氷上のシヴァ
天上 杏
第一章 Child 山崎里紗
第1話 妖精の記憶
どこにも居場所が無い。
なんて言うのは、ちょっと大げさ。
でも、私の本当の居場所はここじゃない。
それは、きっと世界のどこかにあるはず。
そこは、辿り着いた瞬間分かる。
ああ、ここだったんだ。
ずっと探してたの。
私は膝を付いて、懐かしさのあまり涙を流す。
一度も行ったことのない場所なのに。
真っ白な足場。透明な風。身の毛のよだつほど高い空。
私はいつも、よそが恋しい。
転校したてで孤独を募らせ、その日も私は外を見ていた。
白夜のように薄ぼんやりとした空。
校庭の、広いスケートリンク。
冬になると突然出現するそれは、誰がどうやって作っているのか分からない。
毎年気付くとそこにある。
校庭のスケートリンクって、北海道ならどの学校にもあるのかな。
曇った窓の向こうで雪が舞う。
雪の曲、弾きたいなあ。多分こんな感じ。
ちらつく雪片に合わせてメロディーが踊り出す。
教室の風景を脳内で消去し、私は頭の中の鍵盤のカバーを外す。
指が宙を叩く。
メロディーはいつの間にかハーモニーを帯び、自由自在に展開していく。
音の種類は何だろう?
ビブラフォン、オーボエ、チェロ、ハープ、ついには楽器の種類を挙げるのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、音色は千変万化していく。
リズムを刻むのは電子のビート。
生のドラムがそこに加わり、タンバリン、トライアングル、様々な打楽器が現れては消える。
ぼうっとした視界の中、突然人影が現れた。
私は指を止め、曇った窓をそっと擦った。
ガラスの向こうに、黒いつなぎを着た男の子が一人、空を見上げ、舞い落ちる雪を手のひらで受け止めていた。
やがて、彼はすーっと前進し、急にくるりとターンした。
私は目を見張った。
浮いているのかと思うほど滑らかな動き。
よく見ると、足にはスケート靴を履いていた。
後ろ向きに滑り出したかと思うと、氷を蹴って軽やかにジャンプ。
……すごい。
まるで氷の上に住んでいるみたい。
妖精だ、と私は思った。風を味方に付け、氷の祝福を受ける。
その奔放な滑りを見ていたら、いつの間にか私の指も再び動き出していた。
流れ出す音楽は止まらない。
頭の中の鍵盤を閉じ込めていた壁が四方に倒れ、私は宙に解放される。
白銀の世界で一人舞う彼に、私は自分が生み出した音の奔流を、整えては押し流し、衝突させては弾き飛ばして、ただ遊んでいた。
不思議なことに、彼の動きは次第に私の音楽とリンクし始めた。
私が鍵盤を叩くと彼が跳ねる。トレモロが鳴るとくるくるとスピン。
氷を通じて私の音楽が彼に届いているのかもしれない。
一瞬、そう思った。
今思えば、きっと私の音楽が彼の動きと連動していただけ。
まるで一方通行のセッション。
でも、いつまでも見ていたい。
いつまでも滑っていてほしい。
いつまでも、弾き続けるから。
「山崎さん、聞いてる? 山崎さん、あなたの番よ」
「は、はいっ」
私はガタンと椅子から立ち上がった。
皆が私を見ていた。
全く授業を聞いていなかったので、何をやっているのかも分からない。
でも、黒板には平仮名で「こおり」と書かれてあったから、前に出てチョークを持ち、震える手で「氷」と大きく書いた。
「はい、よく出来ました。みんな、書き順見てた? 縦が先だったよね」
ホッと溜息をついて、席に戻る。
漢字って不思議。水に一つ点を加えると、氷になっちゃう。
窓の外を見ると、彼はもう消えていた。
後で分かったのだけど、氷の妖精は、隣のクラスの芝浦刀麻という男子だった。
しばうら、とうま。
漢字も響きも変わってる。
うちのクラスの
ドキドキしながら耳を澄ましてみると、コーナーが、直線が、タイムが、と言っている。
フィギュアスケートだけじゃなくて、スピードスケートもできるなんて。
エレクトーンとピアノ、両方を弾く私と同じだ。
私は勝手に親近感を募らせ、ますます彼のことが気になっていた。
四年生になり、私は彼と同じクラスになった。
近くで見ると、彼は思ったよりずっと普通で、背も小さくて細くて、頼りない印象。
勉強もできないし、体育の授業でもぱっとしない。
だけど、やっぱり目で追ってしまう。
氷上で舞う妖精のような姿が、焼き付いたまま消えなくて。
「里紗って、よくとーまのこと見てるよね。好きなの?」
六花ちゃんに指摘され、私は不覚にも黙り込んでしまった。
「赤くなった! やっぱりとーまのこと好きなんだ! 呼び出してあげよっか?あたし、仲いいし」
「やめて」
私は蚊の鳴くような声でやっと言った。
六花ちゃん、とーまって、名前呼び捨てにしてる。
荻島君達はシバちゃんって呼んでるのに。
そして私は、いまだに彼と言葉を交わしたことすら無い。
「とーま! 里紗が話あるって」
「わああ、ちょっと、本当にやめて」
「何?」
と、六花ちゃんに引っ張られて来る『とーま』。
多分この時、初めて目が合った。
結構迫力がある目をしている。
私は何も言えずに俯いた。
「……お前、転校生いじめんなよなー」
呟かれた言葉に、私はショックを受けた。
転校生。
彼にとって私という存在は、同じクラスになっても転校生のままなんだ。
そのショックはしばらく尾を引いた。
そして何とか自分の存在を印象付けようと、次の学級会、私は思い切って学級委員長に立候補した。
前に出るような性格じゃないのに、こんな勇気を出せたなんて自分でもびっくり。
そして、夏。
プールの授業で、偶然私と彼は二人だけ見学だった。
風邪の病み上がりの私と、バスケの突き指の彼。
体操着姿で日陰に座り、泳ぐ皆を眺めていた。
「ねえ、ずっと思ってたんだけどさ、委員長ってなしていっつも指動かしてんの?」
急に話し掛けられて、私は息が止まりそうになった。
「あっ、えっと……これ、ピアノ弾いてるの。私、頭の中に鍵盤があって、気が抜けるとついそれを弾いちゃうんだ……」
「へえ! 同じだ!」
彼は一気に目を輝かせた。
「俺も、頭の中に氷があるんだ。スケートリンクってほど立派なもんじゃないけどさ、湖が凍ったみたいな、割と広い氷ね。気付くと意識がそっちに飛んで、滑ってるよ。そんな感じ? あれ、全然違う?」
「ううん! ちがくない、同じ!」
私は頷く。
「あれってどこにあるんだろうな?」
急に真顔になって彼は言った。
「頭の中じゃない?」
「うーん。でも、俺、絶対に行ったことある気がする。全然思い出せないけど」
その目は、プールのフェンス、更に向こうの校舎を通り越して、青空のどこか遠い一点を見つめていた。
あまりにも真剣な眼差しに、つられて私まで空を見る。
雲一つ無い、抜けるように高い空。
焦点が掴めず、目を細めた。
「夢の中かもね。君の夢の中に、いつもあるんじゃないかな」
私が呟くと、彼は一瞬目を見開いて、夢かあ、と溜息をついた。
「じゃあ、いつかは無くなっちゃうな。行けるうちにいっぱい滑っとくべ」
「無くならないよ」
咄嗟に声が出た。自分でも驚くほど大きな声だった。
「……私の鍵盤も、君の氷も、ちゃんと覚えていれば、大人になっても絶対に無くならない」
強い思いを込めて、私は言った。
彼は少しの間、穴が開きそうなほど私を見ていた。
ばしゃばしゃと水が跳ねる音に、先生の笛の音が重なる。
「じゃあさ、俺が委員長の鍵盤を覚えておくから、委員長は俺の氷を覚えていて」
氷の欠片が日光を反射するように、彼の黒目に光が走った。
私は強く頷いた。
「いいよ。そうしよう。私、絶対忘れない」
「俺も忘れない。忘れた方はさ、大人になったらリボンナポリン十本おごる。約束な」
彼は小指を差し出した。
高鳴る鼓動が伝わりそうで怖い。震える小指をそっと絡めた。
「うん、約束。……百本でもいいよ」
照れ隠しに付け加えると、
「冷蔵庫に入らないでしょや」
彼はきゅっと小指に力を込めた。
それきり、私達は一度も話をすることはなかった。
まるで何事も無かったみたいに、一定の距離を保って過ごした。
そして一年後。
小五の夏、父親の群馬への転勤が決まり、私は帯広を去った。
今でも私は、彼の小指の感触を昨日のように覚えている。
思い出すだけで、胸が締め付けられる。
こういう思い出を、多分人は初恋と呼ぶんだろう。
だけど実のところ、私にはそれが恋だったのかどうかも分からない。
あれから五年、私は別の男の子を好きになったり、上級生に憧れたりもした。
けど、彼への思いはまるで別物だった。
あの気持ちだけは、名前が付けられない。
代えが利かない。
あの雪の日、私が音楽を奏で、彼が舞った、幻のセッション。
たとえ一方通行だとしても、私にとっては魂の交感だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます