第18話 結晶体
借りたアイスホッケーの靴はブーツの部分が見た目以上に硬かったけど、一度足を入れてしまえば履き心地は悪くなかった。エッジもきちんと研磨されている。
ザンボがゆっくりとバックヤードへ帰っていく。
美優先生は他のスタッフと一緒にバケツを手にし、残った欠片や削りカスを拾い集めていた。
整氷が終わり、真っ先にリンクに飛び出す。
思った以上にブレードが短くて、数歩つんのめった。
けど、ちゃんと立っていられる。
ほんの二、三周で、靴はわたしにすっかり馴染んだ。身体が軽かった。
風の流れを読む感じ。こういうのも悪くない。
新鮮で、楽しい。
……楽しい?
「汐音」
スピードを緩めたところを、可憐に捕まる。
振り向くと、見たことがないほど強張った顔をしていた。
「それ、ホッケーの靴でしょ。どうしてそんなの履いてるの」
声が張り詰めている。
重い空気をすり抜けたくて、えへへと笑った。
「わたし、こっちの才能あるかも。ホッケーに転向しちゃおっかな」
その瞬間、氷上いっぱいに破裂音が響いた。
「……いいかげんにしなさいよ」
ほんのさっきまで可憐と向き合っていたはずなのに、わたしの視線は氷面へと落とされていた。
殴られたのだった。平手で、思いきり。
頬に右手を添える。
熱い。
言葉が出ない。
頬が、どんどん熱を帯びていく。
けど、痛みは感じない。
痛みだけは、ここでは生まれてこない。
「遊びじゃないんだよ、フィギュアスケートは。みんな本気なの。私も、洵くんも、世界中のスケーターが、みんな真面目にスケートやってるの。なのに、あんたは何?」
声も身体も、可憐はわなわなと震えていた。顔がみるみる歪んでいく。
「一度だって、しがみついたこと無いよね。いつでも放り出せますみたいな顔して。絶対に許せない。あんたみたいなのがフィギュアスケーターだなんて、死んでも認めたくない。認めたくないのに……どうして」
うわあ、と天を仰ぎ、可憐は泣き出した。歪みきった頬の上を、大粒の涙がとめどなく伝う。
わたしはただ呆然と見ていた。
無言で立ちつくすわたしを、更に見下ろすわたしが天上にいた。
これは、わたしが泣かせたということになるんだろうか。
だとしたら、わたしの中の何が。
確かにそうだ。スケートは遊びではない。
スケートは、標本だ。
氷層に累積していくわたしの過去。
刻む足を止めないから、今を生きられる。
わたしはスケートを生きている。
逆に訊きたいよ、可憐。
数多あるスケーターの条件。
全て満たせば、わたしがフィギュアスケーターだということになるの?
いくら積み重ねても、わたしの核にはたどり着かない。
それは、氷そのものだから。
しがみつくわけがない。
わたしだけが、本当にスケートをやっている。
円を乗り換えるたびに、命を差し出している。
天の水底。
決してすれ違うことのない水域。
わたしは世界を共有しない。
誰とも。
ここには、わたししかいない。
「どうしたの、二人とも。可憐ちゃん、どうして泣いてるの」
「何でもありません。何でもないんです……うわああ」
可憐は美優先生の胸に崩れるように泣き伏せた。
キッと先生はわたしを見た。
「汐音ちゃん、何があったのか説明して」
この人の敵意を隠さないところだけは好きだ。
本能で、わたしが範疇の外に在ると知っている。
「そんなの、わたしが知りたいです」
くるりと背を向けて滑り出すと、
「待ちなさい! その靴何?」
美優先生は甲高い声で叫んだ。
全てに冷めた。
ホッケーだろうがフィギュアだろうが、どうでもいい。
靴ですらわたしを定めてはくれない。
リンクを降りようとしたら、出口の前に洵が立っていた。
門番みたいな目をして。
「……お前、何でスケートやってんの」
わたしは無言で氷を降りた。
全てがここでは断絶する。
わたしが出ていくなんて馬鹿げている。
愛されているのはわたしだけだ。
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