第26話 俺の世界

 ショートは、一足先に振り付けが定まりつつあった。

 曲はレーナード・スキナードの「Simple Man」。

 ミドルテンポのブルースロック。


 ギターソロでステップを踏んでいると、鏡越しに白いセーラー服の人影がちらついた。

 ここに制服で入ってくる生徒は滅多にいない。


 振り返ると、山崎が立っていた。

 肉眼でその姿を認めた瞬間、腹の底から猛烈に苛立ちが湧き上がるのを感じた。

 俺は曲を掛けたまま演技を中断し、山崎の目の前で鋭くブレーキをかけた。


「どうして君がここにいる?」


 朝霞あさか先生と談笑していた山崎は、俺を見た瞬間顔を強張らせた。


「……私がお願いして、来てもらってるのよ。里紗ちゃんには刀麻君の曲を頼んでいるから」

 かばうように、朝霞先生が割って入る。


 俺は無言で先生を睨み付けた。

 あなたには訊いていない。


「あの、私、とーまの曲のインスピレーションが欲しくて……」

 消え入りそうな声で山崎は言う。

 おどおどした話し方が最高にイラつく。


「……なるほど、チーム・トーマってわけか」

 俺は鼻で笑った。


 氷の寵児ちょうじ

 その化けの皮の下を垣間見た気がした。

 一枚剥げば、甘ったるい匂いが充満している。

 朝霞先生。母親のプログラム。その上、彼女に作ってもらった曲。

 氷の揺りかごで女にお守りされて、一人じゃ何もできない子供じゃないか。


 ……俺は、あいつとは違う。

 俺は一人だ。


『一人? 本当に?』


「……霧崎君って、氷の上ではそんな風にしか笑わないの」

 山崎はボソリと言った。


「は?」

 取り繕えない敵意が声に出る。

 切り揃えられた前髪の下から、視線がキッと俺を捉えた。


「ひどい顔してるよ。スケートやってても、全然楽しそうじゃない」


 胸の温度が急速に落ち、空洞が真空になった。

 殺意ってこれか。

 顔が歪むのが自分でも分かった。


「……ああ、そうだ。山崎。君は本当に俺のことをよく見てる」


 剥き出しのエッジも構わず、俺は山崎ににじり寄った。

 目を見開いたまま、山崎は後ずさる。

 だがすぐ後ろは壁だ。

 先回りで手を付く。逃がさない。

 白い喉がぴくりと震えた。


「俺はスケートを楽しいなんて、一度も思ったことがない。滑れる身体があるから滑る。それだけだ」


 一言一句、口にしたそばから皮膚が凍り付いていく気がするのはなぜなのか。

 それでも、最後まで言わなければ気が済まない。

 耳元に唇を寄せ、山崎にだけ聞こえる声でささやいた。


「……リンクはスケーターの聖域だ。出てけよ」


 山崎はしばらく固まったように動かなかった。


 そっと身体を離して視線を上げると、朝霞先生が泣いていた。

 大きな瞳からボロボロと、大粒の涙を零して。


 途端に俺は胸が痛んで、眉をひそめた。

 ……どうして、あなたが泣くんだ。


 どん、と山崎は俺を押し飛ばすと、ばたばたと走り去った。

 扉が閉まる。

 異様な雰囲気で、俺達は注目を集めていた。


 朝霞先生はジャージの袖を口に押し当てて、嗚咽おえつこらえていた。


 ……何か、言葉を掛けなきゃいけないのか。

 勘弁してくれ、と溜息をついて頭を掻く。

 勘弁してくれ、本当に。

 無言の時間がしばらく続いた。


 再び扉が開く音がして、振り向くとトーマが立っていた。

 張り詰めた表情をしていた。


「……霧崎。お前、委員長に何言ったんだよ」

 詰め寄るなり、俺の胸ぐらを掴む。

 だが、その目は気味が悪いほど澄んでいて、覇気というものがまるで無かった。


 樹氷のような身体性に投影される、揺らめく光。

 あまりのアンバランス。

 神童の二文字から、神が転がり落ちる。

 俺は、もうこいつを怖くないと思った。


 フィギュアスケーターになる、とか言ってたな。

 その前にやることがあるんじゃないのか。


「委員長? ……誰だ、それ」

 静かに、手を払い落とした。


 好きな女の名前も呼べないガキは、俺に触るな。

 一秒でもこいつと一緒にいると吐きそうだ。

 俺は手早くエッジカバーを付けて、更衣室へと去った。


『アニキの馬鹿! 大っ嫌い! どうして美優先生にひどいこと言うの?』

 甲高い声には、鼻水と涙がまとわり付いていた。


 ……お前もか。鬱陶しい。ひどいことって何だよ。本当のことを言っただけだ。

 ロッカーを開ける。


『何が本当のことよ! 私達、先生に見つけてもらったのに。アニキなんか死んじゃえ! 今すぐ私と代われ』


 ……代わらねえよ。


 まとわりつく一切が不快で、アンダーシャツごと脱ぎ捨てた。


 お前には渡さない。

 ここは、俺の世界だ。

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