第8話 Gemini
用はとっくに済んだのに、便座でじっとしている。
朝ママがバタバタ渡してきた新しいレオタードは、首や二の腕がちくちくして、着心地が良くない。先週東京に行った時に買ったらしい。いいやつのはずなのに。
――わたしにだけ?
と訊くと、
――洵は関係無いでしょう。ママ仕事だから行けないけど、ちゃんとしてね。
と言ってきた。
ちゃんとって何?
ギイ、と外の扉が開く音がして、
「
わたしが
可憐はすぐには出て行かない。ポーチを開けるファスナーの音がした。多分、リップを塗り直している。
普段のメンソレータムとも試合の派手なのとも違う、特別なやつを。
初めて口紅を塗った日のことを思い出す。
三年前のサマートロフィー。
ママが手にしたスティックが毒のように見えて、そんなの絶対塗りたくない、と六練の直前まで
塗るくらいなら帰ると言い張るわたし。困り果てるママ。
それを隣で見ていた洵が、急にママの手から口紅をかすめ取って、自分の唇にえいと引いた。
わたしもママも唖然とした。
洵はいたって普通の顔で言った。
――ぼくは塗ったよ。
クレヨンみたいに真っ赤な色が、唇を思い切りはみ出していた。
今思うと吹きだしても不思議じゃないのに、あの時は真顔でただ頷いて、洵から口紅を受け取った。
わたしも塗った。
……あの頃、洵はまだスケートを始めていなかった。
自分を「ぼく」と呼んでいた。
「
意を決してリンクの扉を開けたら、冷気を頬で感じると同時に声を掛けられた。
「……はい」
見ると、ダウンジャケットで着膨れた男の人が立っていた。
「よかった、さっき廊下で間違えてお兄さんの方に声を掛けちゃったよ。おれは汐音じゃないです、って言われちゃった」
首にカメラを
わたしが黙り込んでいると、
「それにしても、本当に似てるね」
「……双子なので」
「でも二卵性でしょ? 一卵性みたいにそっくりだよね。僕の
カメラマンは一気にまくし立てた。
確かに、よく言われる。
男女なのに似すぎだと。
でも、一卵性とか二卵性とか、わたしには全然ぴんとこない。
パパに聞いたら、わたしと洵は胎盤を共有した二卵性という珍しいタイプだったと教えられた。
ママのお腹の中で、わたしだけがなかなか大きくならなくて、洵まで早く一緒に世界へ出てこなければいけなくなった、とも。
「汐音ちゃん、どこにいたの? いなくなっちゃったかと思ったじゃない」
わたしは答えたくなくて、ふいと視線を
アラベスクのポジション。左足の爪先が腰より高く上がる。
……洵がいるんだから、わたしだっているに決まってるのに。
「よろしくお願いしまーす」
振り返って、わたしは息を呑んだ。
いつもきれいな
可憐はそっとわたしの腰を小突いて、ふふっと微笑んだ。
唇がピンク色にツヤめいている。
いつもはひっつめただけの髪も、今日はゆるく巻いてポニーテールにしている。金色のオーガンジーのシュシュ。
わたしは何もしていない。
化粧も、髪も、何も。
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