第10話 弱虫とパウダースノー

 冬は坂道を転げ落ちるように日が暮れる。


 部活が終わる頃にはもう辺りは真っ暗だ。

 僕たちは、まだミーティング中のホッケー部に鍵閉めを任せ、校庭を後にした。


「速くなってるさ、オギちゃんだって」

 シバちゃんのフォローを僕は全く受け止められない。

 結局、計測レースで五秒近く差を付けられてしまったから。


「……0.1秒だけね。それもやっと、二ヶ月ぶりの更新。ストップウォッチの誤差かもしれないし」


「そんなこと言い出したらキリねーべ。練習中は全部ストップウォッチなんだからさ」

 エイちゃんが肘で僕を小突いてくる。


「あっ、悪ぃ、俺濱ちゃん先生に呼び出されてたんだわ。したっけね」

「うん、したっけねー」

 校舎の前でエイちゃんと別れた。


 エイちゃんの姿が玄関ドアに吸い込まれるのを見送りながら、

「エイジの帽子、なまら目立つな」

 とシバちゃんが呟いた。

 エイちゃんのニット帽はぼんぼんが蛍光ピンクで、暗闇の中ひょこひょこ遠ざかっていく。


「うん、あれなら車に轢かれる心配も無さそう」

 僕が言うと、シバちゃんはふっと笑って頬を緩めた。

 僕の帽子もシバちゃんの帽子も、黒。

 僕達は並んで帰路についた。


 こうして二人きりになるのはすごく久しぶりの気がする。

 無言の時間がしばらく続いた。

 訊きたいことが沢山あるはずなのに、何から話したらいいか分からない。

 僕は路面のてらてらと光った凍結部分を慎重に避けながら、わざと歩くペースを緩めた。


「オギちゃん、志望校決めた?」

 先に沈黙を破ったのはシバちゃんだった。

「……うん。西陽にした」

 僕が思い切って言うと、シバちゃんは西陽? と訝しげな顔をした。


「あそこスケート部無かったでしょ。いいの?」

 瞬間、僕はすごくムッと来た。

 そして勢いに任せて、

「シバちゃんこそ、赤檮のスカウトの話聞いたよ。なして断ったの?」


 ああ、言っちゃった。内密にって言われてたのに。

 意外にもシバちゃんは僕が知っていたことに対して、驚いた様子は見せなかった。

 少しの沈黙の後、なしてかなぁとため息をついた。

 そして更に長い沈黙の後、こう言った。


「……多分、俺は弱虫なんだよ」

 シバちゃんの声は、今までで一番柔らかく静かだった。


「弱虫?」

 僕は思わずシバちゃんの顔を見た。

 閉じた口元がかすかに歪んでいる気がした。


「シバちゃんは誰よりも強いよ。だって、スピードスケートは速い奴が強いんだから」

 僕は言い聞かせるように強い口調で言った。


「そうかな? オギちゃん、本当にそう思う?」

 僕が流れのままに「うん」と頷くと、シバちゃんは寂しそうに笑った。


「……そっか。俺は、そう思わない。速い奴が強いんじゃないよ。それはただ生き残っているだけだ。でも、速いことにこだわれる奴は、生き抜いていける。そういう世界だよ、ここは」


 そう言って、シバちゃんは空を見上げた。

 その頬に一片、二片と粉雪が落ちた。いつの間にか、雪が降り始めていた。


「俺は、ただ速いだけだから。……速いだけの奴は、明日も速いとは限らないんだ」

 シバちゃんの声がサラサラと、冷たい夜の空気に溶けた。


 なら、こだわればいいのに。

 こだわってよ、シバちゃん。

 

 言葉が喉元まで来ているのに、どうしても口から出てこなかった。

 胸が詰まりそうですごく苦しい。

 鼻の奥がつんとするのを堪えて、上を向いた。

 僕の頬にも雪が落ちてくる。


 シバちゃんが言うことは、いつも難しい。

 難しすぎて、僕には全然分からないよ。

 なのに、どうしてシバちゃんの言葉を聞いていると、泣きたくなるんだろう。


 何一つうまい言葉を見つけられないうちに、とうとう分かれ道に来てしまった。

 したっけね、と片手を挙げ、シバちゃんはくるりと背中を向けた。

 大きいはずのその背中が、今にも消えてしまいそうに見えて、僕は思わず声を投げた。


「……シバちゃん、スケートやめないでよ」


 シバちゃんは踵を返しかけていた足を止め、僕を見た。


 僕はこの時のシバちゃんの顔を一生忘れないと思う。

 誰よりも強くて、誰よりも速いはずのシバちゃんが、出会ったばかりの子供に見えた。


 ただあの頃と違うのは、氷が日光を反射して輝くような、キラキラのオーラが消えていた。

 だから今目の前にいるのは、ただの一人の子供だった。


 でも、すぐにシバちゃんはいつものようにニッと笑い、子供は消えた。


「やめないよ。俺はいつでも氷の上にいる」 

「そうじゃなくて! ……本当に、やめないでよ」


 茶化さないでほしい、頼むから。

 これは本当に大事なことなんだ。


 だけどシバちゃんはそれ以上答えず、無言でマフラーに顔をうずめ、夜の闇に消えた。


 立ち尽くす僕の視界を、粉雪がしんしんと埋めていった。

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