第3章 行方不明 (前編)
大阪市には24の区があり、その各区に警察署がある。梅田の繁華街を擁する北区には曾根崎署、天満署、大淀署の三つ、中央区には東署と南署の二つ、その他の区には区名を冠した警察署が一つずつ。
そして、それ以外にも特別な役割を持たされた署が二つある。一つは大阪水上警察署。港区の海沿いにあり、大阪府内の海域と、大阪市内の各河川、そして港区の一部を管轄する。そしてもう一つは大阪臨海警察署。通称、臨海署。
組織として、地域課、交通課、刑事課、警備課、生活安全課があるのは他の警察署と同じ。ただ臨海と名は付くものの、大阪湾の海上や河川は従来に引き続き水上署の船舶課が管轄している。
ある土曜日のこと、その臨海署の庁舎の2階にある生活安全課で、一人の男性刑事が、平穏な午後を過ごしていた。生活安全課の仕事といえば、防犯活動、行方不明者の保護、少年犯罪対応、ストーカーやDVに対する人身安全対応、サイバー犯罪対応、そして風俗営業や探偵業の許可営業手続きなど、多岐にわたるのが特徴だ。
課全体の人員が少ないせいで、誰がどの仕事を担当するかは、大まかな区分があるだけで、たいていは全員が全部の仕事を兼務している。署全体としても人が少ないことから、時には他の課、特に刑事課の仕事を手伝うことすらある。もちろん、他課が手伝ってくれる場合もあり、持ちつ持たれつ、というところだった。
しかし本日は今のところ、本課ではどの仕事についても大きな事案はなく、より正確には少年担当がひたすら忙しいくらいで、その他の人員がやることといえば次の防犯教室の資料の整理と、過去に相談してきた人への電話対応くらい。
来庁者も特に少なく、午後になって来たのはたった一人で、それには若い女性刑事が相談に乗っていた。どうやら、行方不明者の問い合わせらしい。
「
その女性刑事が呼んでいる。平穏な時間を妨げられた男性刑事は、「ほーい」と一言返事をすると、自分のデスクから離れ、廊下側に作られた受付カウンターの方へ足を運んだ。
女性刑事、名前は田名瀬不二恵というのだが、困ったという顔をして門木の方を見ている。田名瀬は若手だが、聞き上手であることと、署内きっての美人――ただし自称――であることが相まって、相談に来た市民からの評判もよい。普段なら行方不明者の問い合わせについても無難にこなすのだが、今日は
「はい、どうしましたかー」
「こちらの方、行方不明者の届けを出しに来はったんですけど、どうしても詳しい話聞いて欲しいて言わはって」
門木の予想どおりだった。田名瀬の手元にある届出書を見る。まだ書きかけのようだ。名前と住所と生年月日は埋まっていたが、後はほとんど空欄だった。
年齢は40歳で職業は主婦、そんなものはほとんど役に立たん。身長は150センチくらい、普通やな。体格も普通か、これも役に立たんな。その他の身体的特徴は空欄。髪型も服装も血液型も本籍も空欄。まあ、本籍は空欄でもえんやけど。何や、写真もないんかいな。そんなんで探せるかいな。勘弁してえな。
もちろん、それらを口には出さない。
「それで、聞いて欲しいいうんはどういう話ですか?」
門木は届けを出しに来た男に向かって言った。特に愛想のいい表情は作らなかった。何もしなくても、地顔が愛想よく見えるらしいからだ。ただし、自分の顔が気に入ってるわけではない。普通にしていても、「何をへらへらしとんのや」となじられるくらいだった。
そして男の方はというと、おそらくは40代くらいで、四角い黒縁眼鏡をかけていて、顔も四角くて、真面目そうではあるが冴えない感じ。身長は165センチくらいだろうか。やや太り気味。身なりは悪くないが、センスがいいというわけでもない。もっとも、警察に来るのに正装である必要はないが。
「いや、どうもこうも、それだけの情報では人が捜せんて、この婦警さんが言うもんやから……」
最近は婦警ではなく、女性警官と呼ぶことになっているが、とりあえずはどうでもいいとする。
「はあ、そら、せめて写真がないことにはねえ。別に、デジカメとかスマホのカメラで撮ったデータでもええんですけど」
「そういうのもないです」
「あなたが持ってへんでも、他の人が持っとるかもしれんから、聞いてきてください。ところで、あなたは捜して欲しい人と、どういうご関係ですか?」
届出人を見ると、「
「いや、その……隣に住んどる
「はあ、隣にね。それは隣の家、それともマンションの隣の住戸?」
「マンションの隣です」
「家族や親族でっか?」
「そうではないです」
「仕事の関係者?」
「それも違います」
「それやったら、まず届出人としての資格がないんちゃいますかな。お隣さんのこと心配なんはわかるけど、それだけやったら届け出がでけへんのです」
届け出ができるのは、行方不明者の親権者、後見人、内縁を含む配偶者、その他の親族、看護者、福祉事務職員、同居者、会社関係者、など。つまり、行方不明者と強い結びつきがあると認められる場合のみだ。赤の他人は届け出ができない。
「しかし、マンションの管理人とか、他の住人もみな心配しとるんです」
「それでも無理ですわ。この縁谷さんの親兄弟とか親戚とか子供はいてまへんのかいな」
「お父さんが
「子供がおるいうことは、結婚しとるんですやろ。旦那はどないしてんの」
「それが……ここ何年も働かんで、ふらふらしとって、彼女から金をせびっていく、いわゆるヒモ状態やったらしいんですわ。それで最近離婚したと……」
「うちの署で処理したんでっか?」
「いや、西成の方やと……」
「別れたけど元旦那が生きてるんやったら、元旦那のところへ行ったんかもしれまへんな」
「いや、それはないです。彼女は元旦那には絶対会いたくない言うてて、僕だけやのうて、マンション中の住民みなが知ってるくらいで」
門木は須田と話をしながら様子を観察していたが、どうもこの男は独身で、その縁谷光子という女性に惚れているのではないか、という気がしてきた。結婚している男であれば、いくら隣人のことが心配でも、それが女性であるのなら、妻に任せるなりして、自分で警察に届け出に来たりしないだろう。
「とにかく、4日前から彼女が部屋に戻ってへんで、スマホへ電話しても出えへんのです。しかも昨日からは、『電源が入っていないか、電波の届かないところに……』いうメッセージが返ってくるようになって、スマホが電池切れになっとるんちゃうかと……」
「海外へ一人旅いう可能性はないんでっか?」
「彼女はパスポート持ってへんのです」
何でそんなこと知っとる、と門木は思った。その女を海外旅行にでも誘ったことがあるんか。
「話が長なってきたなあ。ちょっと場所移しましょか。こちらへどうぞ」
(続く)
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