第17話 マリオネットの穴
「ねえ、なんかもらわなかった?」
フェンス越しに声を投げる。
「なんかって?」
洵はベンチで靴紐を結んでいる。
「手紙とか」
「何、手紙って」
「下駄箱に入ってなかった?」
「何も入ってなかったけど」
怪訝そうに目を上げる。
……お前、なんか入れたの?
わたしは無言で首を振る。ふと思い立つ。
「ねえ、ジャージ上げて」
「は? 何でだよ」
「いいから。右の膝見せて」
洵は首を傾げながらくしゃくしゃっとズボンを引き上げた。
絆創膏が顔を出す。わたしは胸を撫で下ろした。
何なんだよ、と強めに言われたけど、聞こえないふりをして再び滑り出した。
一般開放の時間中は、わたし達クラブメイト以外にも、常時五~十人くらいのお客さんが滑りに来ている。ほとんどは大学生、それもホッケーのスケーターだ。
滑走の際の姿勢、描く軌道がフィギュアスケーターとは異なる。
ずっとシャープで、躊躇の無い動き。
何より、靴が違う。
ブーツの部分もゴツくて色々違うけど、とにかくブレードの形状が全然違う。
刃が薄く、先端は短くて丸い。ジャンプのためのトウピックも付いていない。
HARUNA GAKUIN UNIV.と書かれたスウェットの足元に目を吸い寄せられながら、ふと、あれを履いてもわたしはここに立っていられるんだろうか、と思った。
一度ひらめくとどうしようもなく足がうずく。
後でカウンターで借りてこよう。
来週のバッジテストに向けて、洵は個別に美優先生のレッスンを受けていた。
リンクの片隅で、先生が手持ちのコンポで曲を流し、つなぎの動きを確認している。
「ストップ、ストップ」
先生は音楽を止める。
「この部分、肘が固いわ。それじゃマリオネットみたい」
洵の動きを真似しながら先生は言う。
……鏡の中のマリオネット。
わたしは凍った。
洵が歌った。まるで鼻歌みたいに。
「やだ、そんな古い歌よく知ってるわねえ」
けらけらと美優先生が笑う。
「え、みんな知ってますよ。だって群馬のバンドですよね」
「みんな? クラスのとか?」
「そうそう、みんな」
やわらかい笑顔。
ここでだけ、洵は自然に笑う。
家でも学校でも、地上には、うまくいかないことなんて洵には無い。
洵に厳しいのは氷だけだ。
なのに、どうしてここで、そんな風に笑えるの。
わたしは、ありったけの勢いをつけて二人のそばを通り過ぎた。
びゅん、と空気が一瞬で散り、洵がキッとわたしをにらむ。
そんな気配がした。
けど、振り向かない。
叫びたかった。
――洵、みんなって誰。
わたしは知らないよ、そんな歌。
「アイスホッケーの靴、22㎝」
カウンターにレンタル券を出したら、叩き付けた風になってしまった。
400円。スケート靴って高いな。けど、今のわたしはなりふり構っていられない。
受付の弥栄さんは目を丸くして数秒固まっていた。
「ええ? 汐音ちゃんどうしたの? 靴壊れた?」
「壊れてません」
「じゃあどうして? ちゃんと朝霞先生に言った?」
「休憩中に履くだけです。早くしてください。整氷終わっちゃう」
あるかなあ、と首を傾げながら弥栄さんは奥へ靴を探しに行った。
気怠い上半身をカウンターに預ける。
足元を重力の影がうごめいている。一段といやな感じ。
あの後、シオリはいつの間にかいなくなっていた。
早く履き替えたい。
伸びてくる根茎をぶちぶち踏み潰す。
洵はリンクサイドで美優先生と話し込んでいた。
さっきとは打って変わって真剣な顔で、何かメモを取っている。
引くくらいびっしりと字で埋まっている、洵のスケートノート。
……馬鹿げている。あんなもの、捨てた方がいい。
きっと、洵は六級は受からない。ダブルアクセルの成功率が五割を切っている。
たとえエレメンツで合格しても、フリーの方で失敗する。
演技時間、三分十秒。
絶え間ない氷上の流れを、洵は捉えられない。
見えていないんじゃない。洵には光は降ってこないのだ。
わたしの六級のバッジ。
去年の今頃ケースに仕舞ったまま、一度も日の目を見ていない。
認定証の上、毛筆で踊るような文字を書き換えていく。
汐音、から、洵、へ。
その黒い胸元にバッジを付け替える。
穿った穴に注ぎ込む。
わたしの流動性を全て。
……無意味な想像だ。
氷上は、一切の仮定が成立しない。
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