第7話 目眩のブリザード

「荻島ぁ! コーナーの足! フラフラしてっぞ!」

 濱田先生の怒号が拡声器越しに飛んでくる。


 ……分かってる。


 最終ラップではもう体力が残っていないから、コーナーで掛かる横からの重力に筋肉が耐えきれない。

 転ぶのが怖くて、そろりそろりと足を置いてしまう。

 だからフラフラする。

 分かってはいるんだ。


 ゴールした。

 先生がタイムを拡声器で伝えてくる。

 ……ダメだ、記録会より3.5秒も遅い。

 あの時だって決して調子は良くなかったのに。


 フードを脱ぎ、ブレードに乗ったまま両手を膝についてしばらく肩で息をする。

 その横を、頬を切るような突風が通り過ぎ、僕の髪の毛がぶわりと巻き上がった。

 僕は思わず目を細めた。

 シバちゃんの後ろ姿はあっという間に遠ざかり、コーナーの入り口に差し掛かる頃には豆粒のように小さくなっていた。


 シバちゃんのスケートは、特別綺麗ってわけじゃない。

 腕の振りは荒々しいし、足の置き方も結構雑だ。

 ……だけど、速い。


 きっとブレード越しに足が氷を押す、その重心の捉え方が上手いんだと思う。

 だから、一歩一歩が氷に後押しされるかのように加速する。

 まるで靴に羽根が生えているみたいだ。


 けれど、そこから伸びる脚はびっくりするほど細い。

 特に太ももなんかはスピードスケート選手の中では異常なほど細い。

 一体どこにあんなパワーを隠しているんだろう。


「……あいつ、また速くなってるな。あれただの周回練習だべ。なしてあんなにバカッ速いんだ」

 スタートの練習をしていたエイちゃんが動きを止め、僕の横で呟いた。


「したけど、ラッキーだぜ、俺も、お前も。あの滑りを、こんな間近で拝めるんだからな。あと二週間、シバから盗めるモンは全部盗んでやるべ」


 エイちゃんはシバちゃんを目で追いながら不敵な笑みを浮かべた。

 その目はぎらぎらと闘志に燃えていて、まだ何も諦めていないと言わんばかりだ。

 全国大会も、赤檮学園も、そして、シバちゃんより速くなることさえも。


 僕は、その素直さが羨ましいと思った。

 シバちゃんの目には誰が映っているのか、エイちゃんは考えたことがあるんだろうか。

 僕には分かる。

 シバちゃんの目には、誰も映っていないよ。

 シバちゃんは、誰の背中も追っていない。


 僕は九年間ずっとシバちゃんの背中を追ってきた。

 あの滑りを何度お手本にしようとしたか分からない。

 最初は僕だってエイちゃんのように、シバちゃんからテクニックを盗んでやると意気込んでいた。


 けれど、いつからだろう。

 シバちゃんの滑りに目を凝らすと、きまって目眩に襲われるようになった。

 頭がくらくらしているのか、地面が揺れているのか分からなくなって、瞬きで視界を取り戻している間に、シバちゃんはもう僕を引き離している。


 シバちゃんと滑ると不気味だと感じる。

 こちらを意識している様子がまるで無いから。

 一度氷上に立てば、シバちゃんにとって、もう相手は誰だろうと関係ない。

 たとえ、僕でもエイちゃんでも。

 私情を挟まず、こだわりを持たず、競えばただきっちりと下すだけ。

 いや、きっと下すという感覚すら無いだろう。

 その証拠に、シバちゃんがレースの後ガッツポーズをするのを僕は一度も見たことがない。

 九年間で一度もだ。


 吹雪のように相手の視界を奪い、氷柱のように敗北感を突き立てて、シバちゃんは無言で走り去る。

 そして氷上には、敗者側の下されたという感覚だけが残る。


 シバちゃんは一体何と闘っているの?

 何のためにそんなに速く滑るの?

 ……訊けるものなら、訊いてみたい。


 それが分かれば、僕は少しはシバちゃんに近付ける気がするのに。

 訊けないことばかりが増えていく。


 いつの間にか、僕とシバちゃんの間には透明な壁がある。

 一見そこには何も無いのに、触ると確実に冷たくて、叩いても音が届かないほど分厚くて硬いんだ。

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