第27話 Change(On the Silver Edges)

 何も見えないのに、闇がある。

 どこが境界線なんだろうと思う。

 触れば肌がある。

 ならば皮膚一枚で、わたしは夜と対峙たいじしているのだろうか。

 見えないものとは、にらみ合うことすらできない。

 間近にあるのではなく、既に取り込まれているのかもしれなかった。

 わたしが目覚めているのなら、夜だって目覚めている。

 目蓋を閉じてみる。

 開けていたさっきと何が違うのか分からない。

 時間が完全に溶け出している。


 朝は来ないという確信があった。

 何かを失う。失ったことさえ気付かずに。

 寝返りを打つ。

 身体が在ると分かる。

 この重みが、わたしを地上に留めている。


 前髪をくしゃりと持ち上げて落とす。

 ……結局、髪は切らなかった。

 バッジテストはやめにしたし、スケートそのものに、わたしは背を向けていた。

 ママは呆れきった顔をした後、好きにしなさい、と突き放すように言った。

 ――いつになったらちゃんとするのかしらね。

 そう呟く声が、食洗機の音に紛れて聞こえた。

 今でないことは確かだし、今じゃないのならそれはずっと来ない。


 ゆっくりと身体を起こす。

 寝息が聞こえていた。

 深く、洵は眠りについている。

 まるで眠ることで洵は完ぺきに洵に還っているみたいだ。

 わたしも、そうなれたらいいのに。

 横たわり、意識を沈めた先で、わたしはわたしを取り戻す。

 氷上。魂の還る場所。

 それを、わたしはわたしから取り上げたのだった。


 爪先で降りて、隣のベッドにそっと腰を下ろす。

 慎重に身体の位置を探る。

 冷たいシーツに手を置くと、すぐそばにうっすらと温もりを感じた。

 体温の圏内。


 キスをすると入れ替わるという漫画を読んだ。

 じゃあ、キスをしなくても入れ替わっていたわたし達には、一体何が起こっていたんだろうか。

 そして、そんなわたし達がキスをしたら、今度は何が起こるのだろう。

 何かが、変わる?

 あるいは、戻る?


 満たされていた頃。

 わたしは洵で、洵はわたしだった。

 二人だけの言葉。それが世界の限界だった。

 生まれると生まれないの間。永遠。


 わたしは洵に馬乗りになり、そっと頬に触れて顔の位置を確かめた。

 洵の輪郭は見えない。

 人差し指で鼻筋をなぞる。そのまま、指先を唇に当てた。

 押し返してくる弾力の柔らかさ。

 顔を近付ける。

 体温の源。魂の在処ありかへ。

 耳に掛けていた髪の毛が一房、ぱさりと落ちた。

 その瞬間、


「汐音」


 確かに、洵の唇はそう言った。

 声はしない。でも、唇が波動を伝えていた。

 一ミリの距離で、ハッとした。

 ……氷の匂いだ。

 こんなにも闇は生ぬるいのに。


 今この瞬間も、洵は氷上にいる。

 一人きりで、伸ばしても届かない手の向こうに。

 わたしがキスをしようとしているのは、抜け殻だった。


 顔を離し、上体を起こした。

 ベッドを降り、机に向かう。

 椅子の下からシューズバッグを引きずり出す。

 ファスナーを開ける音が暗闇に響いた。

 まるで死んでいるみたいに、洵は起きない。


 靴を取り出す。右足と左足。

 ずしりと重い。

 青いエッジガードをがこんと外す。

 ブレードが光っていた。

 こんなにも完ぺきな暗闇の中、どこから光を取り込んでいるのだろう。

 まるで発光しているみたいだ。

 指先で、そっとエッジを撫でる。


「痛っつ」


 ぴり、と人差し指に痛みが走り、慌てて離した。

 咥えたら舌先を鉄の味がかすめ、血が出たのだと分かった。

 エッジは刃だ。

 わたし達を切り裂き、断絶の上に置く。


 わたしは自分のシューズバッグからも靴を取り出した。

 水色のエッジガードを外して、洵の靴に付け替える。

 青いエッジガードを、わたしの靴に付け替える。

 洵の靴を、わたしのバッグに。

 わたしの靴を、洵のバッグに。

 完ぺきに入れ替えた。


 洵、この世界を、あきらめてよ。

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