第19話 霧雨は霞より淡く
青のインプレッサ。
俺を待ち構えるかのように、その横に先生は立っていた。
「送って行くわ。……少し、話をしましょう」
車の中ではヒップホップが流れていた。
ダウナーなトラックは、霧深い夜の視界をそのまま音にしたかのよう。
だが、ラップが不快だ。
男が不敵に語気を強める。
あいつの声に似ている気がして眉を
「……何ですか、これ」
「ザ・ブルーハーブ。結構好きなのよね、ヒップホップ。若い頃流行ってたから。ドラゴンアッシュとかキックザカンクルーとか、知ってる?」
「いいえ」
どちらも知っているが、肯きたくなかった。
若い子は知らないかあ、と先生は苦笑して音量を下げた。
シートベルトの感触がわずらわしい。
「やだ、雨降ってきた」
ワイパーを動かす朝霞先生の横顔をちらりと見た。
正面よりも、横顔の方が綺麗だと思う。
窓の雫がライトを淡く反射する。
助手席に座っている自分に苛立つ。
……俺は、ハンドルの握り方も知らない。
「昔さあ」
唐突な朝霞先生の声に、瞬きをした。
「ダブルアクセルなかなか跳べなくて、
「ああ。あいつが、野辺山に行ってた時ですね」
「そうそう。本当はね、あの時お母さんに、洵はスケート向いてないみたいだから、辞めて他の習い事をさせようと思うって言われてたのよ」
「そういえば、あの時期ピアノとか空手の体験レッスンに連れ出されてたな」
「だから私、一ヶ月待って下さいって言ったの。……洵君は、転ぶのを怖がらなかったでしょう。でも、あまりに転ぶから、私、一度練習を中断したのよね。そしたら、痛いのと怖いのは違う、って。そこは間違えません、だから俺にスケートを続けさせて下さいって。あなた言ったのよ。覚えてる?」
「……そんなこと、言いましたか、俺」
目頭がじんとする。
喉元から胸まで、熱くてどうにかなりそうだった。
こういう時、女の人なら泣くんだろうか。
眉を下げて、先生は笑う。
「覚えてないかあ。でも、私ははっきり覚えてるの。絶対にこの子が納得するまで付き合おうって、心に決めたから。だから、あの時一ヶ月待って良かったなあって。……急に、思い出したよ」
先生は嘘つきだ。
思い出話のような口ぶりは、心に準備していたのが明らかだ。
でも、嘘つきは俺も同じだから。
……本当に、何もかも。
忘れるわけがないんだ。
寂しそうに笑う、目元の影。
切れ長の目尻にふっと現れる影が、俺は好きだ。
同じ光が落とした影だと、一目で分かるから。
赤信号で止まる。
ハンドルを握る細い手に、気付けば自分の手を重ねていた。
先生は唇をかすかに開け、戸惑いの目で俺を見る。
その視線を
「じゃあ、付き合ってください。俺はまだ納得してない」
「……危ないわ」
即座に、俺の手ははね除けられた。トーマの手と同じように。
「私が、星先生に申し出たのよ。同じ所にいつまでも留まっていちゃだめなの。私も、あなたも。……だから、洵君。もう前橋に来ちゃだめよ」
厳しい目だった。
強固な声色は、区切りを突き付けていた。
信号が青になる。
気付けば市街に入っていた。灯だけが
「ごめんなさい。もっと早くこうするべきだったのかもね。去年、榛名に岩瀬先生が来た時、私はあなたから手を引くべきだった」
「……それじゃあ、エリザベートは生まれなかったでしょう」
先生はハッと目を見開いた。
瞳が潤んでいた。
前見て下さい、と俺は言う。
きゅっと唇を噛む音が聞こえた気がした。
左折すると、医学部のキャンパスが見えた。
「ここでいいです。俺、病院に寄ります。父が夜勤で、届け物があるので」
本当はそんなものは無い。
だが、どうしても、このまま家に帰るのは嫌だった。
一人で歩きたい。
路肩に車を停めて、傘は? と先生は訊く。
折りたたみがある。
ドアに掛けた手を止め、もう一度振り返った。
「一つだけ、聞かせて下さい。榛名に来るって決めたのは、芝浦刀麻のためですか?」
「自分のためよ」
その瞳は炎すら
この人の目にこんなに激しい光が宿るのを、俺は初めて見た。
その光に魅入られ、気付けば俺は口を開いていた。
「俺、ずっと先生のことが好きでした。初めて会った時からずっと」
「……ありがとう。私にとっても、あなたは特別な生徒だったわ」
さようなら。
バタンとドアを閉めて、俺は一度も振り返らなかった。
でした、と、だった。
俺達は、過去だ。
暗い空を見上げる。霧のような雨が頬を濡らす。
この夜だけは、傘は差さない。
『本当に美優先生のことが好きなの?』
遠く、声が聞こえた。
ああ、好きだよ。
声に出して、俺は言う。
『……短絡的なんだね、アニキって』
難しい言葉知ってるな、お前。
『私はアニキの中にいるんだもん。アニキの知ってることは、何だって知ってるよ』
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