第2話 レッスン室と汚れた楽譜

 重苦しい空気が部屋を支配している。


 大野先生はもう三十分もエレクトーンの鍵盤に突っ伏したまま喋らない。

 私は楽譜を見つめ、何がいけなかったんだろう、とダメ出しされそうな箇所を探したが、一度怪しむと全部ダメに見えてきてげんなりする。

 それだってずっと続けていると流石に飽きてしまい、さっきみたいに記憶は過去へ飛んだりするし、油断してついシャーペンをカチリとノックしたら、急にガバッと先生が顔を上げたので、私はビクッと身体を震わせた。


「……何、その反応。俺にビビッてんの」

 眉を顰めて、私を睨み付けてくる。

 目のクマすごい。

 前髪が腕に押しつけられていたせいで、寝癖のように跳ねている。

 違います、と私は首を小刻みに横に振る。


「じゃあそんなにビクッとすることないじゃん。何? 俺が怖いの?」

「怖いとかじゃなくて。でも、あの、もう三十分も経っているんで、どうしたのかなぁと思って……」

「どうしたのかなぁ、じゃないんだよ。こんなひどいの持ってきて。小学生が作ったのかと思ったよ。それに俺先週言ったよね、転調入れろって。どこにあんの? 転調」

「……それは入れられませんでした。どうしても、いいのが思い付かなくて……」

「ちょっと何言ってんのか分かんない。だって、これ見たばっかりの俺でも思い付くよ。たとえばさあ」

 先生は一気に鍵盤に指を走らせ、

「こうやってフレーズの最後の音を足がかりにするとか、いくらでもあるじゃん。何でやらないの?」


 やりたくないから、と答えたら先生が更に怒るのが明白なので黙る。

 先生は俯く私を見て、大きく溜息をつきながら頭を掻いた。


「気付いているんだかいないんだか知らないけど、最近の里紗ちゃんひどいよ。このままじゃまた予選落ちだよ。やる気あるの? 」

 

 私は答えられない。

 何秒、いや何分沈黙していたのだろう。

 先生は呆れ果ててかぶりを振ると、鉛筆で楽譜に大きくバツを付けた。

 そして新しい五線譜を取り出し、さっき弾いたフレーズとコードを書き込んだ。

 私は、あっ、と思ったけど時既に遅し。

 

「もう、これでいいや。ここからまた作っといて。次来週」

 先生は私の顔も見ずに楽譜を突き返すと、エレクトーンの電源を切って、鞄を引っ掴んで部屋から出て行った。

 時計を見ると、まだ十五分も残っているはずだが、大野先生がああなるともうレッスンは終わりということは、五年もついていれば分かる。


 何度経験しても、自分の作った曲を勝手に直されたり、バツを付けられたりするのは心が痛む。

 でも、先生の添削に文句を言う生徒なんてこの教室には一人もいない。

 大野先生はデモテープで合格した生徒のみを受け入れる、プロの作曲家。

 そんな先生の指導を受けられるのは有り難いこと。

 お母さんも言ってた。

 有り難い、はずなんだけれども。



 帰りの電車の中、私は書き込みで汚れた楽譜を虚ろな目で見つめていた。

 何度勝手に書き直され、付け足され、削除されたか分からない曲を、どうしたらいいか分からない。

 フランケンシュタインみたいに継ぎ接ぎだらけで、音が全然流れていかない。

 何とか続きをひねり出してみても、またダメ出しをされて直される。

 直せば直すほど先生は気に入らなくて怒るが、やらなきゃいけないのは、また直すこと。


 もう身動きが取れない。


 これが自分の曲だなんてどうしても思えない。

 一つだけ言えるのは、こんな音楽では絶対に妖精は踊らないということ。

 きっと、姿すら見せてくれないだろう。


 終点、高崎。

 アナウンスが流れる。

 手動ボタンでドアを開けて電車を降りる。


 私の頭の中の鍵盤は瀕死。

 実はとっくに死んでいるのかもしれない。


 銀色のシルエットが脳を過ぎる。

 彼の頭の中の氷は、今も変わらずそこにあるんだろうか。

 私は覚えてる。

 両方、覚えているよ、と声に出してみる。

 呟きは夜の空気に溶け、街灯の光に吸い込まれていく。


 ……覚えているから何だというの。

 私の鍵盤だけ、見るも無惨に朽ち果てていたとしたら。


 信号の前、ト音記号のボラードに足を止めた。

 音楽の街、高崎だって。

 目抜き通りの名前はシンフォニーロード。

 街の五線譜に、私の音は転げ落ちていく。

 ポケットからビー玉がこぼれ落ちるように、ぽろぽろと光の波間に消え、私はそのスピードに追いつけない。

 喧噪に一人取り残されたまま、一歩も動けなくなりそうだ。

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