第11話 ゴング

「だって俺、転んだことなんかないぜ」

 しれっとトーマは言った。


 ……転んだことがない?

 だが、俺の口は先走る。


「たとえ練習で百発百中でも、本当の意味で跳べるとは言わないよ。ジャンプだけじゃない。スピンも、ステップも全て。演技に取り入れて、一つの流れの中で行うことで初めて本物になるんだ。……それが分からないのなら、君はまだ本当のフィギュアスケートを知らないということになる」


 トーマは足元に視線を落とし、唇を固く結んでいた。

 俺は追撃の手を緩めない。


「スピードに戻ったらどう? コンマ何秒の世界で速さを競う方が、君には合ってるんじゃないのか」


「……苦しいんだよな、もう」

 氷上にこぼすように、トーマは言った。


「明日を考えず、昨日を切り離して、今日だけ走り抜けるのには、もう疲れたんだ」

「……苦しいのは、この世界だって同じだ」

「分かってるよ」

「いいや。分かってない」

 俺は一歩距離を詰める。


「君は、逃げてるだけじゃないのか。君は、一度だって自分からスケートを選び取ったことはあるか? 環境に流されず、自らの意志で、これだけは手放さないと、選び取ったことはあるのか?」


 トーマは答えない。

 ただじっと俺の目を見据えてくる。

 その視線の強度にひるんではいけない。

 俺は更に語気を強くした。


「俺は選び取ってきた人間だ。俺にはフィギュアスケートしかない。いつだって、俺は選んで氷の上にいる」

「……それ本当か? アニキ」


 アニキ。

 鏡に声が反射する。

 記憶の中の汐音の声が、オーバーラップした。


 この時のトーマの目を、俺は一生忘れない。

 それは、今まで受けたことのない種類の挑発だった。

 合わせ鏡からいきなり向こうが飛び出してきたと言ったら、狂人だと言われるだろうか?

 だが、俺は物凄い生々しさでそれを感じたんだ。


 だから次の瞬間、俺は生まれて初めて人を殴っていた。

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