第9話 ロジックより速く
「いやいや、突っ立ってると流石にしばれるべ」
濱田先生が白い息を吐いて、ドアを後ろ手に閉めた。
「ジジイだから冷えるんでしょ」
先生相手に大丈夫なのかなという突っ込みも、エイちゃんは平気で入れる。
先生は目をひん剥いた表情で言い返す。
「船木、お前、せっかくイイ話持ってきたのに、そんなんじゃ聞かせないぞ」
「えっ、なになに?何ですか先生」
途端に人懐っこく先生にすり寄るエイちゃん。
「後で二人っきりの時に、じっくりな」
「うっわキッモ! なまらキモ!!」
先生のウインクをエイちゃんがガチで気持ち悪がったので、部室には再び爆笑がわき起こった。
これには流石に僕も笑った。
「先生、俺やっぱり500m一本で出たいんですけど」
シバちゃんがふいに立ち上がって言った。
目線は手にした記録ノートに落としたままだ。
「ダメダメ。1000mも出れ」
先生は魔法瓶からコーヒーを注いで首を横に振る。
「なしてさ? 去年はそうだったでしょ。俺、体力持たないよ」
「みったくないこと言うんでない。後輩に示しが付かないべ。三年なんだから、最後くらいスプリントは二種目出れ」
先生に窘められても、シバちゃんはまだブツブツ言っていた。
よっぽど1000mは出たくないんだろう。
確かに、シバちゃんはスプリンター中のスプリンター、500m特化型の選手だ。
同じ短距離区分でも、500mでは道内記録を保持しているのに、1000mだと全道の予選を通過できるギリギリのラインにいる。
持久力の問題で、後半のタイムが伸びないらしい。
それでも僕よりは速いんだから、全く堪ったもんじゃない。
気付けば僕は内頬をきり、と噛んでいた。
種目を選り好みするなんて、シバちゃんは贅沢だよ。
絶対に500mで全国に行けるという自信があるからそんなことが言えちゃうんだろうな。
そんな風にスケートを滑るって、一体どんな気分なんだろう。
王様、いや、やっぱり神様か。
それなのに、氷上で笑わないのは、なぜ?
勝っても拳一つ振り上げないのは、なぜ?
全部全部、シバちゃんにとっては当たり前だから?
……僕だったら。
僕がシバちゃんくらい速かったら、自分から辞退を申し出るなんて真似、絶対しないのに。
たとえそれが苦手な種目だとしても、切符を掴み取る可能性が少しでもあるのなら。
「荻島、今日1000mの計測まだだべ? この後芝浦と滑れ」
ふいに先生が僕の方を振り返った。
「はい」
反射的に、僕は返事をしていた。
シバちゃんの隣で滑ると自分の弱さが浮き彫りになるから、本当は避けたいはずなのに。
横目でちらりとシバちゃんを見たが、記録に視線を落としたまま微動だにしない。
まるでそこだけ膜が張っていて、一緒に滑るのが誰だろうと関係ないみたいに。
実際、シバちゃんには関係ないんだ。
……でも、僕にはある。
胸の奥が微かに痛むのと同時に、熱を感じた。
脚はもう疼いている。
鼓動はもう速くなっている。
窓の外に目を遣るともう陽が暮れかけていて、リンクは湖面のようにオレンジ色を乱反射していた。
……こんな灯油くさくて生暖かい部屋、誰よりも早く抜け出して、あそこへ行かなきゃ。
どうして僕は今日滑るのをやめられないんだろう。
どうして明日も滑ろうとするんだろう。
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