約束 Chapter 5 - 8





Chapter 5


「——どうもありがと」

 ノーウェイの助けを借りて、ハルカは馬車に乗り込む。するとノーウェイはそれまで自分の隣に置いていた木箱を白明に預け、彼女を自分の隣に座らせた。ハルカは両腕を囲うように腕を組み、座席に深く腰掛けて座る。柔らかそうな二の腕を掴む彼女の指はあまり長くなく、レイの指とは全く違って、色の濃い疲れたような印象。


 ノーウェイは根掘り葉掘り彼女について尋ねた。ハルカはそれにハキハキと答える。


「私はね、この世界で何よりも猫が大好きなの。それでね、猫園、あるでしょ、タラ町に、そこに働きに実家を出て、それでその猫園で働いていたんだけど、ある日、父親が入院したって便りがきて……、それで急遽帰るというところだったの」

「ああ! それはお気の毒と言うか、わたしにも残念に思うよ」


 とノーウェイが言う。すると白明も口をはさんだ。


「でも、この荒野を一人で行くのは、危険じゃないですか。僕はそう聞きましたが。だからこうやって彼が仕事で移動するのに、護衛としてついていますし」


 するとハルカは、

「確かにね」と反省したように言った。「私みたいな女の子一人ではちょっと危ないかも。でも突然だったし、ついてくれる男の人なんて私にはいないから」


「ああ、そうだよ。急だとどうしてもね。でも、」

 とノーウェイはハルカの方を注意するように向く。

「荒野は危険だよ。誰にかに頼まないと、護衛は少々値が張るもんだけどね」


「ええ」

 とハルカはノーウェイの方を見てうなずく。

 それと同時に、外から「おーい、俺も乗せてくれ」と男の声がした。


「止まりやすか?」


 御者が声を張って聞いた。ノーウェイがカーテンを開けて外を見ると、汚い身なりをした髭面の痩せた男が、ロバのような馬に乗って必死に走ってついてきている。白明も覗き込んで、彼を見る。体の大きな、額にその半分を覆うアザのある男だった。馬の口からよだれが落ちる。


「なんだ」

 とノーウェイはその男に聞いた。窓を外して、車輪や馬の蹄音に負けないようしゃがれた声を張り上げる。すると向こうからも怒鳴り声が返ってきた。


「俺も乗せてくれないか」

「悪いが俺もお金を出してこの馬車を雇っているんだ。そう誰でも彼でも無賃乗車させるのは気分が良くない」

「襲われちまうかもしれん。こんな駄馬だばに乗ってちゃ、俺は襲われても、逃げられやしないんだ」

「意味がわからない。襲われて何か盗られる物でもあるのか」


 ロバのような馬に乗った男は、必死に窓の中を覗こうとする。

 白明はハルカの時と同じよう、銃を手に取り相手を定めていた。

 男は要領を得ない話をまくし立てるように話した。洗ったばかりなのかふっくらしたちぢれ髪が顔にかかるのを鬱陶しそうに顔をふりふり払いながら。白明は彼から見えるようカーテンを全開に開け、銃身を上げる。男はそれを見つけたとき、ロバから上げていた腰をおろした。それからこんなことを言った。


「その女は良くてか」

「ああ?」ノーウェイはその言葉はあまり聞こえなかった。

 するとまた男が、

「その女は乗せて、俺は乗せないのか!」と大声で叫ぶ。

しかしノーウェイはそんな質問を無視して問いかけた。

「どこまで行きたい?」


 その質問に答えることなく、ロバに乗った男は諦めて離れた。速度を落としたロバが、どんどん後ろへ遠ざかっていく。ノーウェイはぐちぐちと聞き取れない声で文句を言いながら窓をはめ込んだ。そしてカーテンを閉じる。

 それから一同は沈黙と共に振動に身をまかせた。



 大きな石を踏んだのか馬車が跳ね上がる。ノーウェイはそのとき異常に飛び上がったかと思うとそうではなく、実は立ち上がっただけで、立ち上がった彼は後ろを振り返り、そこにある客車と御者台とをつなぐ窓を叩いた。が、返答はない。

 窓とはいえ白く汚れて向こうは見えない。向こう、とは御者台のことだ。もともとは客車から御者の様子が確認できるように取り付けられたものなのだろうが、今は汚れすぎていて一切その役目を果たさなくなっている。

 ノーウェイは窓を叩いて馬車を止めてもらう。今度は御者に通じて、驚いたように御者の男が返事をしたのだった。

 馬車が止まった後彼は、さもありなんといった風に、


「用を足してくる」

 とカーテンを開けて、一度窓から外の様子を確認し、扉を開けて外へ出ると、地面から突き出た大きな岩のあるところまで走っていった。


「彼、緊張してるわね」

 ノーウェイをさしてハルカが言った。

「そうかな、緊張感がないように思えますけど」

「その、運ぶという仕事に関してはね。けれど、何というかな、緊張してるの。手をこねる癖があるでしょ。多分ね、彼のあの横柄で強がった性格、あれが彼固有の性格じゃなくて、自分でそうなろうと無理している性格なの」

「だから、緊張?」

「そう。癖が出てしまうの、自分を安心させるためにね」


 それから、ハルカは、箱を指差して言う。


「それって、何なの?」


「ああ、古本だってさ」

 白明は答えた。が、気の迷いでとっさの嘘をついた。

「古本?」

「うん」

「でもさっき護衛って言ってた。そんな大層な古本なの」

「あー」なぜ嘘をついたのか白明自身もわからなかったが、用心が行き過ぎたとっさの判断だった。

 そしてそれにより、辛いことに、その嘘を守るための嘘もつかなくてはならなくなった。これが八百個つらなれば嘘八百である。


「彼自身の護衛だよ。古本は商売で、それに加え、実は、彼だけが知ってる情報があって、それと一緒に彼を守らないといけないんだ」

「でも、行かなくて良いの? 彼一人でトイレに行ったわよ」

「まあトイレくらいなら。……それにもう正直うんざりなんだ。この仕事は、本当に気が滅入る」

「まあ、わからなくもないよ。君とあの人、波長が合わなさそうだもの。……

名前なんていうの?」

「僕?」

「ええ、もちろん」

「白明」

「白明くんか、いい名前ね」


 沈黙が訪れた。すぐに終わるかと予想した白明だったが、ノーウェイの不在は予想に反して長引いた。五分ほどして、またハルカの方から口をひらく。


「ガールフレンドはいるの」

「いない」


 再び沈黙が訪れる。再び五分。そろそろ見に行こうかと白明が立ち上がったと同時に、ズドン、と銃声が響き渡った。胸の骨にまで響くような分厚い音。音は耳の残響として残る。

 しかし白明には残響を味わっている余裕なんてないのだ。緊急事態である。

 慌ててカーテンを開けてみると、ノーウェイの走って行った方角に、馬に乗る黒い帽子をかぶった男たちがいた。先ほど見たロバのような馬とは違う、発育のいい見るからに力の強そうな馬。

 彼らのうちの一人が銃を持っていた。その銃口からは、おそらくさっきの音の結果であろう煙がひとすじ、か細く上がっていた。銃からあがった煙も消えないままに、彼らは馬車の方へ向かってきていた。


「盗賊よ、あれ」

 とハルカが言う。「金目のものを強奪するの。だからこの地帯は恐れられている。大丈夫? 白明くん」


「……しまった」

「大丈夫なの。彼、死んじゃったわ」

「死んだ?」


 白明は背中から腕までさっと鳥肌が立つのを感じる。

 疑心暗鬼や自己反省でないまぜになった視線をハルカに送る。

 彼女は依然、動じることなく、白明に微笑みを返したのだった。その微笑みを受け、白明は「やるしかない」と諦めに似た勇気をふるい、馬車を出ることにした。






Chapter 6


 ハルカが窓を爪でたたく。コンコンと音が鳴り、それにつられた白明が外を見てみると、こちらへ近づく男たちの奥で、確かにノーウェイらしき人物が血を流して倒れている。


「この古本、私が見てようか? ……だから行ったらどう。彼、まだ生きてるかもしれない」

「……うん」


 男たちの馬の蹄のカタコト音が聞こえるようになってきている。だいぶん近づいているのだ。御者台の方からは物音一つ聞こえてこない。体を強張らせているのだろうか。こういった状況ではその選択が一番身を守るということを、流石に御者は知っているのだろうと白明は考える。こういった無駄なことに考えが飛んでしまうのは、現実を見舞いとする白明の脳みその作用であるが、それをハルカが無理やり引き寄せる。


「大丈夫よ。別にぬすんで逃げたりしない。第一古本に興味なんてないんですもの。……私をあの盗賊の仲間だと思ってる」

「そんなことはないけれど……。ごめんね、今は、疑うのが仕事なんだ。でも、わかったよ。ここは君に任せる」

 白明は銃をしっかりと握り、腰を浮かす。


「一応の信頼はいただけたのね」

「それは、どうかわからないけど、」

「行きなさい」


 白明は扉を開けて、外へ出る。

 車輪の大きな馬車なので飛び降りなければならない。着地の瞬間は少し足に力が入らなかった。久しぶりに踏んだ頑丈な土で、今までの耐えざる振動によって感じていた足の浮遊感が違和感をうんだのだ。しかしすぐに慣れる。地面というのは安心するものだ。白明は二本の足で立つという意識を持った。


 盗賊は四人。馬に乗って白明に近づく。馬車を雇える者が金持ちであることを知っている。


 彼らのうちの一人が銃を白明にむけた、その瞬間。白明は脇腹から銃を抜き、同時に発砲する。そして、見事、自分にむけられているその銃をはじき飛ばした。盗賊の男は呻き声を上げて、血に濡れた手を押さえる。白明は次に、彼の隣にいる盗賊に狙いを定めた。


「ほほう、なかなかの腕前じゃないか」


 と落ち着いた声がする。少しおどけたような雰囲気もあった。

 一番奥にいた銃を持たない男が、拍手をしながら馬を白明に近寄らせた。口髭も顎髭も摘んで尖らせてある。シルクハットも被り、奇妙な芸術家のような男。彼が頭分かしらぶんである。頭分とはいわばボスのことで、この盗賊の一団を仕切るのだ。


「君がリーダーか」

 銃を下ろさずに白明は聞く。


「そうではないが、任されている。それと、リーダーではない、かしらだ。つまり頭分だな。任されているというのは、本当の頭ではないが、今は頭であるということ。だから今現在は、一応便宜上、現在の俺をこの盗賊団のかしらと捉えていい。」

 白明は彼に銃口を向ける。

「君たちが銃口をこちらにむけない限り、僕は君たちを撃たない。そのまま、」

 ——動くな、と言おうとしたところで、盗賊の一人が口を挟んだ。倒れたノーウェイのそばにいた男で、ノーウェイの方に銃を向けていた。


「——このおっさんがてめえの愛しい人か」


「黙れ!」

 その瞬間、頭分が腰から銃を抜きその盗賊の男を撃った。

 撃たれた男は声も出さず馬から転げ落ちた。そしてそのまま動かなくなった。乾いた地面に血が染み渡るように広がる。


 頭分は言う。

「続きはなんだ」

 白明は答えた。

「そのまま、去ってもらいたい。僕たちは荷物を運ぶだけで、お金は持ってないんだ」

「ふん」と、銃をなおした頭分は顎髭をひねって考えるそぶり。そして、

「わかった、帰ろう」


 白明はまだ警戒を解かず、彼ら盗賊たちの動きを見ていた。

 頭分は盗賊たちに指示をしてノーウェイを馬に乗せる。さっき頭分が打ち落とした男の乗っていた馬だ。


「こいつはもらっていいだろう。死んでる」

 頭分が言った。

「持って帰ってどうするんですか」

 少し警戒を解いたのか、敬語になる白明。

 

「色々と売れるんだよ。服から、内臓から。もしかしたら体ごと売れるかもしれん。まだ新鮮だからな」


 ノーウェイを乗せた馬を自分の馬と紐でくくる盗賊。彼が頭分に用意が終わった旨を伝えると、頭分は「じゃあな」と言って馬を回転させる。手を怪我した盗賊も、白明を睨みつつ回った。


 その時、白明の背後、馬車の方から悲鳴が聞こえた。ハルカの悲鳴だ。

 振り返ると窓の向こうに悲痛な恐怖の表情の彼女が見えた。彼女の口が、何者かの手に塞がれる。彼女の後ろに無精髭の男が見えた。


 白明はとっさに発砲した。すると驚いたことに弾丸は馬車まで走り、窓ガラスを割って、ちょうどハルカの顔の横を通りすぎ、男の額を貫いた。血が噴き出て、馬車内を染める。


「お見事」

 盗賊の頭分の声がして、それと同時に発砲音も響く。白明を撃ったのだ。


 弾は白明のふくらはぎを貫通する。白明は急いでふりかえり、続けて二発発砲する。その二つともが盗賊の頭分と、ノーウェイを乗せた馬を引く男とに命中した。二人は力なく後ろに倒れて、そのまま落馬した。


 最後に残った一人、手を怪我している盗賊も、白明めがけて発砲する。しかしそれは外れ、いまや地面に倒れている白明の少しズレた地面に穴を開ける。外してしまったことがわかるや否や、盗賊は馬を翻し逃走を図った。

 がその頃には白明の銃は火を吹いていて、弾はあやまたず盗賊の背中を貫いた。盗賊は馬から転げ落ち、馬だけが走って逃げていった。


「だ、大丈夫でやすかー」

 御者が怖がった、力のない声を出す。


 白明は立ち上がって、体重を左足に預けて、血を流す右足を引きずりながら馬車へ帰った。少しでも体重が右足にかかれば、すぐさま槌で叩かれたように痛んだ。


 馬車の中は血で汚れている。ハルカの髪もベトベトになっていたうえ、彼女の顔は割れた鏡の破片によって切れて血が出ていた。


「すみません」

 と到着早々白明は言った。


「ううん」とハルカは首を振る。「ありがとう。謝らなくていいわ、これは私が決めたことだから。自分で古本を守るって。目の前で、人が死ぬのは見たくなかったけど、それが、この荒野の世界よね。ある程度は覚悟してたの」


 白明は男を見た。額に大きな痣のある男だった。さっきロバのような馬に乗って追って来ていた男だ。男は盗賊とは全然違う格好をしており、その仲間ではないと推測できた。関係なかったが、隙ができたので襲ったのだろう。汚い身なりであるうえ、何よりズボンもパンツも履いておらず、脱いだ下半身があらわになっていた。

 白明は男の死体を場所の外へ落とす。


「これ」

 するとハルカは脱ぎ捨てられたズボンがある奥を指さした。白明はそれらをつかんで男の死体の上へ放った。


 白明が座って出発する前に、御者にも手伝ってもらい、客車の中の血を拭き取らなくてはならなかった。男の服は汚れていて使えなかったので、白明のコートを使った。


「ちゃんと護身用に自分の銃も持ってたのよ。でも、実際襲われたらそんなこと忘れちゃってた」

 御者が室内を拭いている時、ハルカは足首のところに巻かれた小さな銃を白明に見せた。


「あんまり考えないほうがいいですよ」

「……そうね」

 ようやく拭き終わり、コートは男の上に捨てておいて、ついに出発しようとしたとき、


「おーい」

 岩の陰から子どもが走り出てきた。十歳にならないくらいの、日に焼けた細い子ども。ヨレヨレの白い服の上に、黄色い作業着を着ている。その子の後ろから、四十代の体の大きい男も歩いて来た。


「ねえ、僕たちも乗せて。乗せてくれる?」

 子どもは必死に訴えた。ハルカは白明が許可するか、彼の顔を覗き込んで待つ。


 いくらか考え込んで、白明は、

「乗せてって、どこまでなのかな。なぜこんなところにいたのかも知りたいし」

 と、袖をまくりながらいった。ついさっきの事件でアドレナリンが出ているせいで手元が落ち着かないのだった。


 子どもは、「おとうさーん」と後ろから歩いてくる男を呼んだ。

 白明は彼から事情を聞くことになった。






Chapter 7


 ゴスゴス親子は売り払われるところだった。

 この荒野のずっと行ったところには炭鉱があって、そこでは常に労働力を買っていた。来た人間の出自は調べないうえ、いったん足を踏み入れたら強制的に働かせるというので、盗賊たちは資金集めの一種として重宝していた。

 身包みをはいで身一つになった人間を連れていくのだ。ノーウェイもあの盗賊が威嚇のために撃った弾丸を心臓に受けていなければそうなっていた。


 彼らはそんな事情を白明に話した。白明がハルカにそんな炭鉱があるのかと聞くと、彼女は知らないと答えた。

 二人とも薄汚れた白い服と、その上に作業着だけを着ていた。

 今の季節柄どう見たって寒そうである。馬車の中は人の温度で暖かくなっているので、それが一番ありがたいと、父親のテス・ゴスゴスは言った。


 子どもの方はラク・ゴスゴスといった。

 白明と木箱の横にラク・ゴスゴス。

 ラクの正面にハルカが座り、彼女の隣にテス・ゴスゴスが座った。


 ラクが木箱を指差して白明にこれは何かと聞いた。

「高価な壺よ。一個あれば一生暮らせるくらいの値段の」

 白明の代わりにハルカが答える。そして、「でしょ」と彼女は白明の方に言った。


「中を見たの?」

「なぜ嘘をついたのよ。しかも、そんなつまらない嘘を」

 ハルカは責めるような目つきで言う。

「理由はないけど、とっさに」

「別にいいけどね。信用されてなくても」


 二人がそんな会話をしているとき、ラクが父親のテスに向かって、

「やっぱり壺だってさ」

 と嬉しそうに言った。その様子に白明は訝しんだ。

「やっぱり? どう言うこと?」

 と彼は聞く。するとラクはどこか誇らしげに答えた。その様子はどこか、急に大人びたように見えた。


「ここに壺が来ることは、もっぱらの噂だったんだよ。彼ら、と言うのはあの盗賊たちのことだけど、彼らは何も答えてくれなかったけれど、あの馬車がその噂の馬車、軌仁堂の壺を乗せた馬車だろうと、僕とお父さんは考えてたんだ。そういうことだと思ったよ、でしょ」

「興味があるの?」


 白明が聞くと今度は父親のテスが答えた。


「隙さえあれば、奪って逃げ去りたいくらいだよ」

「でも、もしこの木箱に触ったら、僕はあなたちを撃つかもしれないからね」


 脅しのつもりで言ったがラクはむしろ、より大きく胸をはって言った。


「でも僕は、奪いさえすれば、手にしたも同然だよ。なぜならね、この荒野は僕の生まれ育ったところだから、移動の仕方も心得ているからなんだ。狙われている銃弾が当たらないように走る走り方も知ってる」


「でもね、この人、銃撃つのすっごい得意よ」

 ハルカずっとニコニコしてる。白明にはそれが違和感であり、恐ろしくもあった。彼女は一時たりも弱ったような、窮地に立たされた人間の表情を見せなかった。一人荒野にたたずむ時も、盗賊に襲われそうになった時も。どこか飄々としているのだ。まるで自分だけは安全なのが知れているように。


「関係ないさ。この荒野の上なら、僕は逃げきれる。お父さんもそうだよ」

 テスは言う。そして、その時彼は大きなくしゃみをした。

 白明は慌てて木箱をテスを見る。それをテスとハルカは笑った。

「大丈夫よ」とハルカが言う。「彼ら悪人じゃないんだから、言ってるだけで本当に盗ったりはしないわ」


 そしてそれ以降、馬車の中には沈黙が降りた。四人に気楽に話せる話題はなかった。車輪が砂や小石を踏む音だけが、バリバリと床下から聞こえてくる。その間も、白明はちっとも気を抜かなかった。全員の手の動きを見ていた。


 カーテンから漏れる光の量が少なくなってきた。もう外は昼ではなかった。

 これから夕方をむかえるというだん、荒野の気温はより下がり、それは馬車の客車内にも薄々伝わってくる。コートを捨てた白明はいい加減寒さを感じ始めていた。


 すると、父親のテス・ゴスゴスが自分の作業着を脱ぎ、白明に差し出す。白明は最初断ったが、テスが「受け取れ」と強く言ったのでそれを受け取った。

「ありがとうございます。大丈夫ですか。寒くなってきますけど」

「もう大丈夫だ。それは乗せてくれた感謝だ。おれはそれ以外に感謝できる何も持っていない」とテスは言った。そして、続ける。「止めてくれ」


「止めてくれって……、もうここでいいんですか」

「ああ、家が近い」


 ラク・ゴスゴスはすっかり眠っていた。白明はハルカに頼んで、御者に通ずる窓を叩いてもらった。馬車が止まる。

 ラクはハルカに起こされ、眠そうに、父親に抱き上げられ、馬車を降りた。

 テスは感謝を言いつつ「からかって悪かったな。こいつも、悪い奴じゃないんだ」と息子共々白明に謝った。


「いいえ、こちらこそ、疑ってしまって」

 と、両者挨拶もそこそこに分かれることになった。

 馬車からさってゆくとき、ラクは大きく手を振って

「バイバーイ。ありがとー」と言った。白明も手を振り返す。



「ね。悪い人じゃないでしょ」

 とハルカは言う。白明は窓の外を見た。


 それからも御者が馬の調子を整えるのに、いくらか手間取っている間、彼はなんとなく外を眺めていたのだが、ふとそのとき、景色に川が無いのに気がついた。

 窓を開けてそこから顔をだす。音も匂いもなく、川の気配はちっとも感じない。

 彼はそのまま御者の方に顔を向け彼を呼んだ。


「すみません。今どこを走ってるのでしょうか」

「どこって、護衛さん……街へ向かうのでねえですか」

「そうなんですけど、川沿いを走る予定だったと思うのですが」

「そうはいえ、護衛さん」と御者は笑う。「荒野にも道はありますぜ、そうずっと川の横にピタリとつくことなんぞできやしませんので。勘弁してくだせえ」

「そうよ、ちょっと疑いすぎよ」


 ハルカが言った。

 馬車が動き出す。そんなもんだろうか。と白明は考える。とはいえ、道という道を走っている感じでも無いのだ。盗賊に襲われたりはしたが、それにしても、これほど時間がかかる予定でもなかった。


 多少の不安を胸に育てつつ、走り始めた馬車。しかし今の白明には身を任せるしかできない。どちらに川があるのか、そのざっくりとした方角もわからないのだ。そこを確かめておくことを忘れた。白明は後悔する。どこに川があって、今どこをどう走っているのかを逐一確認しておくべきだったのだ。しかし、もうしょうがなかった。白明は黙って待つ。


 ハルカは目を瞑っている。白明もようやく落ち着いた気分を感じ始める。あとはもう街へ着くのを待てばいいだけなのだ。何も起こらない限りは。

 そう思った途端に、馬車が止まった。白明はため息をつく。


「またか」

「乗せてくれー」


 馬の前に立ちはだかって馬車を止めた少年は、扉のある方まで回りこんでくると、客車に飛び乗って鍵のかかったままの扉をガチャガチャ引いた。

 白明は鍵を開ける。すると突然開いた扉に跳ね飛ばされ、少年は地面に突き飛ばされた。


「乗せてくれー! 殺されちまうよー」


 少年は言った。

 白明は面倒臭かったので、もう乗せることにした。






Chapter 8


「聞いてください、聞いてください」

 アランという少年は勢い込んで話し始めた。彼はとても興奮していた。そんな彼が話したのは、ここに至るまでの経緯、魔女を退治した話だった。


「この荒野には、魔女が住んでいるんです」


「魔女……聞いたことないわ」

 とハルカ。白明の隣に座ったアランを細い目で見つめる。彼はいかにも気弱そうな顔つきで、服もシャツにサスペンダーをつけ、その上には薄いダウンジャケットを着ている。喋っている途中、彼は、寒くないですか、と白明に聞いた。


「そうでしょ。そうでしょ」少年アランの勢いは止まらない。「ずっといるわけじゃないので、たまに現れるんです、たまに。それでですね、僕はその魔女を退治しようと思いまして、ずっと前から研究してたんです。図書館にある本を読んだりして、魔女をどうすれば封じ込められるのかとか、魔女はどういう生活をしているのかとか」


「でも、図書館にあるそういう本ってフィクションなんじゃない?」

 と白明は聞く。

「それでもいいんです。とりあえず情報が集まれば。そして魔女について知悉した僕は、いよいよ今日、魔女を封印したのです。そして見てください。魔女の家にあった、魔女の道具を色々と持ってきました。ほらこれ、竜の血のインクです、青い契約文字をかけます。他には、いぶると出てくる煙で記憶を消す草とか、使い捨ての賢者の石です。面白いでしょ」


「面白い」

 とハルカは答える。が、白明は言う。

「面白くない」

「なんでよ」

 ハルカが疑問を呈する。

「馬車に盗人を乗せちゃったよ」

「盗人だけど、彼なんて絶対壺になんか興味ないわよ」


 その会話を聞いて、アラン少年は「壺ですか」と神妙な顔つきをする。


「知ってますか」

 と白明が聞くと、彼は「いや、全く興味がないです」と答え、続きの魔女道具を楽しそうに説明した。

 飲み込むと姿を消せるガラス玉。付近を夜にすることができる煙玉。消えない蝋燭。魔女お気に入りの茶葉まであった。次から次へと出て来た。それらはすべて一つの巾着袋に入っていて、一つ出してはしまって次のを探すので、最後の方はなかなか見つからずに袋をゴソゴソすることになる。そのうちに白明はすっかり興味を失っていった。


 魔女道具紹介も終わり、ゆっくりしたところで、ハルカはアランに話しかけた。

「その魔女はどうしたのよ。追っかけてこない?」

 ハルカが聞くと、アランは胸を張る。

「大丈夫です」と自信満々。

「檻に十字架をつって閉じ込めておきましたから。少なくとも五十年は出れないでしょう。魔女はすっかり弱り切って、僕がものを貰っていくのも黙って見ていましたよ。いや、こんなにうまくいくとは思わなかった。僕はですね、画家になりたいんですよ。でも、家が貧乏で今までずっと働いていて、それだけで時間を過ごしてしまい、絵を描く暇なんてなかったんですけど、これを売ってお金が入ると、ようやく絵だけに集中する日々がやってくる。画家として成功することだけが、僕の望みですからね。それ以外には何も、」


 また馬車が止まった。

 ようやく街についたのだ、と白明は思った。

 御者が馬をなだめ、御者台から飛び降りると、客車の方へ回ってきて、扉を開けた。

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