第49話 射影氷面

 トーマは速かった。

 こんなに速いスケーターを、わたしは今まで見たことがなかった。


 リンク全体に8の字を描くように、フォアで対角線の端まで行きバックで戻ってくるダッシュ練。

 トーマはこれが抜群に速く、永遠に滑っていられそうなほど速度が落ちなかった。

 速さならわたしだって誰にも負けない自信がある。

 けど、わたしが四回の漕ぎでトップスピードに持っていくところを、トーマは二回で持っていく。

 いきなりぐんと引き離され、わたしは愕然とした。何が起きたのか分からないまま背中が遠ざかる。

 すぐに加速して後を追う。

 どこまでも遠くへ潜行する。循環する無限のループがあたかも直線であるように。


 集団を振り切り、後ろに張り付いた。

 なぜかトーマは青のビブスを着けていない。目の前にはただ黒い背中があった。

 手を伸ばしても届かないぎりぎりの距離。まるで透明な断層に隔てられているみたいに、最後の差が埋まらなかった。

 トーマは流れに乗っている。それはると確実に分かる。

 でも、凝視するほど視界が霞む。


 何度目かのターン。モホークでバックに切り替える。

 途端に後ろから抱きかかえられているような気配を感じ、背骨が凍った。

 首筋に不気味な空気の層が生まれていた。

 吐息だと直感する。わたしはシオリを思い出した。外側からわたしを動かす、影の一番濃い空気。

 スリーターン。再び前を向く。

 果たして目の前にトーマはいなかった。

 遠くに映し出された影のように、黒い背中が小さく揺らめいていた。

 差が広がっている。血が凍り付きそうだった。

 でも、足は止まらない。止められない。

 無限のループ。

 五分もすれば脱落者が出る。

 次々と歯抜けになり、最終的にわたしとトーマだけが残った。


 ……疲れた


 呟き、ハッとした。

 身体が立ちおくれている。

 疲労が、意識と肉体に乖離かいりを生み出していた。

 認識した途端速度が落ち始め、ついに周回遅れになりそうなところで、突然、


「やーめた」

 トーマは鋭いブレーキを掛けて止まった。

 エッジから氷の飛沫しぶきが噴く。ホッケー選手のような躊躇の無い止まり方だった。

 停止した背中を見て胸をなで下ろし、すぐにそんな自分に嫌悪感が湧き上がる。

 疲労と安心。

 ずっと氷上では無縁だったはずのもの。

 ……一体どうしちゃったの、わたし。

 同時に肩が軽くなったようにも感じて、ずっと何かを背負っていたことに気付く。

 形の無いもの。目に見えないもの。


 顔を上げて、ぞっとした。トーマはほとんど息を切らしていなかった。

 わたしは、立っているのもやっとだった。


「まだ、やれるもん」

 絶え絶えの息を必死に整えて言うと、

「よくやるよね、君不利なのに」

「は?」

 わたしはトーマを思い切り睨みつけた。

 涼しげな顔には、一滴の汗も浮かんでいない。

 目線は同じ高さのまま、見下されていると思った。

 黒いもやが立ち込める。


「……わたしが女だから?」

「は? 違うよ」

 トーマは呆れ返った表情で、わたしの足元をくいと顎で指した。


「だって君さ、履いてるそれ、君の靴じゃないでしょ」

 乾いた声。

 時が止まる。


「……わたしの靴だよ」


 わたしの靴だよ。

 自分の声が耳の奥で何倍も増幅して響いた。

 吐き気が襲う。でも、目が離せない。


 トーマはふうん、と間延びした声で言って、上から下まで舐めるようにわたしの身体というか存在を見た後、


「本当にそれでいいの?」

 虚無的な眼差しをわたしに向けた。


 ——未来とか覚悟とか、本当にそれで?


「あんた、まじで何なの?」

 ずかずか入り込んできて、不愉快にも程がある。

 湧き上がる憎悪に言葉が追い付かない。

 しばらくわたしたちは睨み合っていた。


「……流石さすがは去年の失踪コンビ。足の速さはピカイチね」

 いたって真面目に感心しながら先生が近付いてきた。

 ……失踪コンビ?


「え、何? 君も何かやらかしたの?」

 しゅっと距離を詰めてきて、トーマはにやにや笑った。


 絶対に答えないし聞かない。知る必要も無い。

 わたしは無言で視線を氷に落とした。

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