第39話 You know What you are?
「霧崎汐音さん、前橋FSC」
コールされ、氷上に出る。
水色のシフォンのドレスが風にはためく。
家に置いてきたはずなのに、なぜか更衣室にケースごと掛けられていた。
「しおん、がんっば!」
「がんばー!」
四方から声援が飛ぶ。一番大きく耳に届くのは、可憐の声。
洵は皆から一人離れ、ショートサイドのフェンス越しに無表情で立っている。
……全部、いつも通りだ。
靴の履き心地もブレードの感触も、不気味なほどに。
恐れは無い。ここは、わたしのテリトリー。
太ももを強く叩き、最後の重力を振り払う。
サブリンクで足慣らしをする暇も無かったから、ぶっつけ本番だ。
それで構わない。
わたしのスケートは一回性。繰り返さない。
この姿勢は、バタフライ・エフェクトというプログラムに反している。
わたしにはタイムスリップというものが分からない。たとえ過去に戻ったとしても、戻った時点から今が始まるだけなのに。
積み重ねも振り返りもありえない。
美優先生がわたしにこのプログラムを振り付けたことを、少しは後悔すればいいと思う。
今、ここ、わたし。
何度だって、初めて生きる。
目を閉じる。一瞬で夜になる。
音は待たない。音はついてくる。
どこまでも広がる星の海。
上へと手を伸ばす。
わたしの、本当に欲しいもの。
無数の円が積み重なる足場を、今夜また一層、更新する。
乗り換えても乗り換えても、決してたどり着けない場所。
一番近いのに、一番遠い。その距離は無限。
だからこれは永遠の旅だ。
分かっていても、足を踏み出す。
踏み出さずにはいられない。
くるり、くるり、とまずはイーグルで円を二つ。
体内の循環が始まる。
……流れは、まだ死んでない。
トリプルルッツ、トリプルループのコンビネーション。
着氷と同時に歓声と拍手が湧き上がる。
けど、すごく遠い。
地上と氷上を分かつものは距離ではない。
足場でなければ、靴でもなく、それは誰とも繋がらないということだ。
ここは天の最深部。
孤独はここにだけ存在する。
――でも、わたしはここで会いたい。
リンクサイドの一点を目で捉えた。
ショートアクシス。
黒いジャケットを羽織って、腕組みを崩さない洵。
スリーターンから、トリプルフリップ。
洵の一番得意なジャンプを、洵の目の前で降りる。
食い入るように、洵はわたしの足元を見ていた。
おれの靴が、わたしの靴へ。
……ちがうよ、洵。
これは、あなたの靴。
わたしは境界を乗り越えたいんじゃない。
世界に溶けて消えたいの。
洵の世界になりたい。
なのに、他でもない洵がそれを拒む。
拒んでなお、わたしを追い立てる。
断絶の上へ。剥き出しのエッジの上へ。
……わたしも同じ気持ちだよ、洵。
絶対に、許さないから。
バタフライのエントランスからドーナツスピン。
身体で円を模し、螺旋を生み出す。
バトンキャメルで天を仰ぎ、
神様。
心がそう叫んでいた。
今しかないんです。
わたしは天空に垂れるシャンデリア。
でも、もうすぐ濁ってしまう。
光を受け取れなくなってしまう。
だからその前に、身体ごと巻き上げて、押し流してほしい。
水底ではなく、正真正銘の上。
天上へと。
「ここには、誰もいないよ」
一滴の雫が、わたしに落ちた。
ぼくは君だ。
あの時の声色。紛う無きあの少年の声。
……誰もいないというのなら、あんたは誰?
「その質問に、君は答えを持っている?」
わたし? わたしは――
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