、残りの3点は確認中」
「3点の確認については被害者の鑑定人選定待ちだが、臨海署の結果を踏まえ、保管命令を発行の上、臨海署の採用した外部鑑定人に先行鑑定を依頼する」
「最終的な確認については被害者の判断によるものとする」
「入質者は同一人物であるが、現在は連絡が取れない」
なんじゃこれは、と門木が思っているところに、刑事課の武藤から電話がかかってきた。まさにその通達の件だった。
「これから他の署の連中を連れて例の鑑識事務所へ行くんですけど、門木さんも来はります?」
「行かへん」
「あれ、うちの鑑定結果、気にならへんのですか?」
「なるけど、報告書だけ回してくれたらええねん。まだ回ってきてないで」
「おかしいな、あれが
署内サーバの、刑事課が他課向けに公開している文書フォルダのことだ。報告書が電子化されてそこに入っていることを意味する。公開はメールで通知されるのだが、おおかた課長のところで転送されずに止まっているのだろう。
「後で見とくわ」
「他の3点も類似品やと思います?」
「入質者が同じなんやったら、どれも類似品なんやろ」
「やっぱりそう思いますよねえ。まあ、すぐわかると思いますわ」
結果は1時間後に風のように伝わってきた。やはりどれも類似品で、被害品そのものではなかったのだった。その“風”を運んできたのは不二恵で、「偶然にしてもおかしな話ですねえ」と
(続く)
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