第9話 鏡の間、あるいは転ぶのが当たり前の場所
時間が来たので、リンクに入る。
大学のアイスダンスのペアが引き上げる所だった。
お疲れ様です、と声を掛け合う。
トーマは、眼前に広がる空間に息を呑んでいた。
「……見学の時も思ったけどさ、ここって本当に変わってる。フェンスを取っ払った鏡張りのリンクなんて」
「バレエスタジオみたいだよね。滑りながらフォームをチェックできるリンクは日本でもここだけだよ。いいでしょう」
得意げに笑う
「そうか? なんか気味悪い」
内心をぴたりと言い当てられたようで、俺は肩が震えた。
……そうだ、ここは気味が悪い。
鏡に挟まれて氷上に立つと、感覚が研ぎ澄まされ、足場の不安定さが際立つ。
鏡に映っているのは本当に自分なのかと、子供のように原初的な疑問が胸に湧く。
視覚では鏡の向こうまで氷が広がっていると錯覚するも、肉体は透明な空間に閉じ込められている。
だが、スケート靴を履いてそこに立つ以上、逃げ場は無い。
圧倒的な事実が、鋭く突き付けられる。
氷に乗ったトーマを、俺は注意深く観察する。
滑らかなスケーティング。
……だが、特別なスケーターには見えない。
これより上手い滑りをするスケーターはいくらでもいる。
たとえば、洸一さんとか。
いや、流石にあの人と比べるのは
「マジ? お前、氷の上でバク宙できんの?」
トーマが阿呆みたいな大声で真人に訊いている。
「できるよー、見ててね」
真人は対角線上から助走をつけ、平手友梨奈ばりの気迫で「僕は嫌だ!」と叫ぶとバックフリップを跳んだ。
天地が反転したかのように宙返りし、のし掛かる体重を片足で柔らかく受け止めて着氷する。
……何度見ても身震いがする。
この凄さはスケーターにしか分かるまい。
なのにトーマは、「なんだそれ!」と腹を抱えて爆笑している。
……馬鹿が。
世界でも、あれができる人間は二人といないんだよ。
「そんなに笑うなんてひどい! 新歓でやったんだよ、
「やるわけないだろ。余計なこと吹き込むなよ」
「……ここに入ったら、俺も欅坂で滑らなきゃいけないのか」
「大丈夫、来年はきっと僕達で曲決められるから」
「どうだか。女子の組織票でTWICEになるかもな」
悪夢かよ、とトーマは呟く。
そうさ。ここに入るってことは、一人気ままに自分だけの練習をしてはいられなくなるってことだ。
俺は呆然としているトーマに近付いて言った。
「……朝霞先生から、貸靴でダブルアクセルを跳んだって聞いたよ」
「げっ、あれ見られてたのか。一回しか跳ばなかったのに……」
トーマは気まずそうに目を泳がせる。
胸に火が
先生は、俺をからかってなどいなかった。
「その靴なら何が跳べる?」
「トリプルは全種類。それから、四回転サルコウ」
瞬間、点った火が全身に燃え渡った。
それを、世界ジュニアで跳んだ者はいない。
「……ブラフじゃないだろうな」
どうにか声を絞り出す。
「何? ブラフって。俺、本当に跳べるよ」
「じゃあ見せてほしい。四回転サルコウを」
「OK、余裕」
しれっとトーマは言った。
俺は血が
……余裕だと?
四回転に、いや、全てのジャンプに、余裕などあってたまるものか。
氷上はな、転ぶのが当たり前の場所なんだよ。
心の叫びが、今にも喉から飛び出しそうだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます