第15話 行方知れずのゴースト

 月曜は年内最後の練習日だった。


 年明けはすぐに全道だ。

 練習はそこそこに、濱田先生が当日の集合場所や宿泊先、注意事項の確認をした。

 後輩達は張り詰めた空気を読んだのか早々に引き上げ、部室には僕ら三人が残った。


「シバ」

 ベンチでパズドラをやっていたシバちゃんに、エイちゃんがつかつかと近付く。


「先週、赤檮いちい学園のスカウトの人が俺のところに来た」


 僕は息を飲んだ。

 

 ……俺は俺でやると決めた。

 エイちゃんの言葉がフラッシュバックする。

 全てに合点がいった。


 けど、シバちゃんの顔には別段驚いた色は無かった。

 エイちゃんは続ける。


「俺のところに来て、お前に来てないわけはないよな」

「……ああ。でも、俺は断ったよ」

 シバちゃんは軽く息を吐いて、スマホをポケットに仕舞った。


「やっぱりな。だから俺に話が回ってきたってわけだ。……分かってはいたけど、プライド傷付くぜ」

 エイちゃんはそう言って頭をかいた。


「……俺のこととエイジのことは、関係ないと思うよ」

 シバちゃんは穏やかに言った。


 その瞬間、エイちゃんの目の色が変わった。

 部屋全体の空気がぎゅんと張り詰め、僕の身体までこわばった。


「関係ないわけねえべ。……お前、まさか俺に譲った気でいるんじゃないだろうな」

 エイちゃんの声は輪をかけて低くなっていた。


「そんなんじゃない。それは本当に違う」

「じゃあ何なんだ。お前、速いだろ。誰よりも。なして行かないんだよ。行けよ」

 エイちゃんは今にも掴みかかりそうなほどシバちゃんに詰め寄っていた。

 僕は身構えた。

 睨み付けるように見下ろされたまま、シバちゃんは言葉を探すかのように黙っていた。


「俺は、ふさわしくないよ」

 乾いた声で、シバちゃんは言った。

 エイちゃんの眉根が寄る。


「何言ってんだお前? おだってんじゃねえよ」

「……おだってなんかねえよ」


 瞬間、シバちゃんはベンチに拳を叩き付けた。

 物凄い音がして空気が震えた。


 僕もエイちゃんもピンで留められたように動けず、目を見開いたままシバちゃんを見つめていた。


 やがてシバちゃんは我に返ったかのように真っ赤になった拳をほどくと、力無く振りながら深い溜息をついた。


「……じゃあ、ハッキリ言うよ。俺、行きたくないんだ。赤檮には行きたくない。北体大附属にも。……いや、そうじゃない。俺は、どこにも行きたくない。……ただ、自分のタイムを縮めていくだけでよかったんだ。それが楽しかった。それが救いだった。本当に、滑っている時だけが全てなんだ。その瞬間だけ、俺は俺でいられるんだ。それなのに、誰も俺を放っといてくれないんだな。もう、俺の名前なんか、どこにも残らなきゃいいのに」


 シバちゃんの顔はこの上なく寂しげだった。

 けど、寂しいのは僕の方だ。


 名前がどこにも残らなきゃいいだなんて。

 ……それじゃあまるで幽霊じゃないか。


 僕は唇を噛んだ。

 いつもいつも、僕はうまく言葉を見つけられない。


 そうして誰も何も言わないまま、部屋の空気だけが重くなっていた。


「……俺さ」

 長い沈黙を破ったのは、エイちゃんだった。

 いつの間にかその目からは、熱がすっと冷めたように、怒りの色が消えていた。


「今までお前が、夏の陸トレ来ないでアリーナでフィギュアやってても、いいと思ってたんだわ。その気になればもっとバイクで下半身鍛えて腰回り太くできるのに、やらないお前を、もったいないとは思ってたけど、それもアリかなと思ってたんだわ。お前は、速いからな。だけど……お前、本当にただ遊んでただけなのな。失望したわ」


 エイちゃんは荷物を掴んでロッカーをバンと閉めると、部室を出て行った。


 シバちゃんは放心状態で宙を見つめ、石のように固まっていた。

 僕はシバちゃんとドアを交互に見つめ、少し迷った後、ちょっとごめんと言い残して、エイちゃんの後を追った。


「ねえ! エイちゃん。待ってよ。あんな言い方無いべさ。いくらなんでも、シバちゃん傷付くでしょや」

 ダウンのポケットに手を突っ込んですたすたと歩くエイちゃんに、僕は必死で話しかけた。


「傷付く?」

 エイちゃんが立ち止まって振り向く。

 冷めきった顔をしていた。


「……あいつには、俺の言葉なんて届いてねえよ」

 僕は黙り込んだ。

 エイちゃんは空を見上げて、大きく息を吐いた。


「俺……ずっと、シバをライバルだと思ってたんだよ。そうだな、スポ少の頃から、ずっと。シバも俺をそう思ってるかどうかはともかくさ。まあ、そうだったらいいなくらいは思ってたよ。……だけど、全然違ったんだな。ほんと、全然違った。今は、あいつが遠く見えるわ」


 僕は相変わらず言葉が見つからないまま、一緒に空を見上げた。


 空はどこまでも灰色で、薄い雲が連なっていた。

 風は、吹かない。

 本当はこんな日こそスケート日和なのに、なぜだろう、僕は今日が大会本番じゃなくて良かった、と思った。


 エイちゃんを見送り、小走りで部室に戻ると、シバちゃんが消えていた。

 部室からリンクを回って校庭の外に出るにはあの道を通るしかないのに、一体どうやって帰ったんだろう。

 僕たちを追い抜いたとしても、あの細い道で気付かないはずもないし。

 とにかく、シバちゃんはいなかった。


 年が明けて、三が日が過ぎた。年末年始の自主練にも、シバちゃんは現れなかった。

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