第15話 Immigrant Song

「おい、練習戻れ」


 リンクサイドからの岩瀬先生の声がこの時ばかりは有り難かった。

 慌てて皆散っていく。

 俺は再び芝浦に向き直った。


「『移民の歌』は、ヴァイキングの歌だ。氷雪の神の申し子の歌。……君が本当にあのプログラムを滑りたいのなら、それをやらなきゃウソだろ」


「……先輩は、母さんの『移民の歌』を見たことがあるんですか」

 芝浦は張り詰めた目で俺を見据える。

 覚悟を決め、俺は口を開く。


「動画が、あるからね。うちの部室に入江選手の動画はちゃんと保管してあるよ。……だけど、今君に見せるわけにはいかない」

「どうしてですか」

「意味が無いからだ」

 俺の語気に芝浦の顔は強張った。


「……映像でラーニングして、その撫でるようなエッジワークでステップをなぞる。……それじゃ、大切なモノは学べないだろ。芝浦。君のエッジは軽いんだ。よく言えばエアリー。だけど、それは浅いとも言える」


 不思議な話だが、実際こうして言葉に出すことで初めて、俺は芝浦のスケーティングに対する違和感をはっきりと掴むことができた。

 まるで空気に重力を間引かれたかのようなエッジの軽さ。


 しかし、当の芝浦には実感が無いようで、釈然としない顔をしている。

 俺は少し考え、意を決した。


「ちょっと見ていて」


 再び滑り出す。


 目を閉じ、記憶を呼び出す。

 脳内で「移民の歌」を再生する。音楽が一層グルーヴを増すCメロを。


 複雑な軌道を描くステップシークエンス。もちろん全ては再現できない。

 俺が再現するのは、クライマックス。


 クロスで加速して左バックアウトでスリーターン、そのまま左足、フォアインで時計回りにツイズルを四度……この速さは結構キツい。

 それからビートに合わせてチョクトーを二回。

 そして再び左足に乗ると、今度はアウトエッジ、反時計回りでの四連続ツイズル……映像では入江瑞紀はキャッチフットで回っていたが、流石に勘弁してほしい。

 すぐに上半身を撓らせてループ、ブラケット、小気味よくシャッセを四度。

 弧を乗り換えてモホークで右バックインに乗り、そのまま腰を沈めてハイドロブレーディングで旋回体勢へ。

 伸ばした片足で空間を、そしてエッジで氷を巻き込むように回る。

 エッジをぎりぎりまで倒す。

 加速したい。もう少し、あと少し。


 ふいにエッジの感覚が変わり、心臓が割れるほどドキリとした。

 ……この感覚は、何だ? 

 ぬるりと氷上を縫う感覚。

 自分と氷の間に何も介さない、ダイレクトなフィーリング。


 思わず氷面を見る。そしてまたドキリとする。

 芝浦の足元で見た金色の粒子が、今度は俺のエッジを彩り、何かを囁いていた。

 でも、蛍の羽音のような声は、小さすぎて聞こえない。

 目を閉じ、聴覚に神経を集中しようとした瞬間、踵のエッジが氷の欠片を踏み、俺は不格好に尻餅をついて転んだ。

 衝撃で、ツイズルの回転でも振り回されなかった眼鏡が飛び出し、氷面に転がった。


 再び注目を浴び、気恥ずかしくなる。

 だが、それでも消せないこの高揚感。

 氷上で、生きたステップを踏むことだけで得られるモノが、確かに蘇る。


 しかし、と俺は思考を止める。

 金色のヴェールの中、転がったままの眼鏡を見つめる。


「……すげえディープエッジ。母さんが乗り移ったかと思った」

 芝浦は中腰で手を差し出しながら、そう言った。


 砂金のような粒子は、芝浦の身体にじゃれるように纏わり付いたかと思うと、すぐに消えた。

 瞬きをする。

 もうどこにも見えない。やはり錯覚だったのか。


 ……それにしても、こんなに派手に転んだのは久しぶりだ。

 俺は眼鏡を拾い、苦笑しながら芝浦の手を握った。


「君のお母さんは転ばなかったけどね」

 立ち上がり、尻を払って眼鏡を掛け直す。


「ツイズルってのは、フラットぎりぎりの片エッジで回らなきゃいけないんだ。高速になるほど距離を稼ぐために逆エッジに乗りそうになる。インアウトインアウトって。これだとダブルスリー扱いになって、レベルを取りこぼしかねない。しかも、このプログラムでは時計回りと反時計回りの両方向でこなさなくちゃならないよね。……とすると、必要なのは何だと思う?」


「……厳密なエッジ捌き」

 俺は頷く。


「それから、最後のハイドロ。『移民の歌』では、ハイドロが出口に近付くほど加速していく。氷を切るような鋭さでね。でも、イーグルもイナバウアーもそうだけど、ムーヴズインザフィールドってのは漕げない。漕ぎ無しでどうやって加速するか?」

「……エッジを傾ける」


「そう。エッジの傾斜を推進力に変える。靴を氷に擦らせるほどギリギリの角度でね。俺の靴を見て」

 俺は右足を持ち上げ、靴を見せた。


「革のところまでビッシリ傷が付いているだろ。これは要するに靴が氷に触れるほど俺が身体を倒しているってこと」

 芝浦は穴が開きそうなほど俺の靴を見つめた後、同じ姿勢を取って自分の靴を見た。


「……全然違う。これ、もう半年は履き倒してるはずなのに」

「半年? じゃあそれ、もうとっくに替え時だよ。ほら、折れ癖も付いてる」

 俺は足首の革を触った。

 その時、ある考えが舞い降りた。


 なぜ、こんなことを思い付いたのだろう。

 天啓と言うしかない閃きだった。


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