第29話 入江瑞紀

 翌日、大学病院へ行った。

 骨に異常が無いと分かり、幾分冷静さを取り戻した。

 

 それでも、三週間はスケート禁止。

 ジュニアグランプリシリーズは辞退するしかなかった。

 必然的に、次の試合は全日本ジュニアということになる。


 去年のようにブロック大会から闘うこともなく、いきなり頂上決戦か。

 試合勘が鈍るのが嫌だ。

 前回優勝の白河さんは今季からシニアに移行した。

 ……もう俺は、誰にも負けられない。


 松葉杖をついてタクシー乗り場まで行こうとしたら、病棟の案内図の前で立ちつくしているトーマがいて、足を止めた。


 一瞬、トーマは透けて見えた。


 俺が気付かなければ、世界中から無視をされる。

 妙な直感。


「……トーマ」

 気付けば、俺は声を掛けていた。


 トーマはハッと顔を上げた。

 透明な頬に血色が戻る。


「霧崎。……足、どうだった」

 俺の足と顔を、深刻そうな顔で交互に見る。


「ただの捻挫ねんざだよ。お前こそどうしてここに?」

「オカンが入院してるんだ。けど、前と病室が変わってて……」


 入江いりえ瑞紀みずきか。

 杖を脇で支えて、面会許可書を覗き込む。


「ああ。病棟、逆。こっちだ、ついてきて」

「いいよ、一人で行ける。お前怪我してるし」

「杖の練習にちょうどいいから」


 本音は、一目でも入江瑞紀を見れるかもしれない、という所にあった。


 呼吸器内科。エレベーターで九階へ向かう。

「詳しいんだな」

 トーマが呟く。

 父親の職場だ。


 降りて奥に足を進める。

 部屋番号の下に、芝浦瑞紀と書かれてあった。


 ……入江じゃないのか。

 当たり前のことなのに、少し驚く。


「助かったよ」

 トーマは穏やかに笑った。

 外で会うと別人のようだ。ぼーっとして、冴えない。


 でも、俺もそうなのかもしれない。

 スケーターは、氷を降りたら人間が変わるというから。


 突然、声に反応したように、ガラッと扉が開いた。

 俺は反射的に振り返り、愕然とした。


 そこには、俺の知っている入江瑞紀がいた。


 ビデオで見たのと、そっくり同じ顔。

 髪型だけが違っていて、真っ直ぐ下ろして、白い鎖骨に掛かっていた。

 タイムスリップしてきたと言われたら信じてしまいそうだ。


 咄嗟とっさに年齢を計算する。

 ……三十六。

 朝霞先生の三歳上。

 先生だって見た目は若いが、そういうのとは次元が違う。


 年を、取っていない。

 そう形容するしかなかった。


「刀麻、遅い。待ちくたびれた」

 デートに遅れた彼氏を責めるような口調で入江瑞紀は言った。


 本当に恋人同士に見えるのが不気味だと思った。

 こう言っちゃなんだが、山崎なんかよりずっと似合って見える。

 母親にそっくりだ、と星先生は言っていた。

 俺にはそれほど似ているようには見えない。

 だが、同じ血が流れているというのは、直感で分かった。


「ごめんごめん。ちょっと迷ってさ。友達が案内してくれたんだ」

 トーマは笑って言った。


 友達。

 何の躊躇ちゅうちょも無く放たれた言葉に、胸がざわめく。


 入江瑞紀は、ふうん、と言って俺を見た。

 じっとりと据わった瞳に焦点が合った瞬間、背骨の芯まで凍りそうになった。


 ……目が。

 同じなんだ、この親子は。

 氷に、ダイレクトに接続している目。


 急にぐい、とシャツのすそを引っ張られ、俺はつんのめった。

 扉の横の壁にかろうじて手をつく。

 がしゃん、と松葉杖が床に倒れた。


 俺は隙間から外を覗き込むようにしていた入江瑞紀に、覆い被さる格好になった。


「すみません」

 反射的に言ってから、こっちは松葉杖だぞ、イカレてんじゃないのか、と内心憤いきどおる。


 入江瑞紀はくすりと笑って、俺の耳元でささやいた。


「……氷の匂いがする。あなたも、同じ人種ね」

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