第6話 氷神

 翌朝、とーまの片頬が赤黒く腫れていて、私は唖然とした。


「……どうしたの、その顔」

「霧崎とケンカ。けど、あいつの顔もこうだからいいんだ」

 唇を尖らせてとーまは言う。


「なっ、何言ってんの? 全然よくないよ!」

「なんだよ、群馬じゃイケメンの顔殴ったら死刑なのかよ」

 ふて腐れた顔でバカみたいなことを言うので、いよいよ私は呆れた。


「真面目に話してるんだよ、転校早々何やってるの?」

「あいつから手ぇ出してきたんだもん。俺は正当防衛だよ」

「……ほんとに?」

「委員長が信じてくれなかったら、俺誰を頼ればいいのさ」

 捨て犬みたいな顔をされて、私は言葉を失った。


 どうしてとーまと霧崎君が会ったばかりで喧嘩なんかするんだろう。

 しかも霧崎君から手を出すなんて、天地がひっくり返ってもありえなさそうなのに。


「なしてそんなことになったの? 昨日あの後リンクに行ったの?」

 私が訊くと、急にとーまはぱっと明るい顔になった。

「なしてだって! かーわいい」


 ……やばい。耳が燃える。


「バカ! からかわないで!」

 誤魔化すために思いっきりとーまの背中を叩いた。

「ごめんごめん、言葉遣い、変わってないのが嬉しくてさ」

 くくっと笑って、じゃ、またね。

 とーまは片手を挙げて教室に入っていった。


 私はしばらく赤面したまま廊下に立ちつくしていた。


 ……かわいいなんて、お父さん以外の男の人に多分初めて言われた。

 どうしよう、くらくらする。


 慌てて両手で頬を叩いて正気に戻る。

 閉じたドアを見つめて、冷静に思った。

 もしかして、はぐらかされたんじゃないか、って。



「……山崎。話がある」


 教室に入って席につくなり、霧崎君が立ち上がって、外に出るように目線で促してきた。

 とーまと同じように片頬が腫れていて、唇が切れていた。

 君たち、本当に殴り合ったんだね。

 どうして。

 いつもの数段鋭い霧崎君の目は、私を捉えて放さない。


「今、ここで聞くんじゃだめなの?」

「ここだと目立つ」


 不可抗力で、私は霧崎君に屋上まで連れ出されてしまった。

 道中、好奇の視線を集めて私は胃がキリキリした。

 ロマンチックな件じゃないことくらい、険悪な雰囲気で分かってほしい。



「あいつについて知ってることを、全部話せ」

 扉をバタンと閉めるなり、霧崎君は言った。

 前髪が風に揺れる。

 血の跡が顔立ちの美しさを際立たせて見え、ぞくりとした。


「あ、あいつって?」

「芝浦刀麻だよ。とぼけても無駄。君があいつを呼び捨てにしてるのはもう知ってる」


「……私も、あまり知らないよ。小三から小五まで一緒の学校だっただけだもん」

「小学生の時のあいつ、どんなだった?」


 めっちゃ食いついてきた。

 こんなに人に興味を持つ霧崎君、初めて見た。


「どんなって……別に普通だよ。背、あんなに高くなかったな。勉強全然できないし、字汚いし、授業中ぼーっとしててよく先生に怒られてた。運動も微妙。足速そうに見えて遅いし、球技は下手、水泳はカナヅチ。……でも、氷の上では神様だった」


 神様。

 口にした響きに、氷上で舞うとーまの姿が重なる。


 霧崎君の眉がぴくりと動くのが見えた。


「……随分、大げさな言葉を使うんだな」

 冷静な台詞とは裏腹に、霧崎君の声色は動揺している気がした。

 私は短く息を吐く。


「そうだね。実際、私達みんな大げさだったのかもしれない。『氷神』ってあだ名がついてたの。呼ぶのはふざけた男子だけだったけどね。冬のスケートの授業なんかでさ。滑れば誰より速くて、跳べば誰よりも高い、くるくる回って、あっという間にどこかに消えちゃう。だから、私にとっては、妖精の方がしっくりくるかも」

「神様に妖精ね。要するに、君はあいつの人間性を信じてないってわけだ」


 霧崎君は皮肉げに言って、かさぶたになった唇の端を吊り上げた。

 私がとーまを信じてない?

 そんなわけない。


「……何言ってるの、霧崎君。こんなのただの喩えでしょ。霧崎君こそ、とーまに何を見てるの」

 黒い瞳を正面から見つめ返す。

 空気がぴんと張る。


「何も見てないよ。……とにかく、俺はあいつを認めない」

 認めない人が、こんな顔をするだろうか。

 ヴァイオリンの弦のように張り詰めた顔。


「……ねえ、霧崎君。前から聞きたいと思ってたことがあるの」

「何?」

「序奏とロンド・カプリチオーソ、どうしてピアノ伴奏版なの?」


 強い風が吹き抜けた。

 他に訊くべきことがあるはずなのに、気付けばそう言っていた。

 霧崎君は視線を落とし、薄い唇を結んで黙りこんでしまった。

 踏み込みすぎた。

 たちまち後悔が押し寄せ、ごめん、何でもない。そう続けようとしたら、


「……二つの音が、寄り添ってるのが好きなんだ」


 霧崎君はぽつりと言った。

 風にかき消されなくてよかったと思った。

 小さいけれど、ひたむきな声だった。

 見えない糸でどこか遠くの場所と強く結び付いているような。

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