第43話 信号
部屋が分かたれるのはあっという間だった。
業者が来て、ほんの二日でおばあちゃんの部屋はきれいに片付き、洵のベッドが運び込まれた。
その夜から、洵はそこで寝るようになった。
部屋には鍵が掛けられた。
わたしの靴は、洵が持ったまま。
洵の靴は、わたしが持ったまま。
元に戻す機会は無かった。
わたしもパパから鍵を受け取った。
けど、こんなもの何の役に立つっていうんだろう。
大切なものは、最初から手の届かない場所にある。
洵はリンクに行かなくなった。
個別レッスンも全てキャンセルし、代わりに塾に通い始めた。スパルタで有名な厳しい塾で、入るのにも試験が要るところ。わたしなんかは門前払いを喰らうような。
「中受をしたいんですって」
……チュージュ?
「中学受験のこと」
帰りの車で、ママは言った。
塾は駅前にあって家からも近いから、送り迎えは要らないらしい。
わたしは一人、助手席に座るようになった。完全に惰性でリンクに通い続けていた。まるで行くということ自体が目的になってしまったみたいに。
……あれだけ強く、やめると決めていたはずなのに。
「将来を真剣に考えたいって言ってたわ。あの子勉強はできても、夢とか目標とか全然無いみたいだから。やりたいことが見つかった時のために、選択肢を多く持っていたいって」
霧のような雨がひっきりなしに降っていて、赤信号の輪郭がぼやけて見える。
――洵。
将来の夢。夢って言っていいか分からない。
けど、ずっとスケートを滑っていたいんじゃなかったの。
なるべく長く。
おれはやめない、って言ったでしょ。
どうして、やめるわたしが今も氷上にいて、やめない洵が氷上にいないの。
スケートが嫌いになったの?
「バッジテストの時ね」
かち、とワイパーを起動し、再びママが口を開く。
「汐音の衣装と音源持ってきてたの、ママじゃなかったのよ。ママは、汐音が本当にスケートやめるって思ってた。他のママ達の手前、あんな風に茶化してしまったけど。……本当に悪かったと思ってる。でも、汐音、スケートやってても全然楽しくなさそうだったから。みんなが跳べないジャンプを軽々と跳んでも、ちっとも嬉しくなさそうだったもの。だから、本当に汐音が嫌ならやめてもいいって、ママは本気で思ってた。パパもそうよ」
「……」
「でもね、洵が。洵だけが、そんなわけないって言ったのよ。汐音がスケート楽しくないわけないって。楽しいの、忘れてるだけだって。汐音は気まぐれで、いつ急に滑りたいって言い出すか分からないから、おれが持ってくって」
だから汐音。あの時滑れてよかったね。
転んでも、止まっても、氷の上に行かなければ、全部無かったことだもの。
微笑みながらも、ママの目にはうっすら涙が滲んでいた。
信号が青に変わる。
……前見て、ママ。
わたしは、それしか言えなかった。
規則正しい動きでワイパーが窓の曇りを取り除いては、また曇る。
わたしの膝上のシューズバッグには、今も洵の靴が入ったままだ。
あれから一ヶ月、わたしはずっと洵の靴で滑り続けている。
内側の感触も外側の傷も、いつの間にかわたしのものになってしまった。
ならばもう、これはわたしの靴なのかもしれない。
氷上を去ることで、洵は輪郭ごと世界に溶けて消えてしまったみたいだ。
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