第15話 Narcissus

「……くだらない。女だから何だっていうの」

 わたしは尻を払い、立ち上がった。

 地鳴りのように喉が鳴り、自分がこんなに低い声が出せることを初めて知った。


「あんたPCSって知ってる?」

 シオリは小さく首を横に振る。わたしは大げさにため息をついた。


「フィギュアスケートの演技構成点のこと。どんだけプログラムを理解して表現できるかっていう芸術点みたいなやつ。これ、男子は2掛け。でも女子は1.6掛け。男子は四回転とか難しいこと期待される分オマケされて、女子は氷に立つ前から点数が抑えられる。それでも、じゅんはわたしに勝てないんだよ。何でか分かる?」


 シオリは答えない。わたしは鼻を鳴らす。


「だって洵のジャンプ構成はわたしよりずっとレベルが低い。ダブルアクセルすら危ういし、ルッツとサルコウはトリプル跳べないんだから。ジャンプだけじゃない。スピンも、ステップだってね……」

 

 言いかけて、やめた。すっかり早口になっている。

 空気が張り詰めていた。

 見開かれたシオリの瞳に、一際大きな光が流星のように落ちる。


「それでもスケートやってる洵を好きだって言うなら、あんたが洵を好きな理由って一体何?」


 教えろ、シオリ。

 そこに本当の秘密がある。

 世界の秘密。わたしたち二人を分けるもの。


 沈黙が空間を満たした。


「……分からない」

 光が消えた。


「どうして好きかなんて分からない。でも、好きなんだから仕方ないよ。いくつ理由を挙げたって、本当の理由になんかならない。ただ、スケートをしてるジュンくんが好き。スケートをしてる時だけ、言葉にならないものまで全部集まって、一つになるんだもの」


 蝶の体がびくりと震え、トレースを導くエッジが氷の羽根に変わる。

 その一瞬を閉じ込めたのがあの絵。

 今、わたしはやっと理解した。


「……じゃあ、自分で渡したら」

 壁の絵から目線を外し、シオリの胸に手紙を突き返す。

 赤いハートのシールは縮れ、ビニールが薄皮のようにめくれていた。


「でも、洵、他に好きな人いるよ」


 ――それが自分だって言いたいわけ?


 誰の言葉なのかは分からなかった。

 振り返るのと振りかぶるのは同時で、わたしは彩香あやかの頬に平手を喰らわせていた。


「それ以上洵のこと説明したら殺す」

 内臓の奥、煮えたぎる釜の底から噴き出した言葉。

 人を殴ったのは初めてだった。発火しそうなほど手のひらが熱くて、本当に嫌だと思った。

 みんな嫌いだ。わたしと洵以外は、全て。


「……こんな妹がいて、霧崎きりさきくんに同情するわ」

 殴られたくせに、彩香は笑っていた。


「知ってる? あんたみたいなヤツのこと、ナルシストって言うんだよ」

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