賭博者とは。若き白明の経験 前半

 日が登った頃に、白明はこの町についた。

 オレンジ色の重たい朝焼けだった。

 海辺の港町。白明は防波堤に座り込み、その潮っぽい風を疲れ切った肌にあてる。肩からかけた鞄はぺしゃんこである。中の財布にも、もちろん金はない。彼は自分の細った指を見てため息をついた。なんにせよ腹が減ったのだ。お腹いっぱい食事をして、食後には甘ったるいミルクティーを飲み、それとタバコが吸えれば、どれほどいいことか。コクリと飲む唾は、真綿のように味がなかった。

 しかし、もう何週間もすることもせず、何もない通りを歩き続けて、ようやくここへ辿り着いた白明には、鐚一文ほどしか金を持っていなかった。

 早朝、太陽が海を明るく照らし始める。白明はそれを力なく眺めている。この街から到着してからずっとそうだった。まだそれ以外のことをしていなかった。朝日は強まってくる。もう目を細めないと眩しくなっていた。

 町ではようやく人が動き出した。

 ザッザッと、人の足音が重なりだす。白明もその気配に、ようやく腰を上げて、町に踏み込んでゆくことにした。とにかく、仕事を探さなくてはいけない。仕事を見つけて、お金を稼がなくてはいけない。お金を得て、お腹いっぱい栄養になるものを食べたいのだ。

 けれどその白明の望みはなかなか通らなかった。店を開いているところや、道ゆく船乗りの人に聞いて回ってみたが、皆、首を振るばかりだった。仕事を手伝わせてもらえるところが、なかなか見つからなかった。彼は市役所へ赴いた。それでも、仕事を回してもらうのは無理そうだった。そういった場所を紹介してほしい、と頼んでみたが、それは難しいと断られた。この町が港町であることが、その空気の原因であった。なにも、この町には、海を流れて異邦人のよくたどり着くところで、彼らもこぞって、白明と同じように、「仕事をくれ」とせがむのだそうである。町のものは一様に、断るのに慣れていた。

 もう昼を過ぎていた。白明は残りのわずかな金を有平糖に変えてしまった。それをひとつ、彼は口に放り、甘く舐めて、空腹を紛らわした。そうして町中をさまよって、さまよって、結果、彼は元いた防波堤へ帰ってきてしまった。そして、ふたたび彼はそこへ座り込んだのだった。

 こうして野垂れ死ぬのだろうか。それも楽かもしれない。と、白明は思ってもない独り言を口にして、自分を嘲笑する。手元にあった小石を、目の前に広がる海の口へ投げ込んだ。

「おいおい、にいちゃん。海へ、ものを投げちゃあいけないよ」

 後ろで声がした。

「あっ、ああ、すみません。そんなこと、考えたこともありませんでした」

「いや、まあ、俺は怒らねえけどよ、海はどうかわからん。良い気はしないだろう。いいか、もし、にいちゃんが海へ命を預けなきゃいけなくなった時に、それじゃあ助からねえかもしれねえ。海は広大で、優しいが恐ろしい。日頃から、うやまって、気をつけるにこしたことはねえな」

「ありがとうございます」

 声をかけてきたのは四十を超えた男だった。丸く太った腹、高くない背、髪は短くしてある。首からかけた薄い水色のタオル(すっかり薄くなってしまったタオル)は、汗に汚れていた。

「しかし、にいちゃん。そんなところで肩を落として、一体どうしたんだ。景気が良くねえってか」

「ええ、それは、そうです、はい」白明は色々な物事を考えながらのように話す。いつもそうだったが、こういった、人に何かを求めるときは、さらにましてそうだった。

「あのう、僕は旅をしていて、それでこの町へついたんですけど、仕事も見つからなくって」

「この町で流れ者が仕事を見つけるのは、簡単じゃあないだろうねえ」

「やっぱりそうですか。それと、宿もまだ決まってなくて」

「宿かあ。それなら、この町に二つはあったな」

「本当ですか」

「ああ」と、男(彼は後で白明に、自分の名前はゴンサロだと名乗った)はこの町に二つあるというそれぞれの宿の説明を始めた。「片方は、まあ普通の宿だな。普通の宿。この町以外の宿を俺は見たことはないが、あれが普通の宿だということはわかる。大体、この町を訪れた人はあそこに泊まるだろうな。にいちゃんもそうするべきだ」

「もう一つは、どうなんでしょうか」

「もう一つは、安さだけが取り柄のところだな」

 白明はもうこの時点でそこへ泊まろうと心に決めた。

「その宿はどこへゆけば見つかるんでしょうか」

「いいや、やめておいた方がいい」とゴンサロは、腹をさすりながら、誤ってパクチーを口にしたみたいな表情で言った。

「安いってことは、そういう人間が泊まるということだ。俺もたまにそこを通りかかるが、ろくな格好したやつはいないし、そういう人間が、町へ赴いたりして、治安が悪くなると言って、ここの町長があの宿屋へ規制をかけようとしたくらいだ。まあ、結局、そういう人間はルールや法なんてものをなんとも思っていないようで、今でもあそこは変わらねえ。にいちゃんが行くようなところじゃねえ」

「……わかりました。あの、ありがとうございました」

「いいや、いいよ。わかってくれればそれでいい。最初に言ったのは、『ハマグリ庵』と言って——」

 と、ゴンサロは治安の良い方の宿への行き道を説明し始めた。しかし白明は、安いという魅力一点で、もうそちらではなく、後に言った方へ行くことに決めていた。しかし、もうすっかり一銭も持っていない白明でも、果たして泊めてくれるのだろうか。でも、まあ、それは行ってからのことだ。相手に交渉してみるほかない。白明はゴンサロの話を半分に聞きながら、寝場所の想像をした。ここ数日、道端、土の上にコートだけを体に掛けて寝てきたのだった。もう野宿だけは勘弁だった。身が持たないのだ。

「——、で、その茶屋を見つければ、もう簡単。わかっただろ」

「はい」

「まあ、仕事は見つからないかもしれねえが、この町も別に悪いところじゃない。ゆっくりしていってくれな」

「今日は、本当にありがとうございます」

「いやいや、また会ったときな。船で出てなけりゃ、どこにでもいるから。その時はまた頼ってくれ」

「ありがとうございます」

 白明はゴンサロと別れた。そして、彼は安い方の宿へ向かった。道順は聞かなかったが、大体の方向はわかった。それというのも、ゴンサロは安い方の宿への悪言を続けながら、そのあるべき一点を見つめていのだ。西の山の方だった。白明は、とりあえず、そちらへ向かうことにしたのだった。

『小梅館』というのがその宿だった。いかにも低そうな名前だと思った。場所はとてもわかりやすかった。方向音痴な白明でも迷わずにこれた。全体的に緩やかな坂になっている町の西側には、川が流れている。その川沿いには大きな神社や、町民館があった。そして、その周りには、あまり大きくない家々が立ち並ぶ。家の密集は山へ近づくにつれその密度を薄くしていた。それらを全て超えた先、この町の端に『小梅館』はあった。生け垣で両側に壁が作られた間を、石造りのすうーと続く道があって、その向こうに『小梅館』と木の看板がかけられた古びた宿がある。白明はすっかり薄暗くなった中に、その宿を見つけた。くたびれた干物のような白明には、その宿も、いくぶん立派に見えたのだった。

 ガラガラガラ。

 ——と、木とガラスの、重たい音をさせる。白明は中を見回した。すると奥から小さな、ところどころ頭の禿げた老婆が、音もなくやってきた。闇からぬっと現れた。

「泊まるんかい?」

「ええ、いいですか」

 老婆は、そのまま奥へ帰ってしまった。白明は困った。が中へ入ってしまうことにした。泊まってもいいということだろうと勝手に合点したのだ。中へ入ると、玄関からは暗くて見えなかったところが、明らかになった。まず畳敷きである。六畳半ほどの間。真ん中に囲炉裏があって、老婆はそこに座っていた。そこに座って、なにもせずにぼうっとしていたのだった。

「もっとむこう」

 と、やって来た白明に対して、彼女は身動きもせずに言った。

 視線を上げて、辺りを見ると、「むこう」に廊下が続いていることに気がついた。白明は、

「失礼します」

 と小声に言って、その廊下へ足を踏み入れた。

 きゅるきゅると小動物の鳴き声のような音が一足ごとになる。奥まで進むと、左に扉があった。彼はあまり音を立てないように、気をつけてその扉を開いた。

 中は、暗くて広い。目が慣れると、床に数人、布団を敷いて寝ているのが見えてきた。白明はその間を、気配を消しながらきしきしと通り、部屋の隅までくると腰を下ろした。部屋へ来た瞬間は、異様な空気感に緊張こそしたのだが、自分の場所を作りそこへ座ってしまえば、案外くつろげるものである。白明はあまりいい匂いのしないなか、疲れ切ってパクパク鳴っている心臓を落ち着けようと、深呼吸をした。それから寝転んだ。薄い鞄を枕にした。布団はどこにあるのか分からなかった。探す気力も湧かなかった。そしてすぐに白明は、強い眠気の引力にひかれ、意識を落としたのだった。

 誰かの荷物を整理する音で、白明は目を覚ました。

「遅い目覚めだな」

 荷物の整理を終えた男は、鞄の紐を締めながら言う。二十代後半の、健康そうな男だった。服も、白明とは違って、わりにしっかりした清潔な物をきていたが、その目だけは普通でなく、人々の中に入らない、緊張したものをもっていた。

「今は、どれくらいの時間なんですか?」

 白明は眠気まなこのまま、男の目の鋭さにも気づかないで尋ねた。と言うのは、その男は、声だけ聞くととても優しいのだ。それで、今の時間を、白明は気軽に尋ねた。それが素直に知りたかった。まったくもって、そのだいたいの時間すら、白明には分からなかった。それというのも、部屋は昨夜とあまり変わらないほど、暗いのだ。

「昼を過ぎてちょっとだな」

「にしては、……暗いですね」

 白明はようやく覚醒してきた。一度立ち上がって体をほぐしてから、また座る。

「ああ、ここはな。東側が廊下で朝日は入らねえ。南はこのとおり壁だ。それでもって西側は山に遮られてるし、夕日も入らねえ。この部屋は四六時中丑三よ」

「そうなんですね」

「ババアは囲炉裏んとこにいるよ」

「はい」

 白明は宿代のことを思い出した。一瞬、どうしたものかと腹を痛めて感じた。が、どうしようもなかった。ないものはないのだ。

 男について白明も立ち上がり、部屋を出る。白明は男の顔を見たが、その頃には、男は、キレのない顔つきになっていた。男はあの少しの会話で、白明が人を騙して生きる者ではないと見切ったのだった。この二人が消えて、部屋には誰もいなくなった。

「昨晩は、急に来てしまって、すみませんでした」

 白明は、囲炉裏の前で草鞋を編んでいる老婆に言った。

「急じゃない客なんて、ここにはいないよ」

 老婆は言う。「違いねえ」と男も笑った。

「一晩、六十銭だよ」

 老婆は一度編む手をとめて言う。

「そのお金なんですが、」と白明。一度言葉を区切って、唇を舌で濡らした。

 その様子を見てか、男が後ろから耳元で、「明日払うと言え」とささやいた。白明はとっさに、

「明日でも大丈夫でしょうか。明日になると、お金が入るんですが、今は持ち合わせがなくて」

 とその場しのぎに言い切った。

「信用はできんがね」

 と老婆は冷たく言う。「どうしたものか。どうせ、そう言って明日にはどこかへ、この町を出て行ってしまうんだね。そんなことがまかり通っちゃあこっちはやっていけない」

「質を入れさせてらどうだ」男は老婆に提案した。

「しちだ?」

「ええ、何か、例えば、そうだ、こいつの靴を預かればいいんだよ。そしたら逃げられまい。宿代を払えば靴を返す。どうだ」

「あんたの靴と、財布も預かっておくよ、中身はいいから外側だけ」

 財布も取っておくという老婆独自の発案に男は笑った。

「代わりにそこの出来損ないの草鞋でも履きな。さあ早く、キンスを持ってくることだね」

「ありがとうございます」

 白明は老婆に財布と靴を渡した。そして、より軽くなった、本当になにも入っていない鞄だけを持って外へ出た。外では先に出ていた男が待っていた。

「大変そうだな。旅人か?」

「そんな、わかりやすいものでもないのですが、まあだいたいそのようなものです」

「これ」と男は手を差し出した。「貰っときな」

 白明が受け取ると、それは、金、十二円だった。

「貰えませんよ。お金のことは、自分でどうにかします」

「ふん。初心ものだな。いいか、お前も旅から旅の流浪人なら憶えておけ。旅の情けはお互いさまだ。困っているやつを見つけたら自分のことだ思って面倒を見ておく。これが、流れ者の生きる知恵。お互い様ってのはこういうことだ。だから気遣うな。その代わり、お前が旅先で金のないくたばりかけの人間に出会ったら、そのときは、今度、お前が助けてやるんだ。この町では、仕事をすることもできまい。やれるのは金くらいだが、受け取っとけ」

「わかりました」

 白明はそれを、握りしめるように受け取った。

 白明はそのお金で、町へ出て、何か食べ物を探す。そのことしか今は考えなかった。

 男は町へ繰り出すそうだった。彼は夕方から活動するのだと、それだけ白明に説明した。

「あなたの名前は」

「名前は、ここでは誰も呼び合わない」

「なぜですか」

「こんな安宿にたどり着くような浮かない身の者ばかりだ。スネに傷もつもの同士だったりするってんで、ここでは互いにその特徴や、職種で呼び合う。俺は賭博モンって呼ばれるから、まあ、お前もそう呼べばいい」

「わかりました。……賭博さん、でもいいですか」

 賭博者は笑った。

「好きにしろ」

「僕のことは、」

「行き倒れか、無一文か、フヌケ、あるいは少年か、」

「じゃあ、無一文で」

「ふん」

 と、二人は民家の間を、坂を降りながら進み、町の中心部へと向かった。

 賭博者はちょうど一月前にこの町へ流れ着いた。彼はその名が示すように、賭け事で生計を立てていた。とはいえ、生計を立てる、と言えるような真っ当な生き方ではない。夜な夜な町へ出ては、人と賭け事をして、金を得る。賭けの場を設けて親をしたり、勝負したり。そうして金を巻き上げる。堅気ではない。しかも、その多くが、ハッタリだった。

「金なんてのは虚像、イメェジなんだ。嘘なんだよ、だから人から取ったってその相手の命を取るわけじゃない。米をとっちゃいけねえ、現実だからだ。しかし、金なんてのは本来がまやかしなんだ」

 彼は白明にそう論じた。が、金に困っていた白明は、それどころの話ではなかった。またこの町を出ると金に困る。白明にとって金は現実なのだ。

 二人はいいところで別れた。

「無一文、今日の予定とか、やることは?」

「何もないです」

「もしあれだったらババアに枕でも探してやってくれ。もうくたくただったからな。そのお金で、無一文の選定眼で買え。俺からだとは言わなくてもいいし、もしお前さんからだと言って受け取らないようだったら俺の名前も出していい」

「わかりました」

 白明は定食屋を見つけ、エビフライ定食と、カツ丼を頼み、パクパクとそれを食べ切った。

 擦り切れた畳の古い香りが満腹の白明に眠気を誘った。白明は店の内装を見渡した。床は畳、店へは靴を脱いで入ったし、机も低い和風なのだが、壁や天井は洋風だった。シャンデリアがかかっている。けれど、ミスマッチではない。それがこの町のもつ雰囲気だった。そういえば、町全体がそういう和洋折衷の様相を呈していた。白明は今まで見たこの町の風景を思い返す。今の今までそんなことにも気づかなかった。いかに自分のことで精一杯だったことか。

 食後に彼はミルクティーを頼み、砂糖をたっぷりと入れて、それを飲んだ。そしてタバコを吸いながら賭博者について考えた。

 彼はまさしく旅慣れていると言った感じで、旅を始めたばかりの自分には学ぶところが多そうだった。賭博という少し胡散臭いところもあるが、旅そのものにおいては、彼は正真正銘先輩である。旅の情けはお互いさま。旅には旅のルールがあるというのも、白明は初めて知ったのだ。それは、彼がそれ以前に知っていたどのルールよりも、合理的で人間的だった。ルールというのにつきまとう、理不尽さも、堅苦しさもなかった。まったく破る必要のないルールと言えた。そういった一切のことが、やはり白明には面白くて、この生活の醍醐味といえるものだった。賭博者は白明に、とても頼りになるように思えた。

 白明は賭博者に言われたとおり枕を探して、それを買って宿へと戻った。

 老婆は外へ出て何やらの布を井戸の水で洗っていた。白明が枕を見せると、彼女は驚いたように目を開けた。その丸くなった目には、確かに喜びの光が見えた。そこに置いておけ、と老婆は洗い終わった布の山の上を示した。白明はそれに従って、枕をそこに置いて、さらにその上に宿代を乗せた。昨夜の分に加え、もう二、三日泊まるつもりになったので、その分も重ねて置いた。それから彼は部屋へ帰った。


 部屋には白明よりいくらか年上であろう青年がいた。青年は手に頭を乗せ、仰向きに寝転がっている。寝ている風ではない。白明が扉を開けると、青年は音につられて、目だけでそちらを見た。そして、見慣れぬ白明に気づいて、体を起こした。彼は、部屋を横切る白明を、目でおった。

 白明は昨夜見つけた自分の場所へ座った。

「はじめまして」

 と、とても軽やかな口調で青年は言った。「君は、」

「無一文、と、呼ばれることになりました」

「無一文か」と男は再び寝転んだ。「いい名前だな」

「そうですかね」

「俺は、スリ。まあ、そのまんま。掏りをするからだ」

「スリ、ですか」

「とか、置き引きとか、元気があるときは詐欺とかな」彼は寝返りをうった。うつ伏せになって、手足が引っ張られるように一直線に伸びた。


 スリは白明より七歳年上で、二日前にこの町にきた。そして、明日には、この町を出ていくのだそうだ。とても飄々として、すぐにすり抜けてゆく印象のある人物だ。

「本日の収入」

 とスリは起き上がる。懐から財布を六つも出して並べた。

「これだけあれば、当分は生きてけるな。いやあ、大した儲けだよ。こんなことってないんだぜ。こんなにうまくいくことって」

「そうなんですね」

「ああ」

 良いおこないではないけどな、とスリは口の端をあげた。とても彼に似合う表情だった。


 白明はスリと夕食をしに宿を出た。ちょっといったところにラーメン屋があると聞き、無性にラーメンが食べたくなったのだ。うまくいった仕事の具合に気を大きくしているスリは、白明に奢ると言い、大股で歩いた。

 到着したラーメン屋はラーメン屋に見えなかった。和菓子でも出てきそうな、きちんとした座席だった。四角い机が四つ並べてあった。二人は一番奥にある机に座る。白明が壁側に座った。スリがそこを勧めた。そして彼自身はその正面に座る。隙さえあれば、他の客の所持品をくすねるつもりなのだろうか、と白明はふと思った。そこに座れば、後ろにきた客のカバンやコートなりから、何かを気づかれずに盗ることもできるのではないだろうか。

 ラーメンが来るまでには時間がかかった。二人はあまり喋らなかった。この町に来る以前に訪れた場所について、少し話しただけだった。

 そのラーメンを待つ間に、新たな客が入ってきた。男だった。その男を見て、白明は、あっ、と思った。ゴンサロだったのだ。ゴンサロも、奥に白明がいるのに気がついた。そして彼は、二人が座る隣の机に座った。

「よお、元気にしてたか、にいちゃん」

 と、ゴンサロは気さくだ。注文を聞きにきた若い女の店員にメンマラーメン、と素早く頼んで、それから嬉しそうに白明の方を見た。

「知り合いもできたのか」

「はい。あの、助かりました、宿を教えてもらって」

「いいや、気にすんな。良い方に行ったか」

 ゴンサロは、えへっ、えへっ、と笑った。

「ええ、まあ」

 スリはゴンサロが来てから黙って机を見ていた。ちらとゴンサロの方を見て、興味がないのかまた机に視線を戻す。

「あっちに行っちゃあ、人間のおしまい、みたいなところだからな。人間は真っ当に生きなきゃいけない。それが一番だ」

「そうですか」

「ああ。それと、今日な、俺のダチがスリにあったんだ。運悪いだろ。俺はな、犯人はあの宿に泊まってるどいつかだと睨んでるんだ。スリなんて、この町に生まれて、真っ当に生きてきた奴がすることじゃあない。だから町の外からきた人間だ。スリをするために来たんだ、それで、いくらか盗り終わると、また別のところに行くんだな。そう思わないか」

 白明はスリの方を見た。彼は微塵も表情を動かさなかった。

 白明は、はあ、と曖昧な返事だけをした。ちょうどその時、白明とスリ、二人のラーメンが運ばれてきた。

「にいちゃんも、にいちゃんと知り合ったあんたも、気をつけるんだな。な」

 ゴンサロは言った。白明はうなずく。スリも、気をつけます、鹿爪らしく言って、それからラーメンをすすった。白明も、それを見てから、ラーメンをすする。魚介類の出汁の味がする、あっさりしているが深い味わいのラーメンだった。二人は言葉もなく、そそくさと食べていた。

「おっちゃんは、」

 とスリが、途中、口をひらく。

「ゴンサロというんだ」

 とゴンサロは自分の名を紹介したが、スリは

「おっちゃんは、」

 ともう一度言い換えず繰り返して、

「そういう人間は、なぜそんな生き方をしてるんだと思う? なぜ、人間の終わりと呼ばれる行動を、わざわざしているのか」

「そっちの方が、楽だからじゃあないか。人のものを盗むなんてのは、ズルだ。そんなことを皆んながしていたら、その世界で幸せな奴は、まあ、少ないだろうな。だからしちゃいけないことになってるんだ。しちゃいけないルールの中で、自分だけ楽して儲けようとズルをするってのは、自分のことしか考えてない奴のやることだわな」

「確かに」

 と、スリはうなずいた。白明は黙って見ていた。

 ゴンサロの頼んだラーメンのやってきた。それから三人は、共々黙って、ラーメンをすすった。白明とスリは先に食べ終わる。ゴンサロに挨拶をして、先に店を出た。

 店を出ると、スリは吹き出した。

「はあ、えらいおっさんじゃねえか、よくわかってる」

「そうですか」

「ああ」

 と言ってスリは笑う。空はすっかり黒くなっていた。星は海風の湿気で滲んでいた。白明は何気なしに月を探して目を動かしていたのだが、見つからなかった。宿に着く頃に、白明は、今日が新月なのだと気がついた。


 宿に着くと、白明の分の布団も用意されていた。が、それは他の誰のよりも、一等質の良い布団だった。なんだこりゃ、とスリはおかしな顔をする。

「何をしたんだ。まさか、……あのをババア抱いたのか」

「いいえ、実は」

 と、白明は賭博者との話をスリにした。そうしているうちに、噂をすれば、と賭博者は帰ってきた。彼もスリ同様、今日はなかなかの儲けだったと見えて、両手に袋を掲げていた。白明とスリの二人を見つけると、彼は誇らしげにその袋を持ち上げた。

「なんだ、そりゃあ」

 スリが聞く。

「なにかって、喜べ、酒だ。たんまり買ってきてやった」

 スリは喜びにひっくり返った。そして足をバタバタした。

「今日は最高だ」

「俺だってそうだぜ、あんなに全てがうまくいくとはな。何が占い師だ。馬鹿だぜ、まったく」

「占い師ってのはな」とスリは起き上がり、白明に説明した。「今、もう一人ここに泊まってるのがいるんだが、そいつのことだ。占い師をやってんだ。占いはできねえがな。適当なんだよ。それで、遊びの一環で、俺らも占ってもらったんだが、そいつ曰くこの賭博モンの運勢は最悪らしいんだ」

「まったく。儲けてきてやったぜ」

 賭博者は音を立てて、どしんと座った。「あといくらかしたら占い師も帰ってくる。そしたら宴会へと洒落込もう」

 そして、あまり待たずに占い師は帰ってきた。全身黒い服。布に布を重ねたような服だった。歳は三十。きちんとスーツでもきれば、会社員として通れるような、真面目そうな顔つきで、入ってくるなり「酒か」と床に並んだ瓶に反応した。

 白明とは初めて顔を合わせるが、挨拶もそこそこにグラスが配られ、それぞれ酒をつがれた。

「それでは、」とスリが高い声を上げる。「四人の今日の無事と、商売と、これからの明るい未来に、乾杯!」

 乾杯、と声を合わせる。四人共々、見事な呑みっぷりでグラスを空にした。

 酒はどんどん進んだ。時間も過ぎてゆく。一番先に、目に見えて酔いだしたのは、白明だった。しかし、そのほかの三人も、すぐに白明に追いついた。四人とも、よく笑った。スリが先ほどあったラーメン屋での話をしては笑い、占い師が今日占ったという女性の会社員の話をしては笑い、賭博者が今日初めて試した賭け事でのペテンの仕組みを話しては笑った。スリが、今日スった財布の中に、占い師が売り捌いている幸運のおふだが入っていたと、それを見せると、とても盛り上がった。そのうちに、白明は何が何だか判らないくらいに酔ってしまった。占い師なんかも、一番ずっと平気な顔をしていたのに、気がつくと眠ってしまっていた。そうこうして、さらに、みるみる酔いの席になるのだった。


「俺はお前が嫌いだ」とスリ。白明を指差して言う。が、「いや、気に入ってる。お前は俺の話を聞いてくれるからな。そうだろ、俺の話を聞いてくれた。良いやつだ」

「ありがとう、ございます」

「ああ、だがな、もし俺とお前が、まったくの他人として会っていたら、俺は簡単にお前を騙せる。無一文、お前は甘いぜ。まあ、甘い世界に生まれて、そこで育って、甘い世界しか見てないからだろうがな。あまりに簡単だ。簡単に騙せる」

「大丈夫ですよ、騙されても。僕ぁ騙されても、ああ、あの人は僕を騙したんだな。と思うだけですから」

「他人事かよ」

「平気です」

「何が平気だあ」と賭博者は白明を叩いた。「へたばりかけてた奴がよお」

「それも、平気でしたよぉ」

「何が平気だあ。お前はなあ、人に助けてもらわないと生きていけない、弱い人間だ。それが、もう全てに表れている」

 それを聞いて白明の威勢は削がれた。白明は下を向くと、とつとつと語り出すのだった。

「僕ぁですね、こう言っちゃあなんですが、モテるんです。昔から女の子に好かれたんです。それだけでない。男の人にだって好かれます。あの、ゴンサロさんだってそう、スリさんだって、賭博さんだって、僕ぁあまり人に嫌われなぃ。それどころかぁ、無償に優しくされることが多い。それなのに、僕は人にあまり優しい行いができていない。そう感じる。それがつらい。僕ぁ自分が嫌いです」

 けれど、それは誰も聞いていなかった。

「俺は、やっぱりお前のことが嫌いだな」とスリは言った。「俺はな、中学の頃、それはそれは、まったくモテなかったぜ。なんでお前みたいな、何もない奴が人気者なんだ」

 そう言って、彼は白明を殴った。

「人気者ではありませんでしたよぉ。ずっと一人でした」

「が、女にモテたんだな」と賭博者は、納得がいく、と言うように首を頷かせながら白明を見ていた。「けれど、スリよ。お前はお前で、金持ちの家に生まれて、幸せ者じゃねえか」

「もう知らねえよ、あんな家」

「お金持ちなんですか」

「そこんじょそこららの金持ちじゃないぜ」と賭博者。「由緒ある家の生まれだ。まあ、こいつが語ったところによるとだがな、嘘かも知れんが、これに関しては嘘じゃあないだろう」

「ああ、嘘じゃねえよ」

「じゃあ、なんで、こんなところで、こんなこと、してるんですか」

 と、勢い余って、白明はグラスを倒してしまった。その水は占い師の鼻にかかった。それによって、占い師は目を覚ました。

「よお、占い師。お前、今日の手応えはどうだったよ」

 と、スリは話を変える。家の話は、酔っていても得意ではなかったのだ。

「商売のか」

 占い師は鼻を袖で拭きながら言う。

「当たり前だ」

「とても良かった。珍しく。よくこれほどうまくいったものだ。見たまえ」

 彼は金を床にばらまいた。三十五円もあった。

「じゃあ、俺と勝負しねえか。俺も、それはそれは儲けたわけだ。どうだ、今日の儲けをかけて、ひと勝負。親はもちろん賭博モンで、正々堂々とな」

「良いだろう」

 賭博者は、ふん、と鼻で笑って、用意を始めた。カードを出し、二人にルール説明をした。

「次は僕もやります」

 と白明が言ったが、それは聞き入れられなかった。百年早いとのことだった。不貞腐れてしまった白明は、賭け事なんかに興味はないと示したいのか、その場に寝転んだ。そしてそのまま、眠ってしまった。

 目が覚めると、部屋はもう真っ暗になっていて、眠りの音がしていた。白明は重くなった頭をふりふり、部屋を出る。外の空気を吸いたかった。

 外には、占い師がいた。何をしてるのか聞くと、彼は、星を見ていた、と答えた。

「占い師さんは、なぜ占い師なんですか」

「気になるか」

「はい」

 白明は、占い師とは少し距離を開けて座る。

 占い師は語り出した。

「僕の父親はね、師だったんだ。しかし、僕とは違う。本当の占い師だった。

『世界には神秘の流れがある、それを、私は物を媒介にして見ることができる。それらは、人の行く末、世界の運命のようなものを暗示しているのだ。すべての存在、すべての現象が、この世の真理を表している。我々は霊感と知性を用いてそれらを読み解かねばならない』

 そういうことを言う父親だったよ。本当かどうかはわからない。彼が本当にそういうものを信じていたのか、見えていたのか。信じたいだけ、見たいだけ、だったのかもしれない。そう最近は思うが、僕自身、父親のそういう力をつい最近まで疑ってなかったよ。

 そういう父親だったが、では商売の方はどうかというと、まるっきし駄目だったね。生計は立てられなかった。そして、僕が十三の時に彼は自殺をしたのさ。

 彼が死んでから僕は初めて父親の部屋に入った。そこには、占いの道具やら、占い関連の書物が大量にあった。それで始めたんだよ。そこにあるものを使ってね。

 小さい頃から父親の姿は見ていたし、そのやり方は身についていた。が、僕には見えないんだ。その、真理やら、神秘みたいなのがね。だから、それらしくやるんだ。でも不思議なことに、それでもきた人は感謝をして帰るし、またきてくれるんだ。そのうち僕は父親よりもうまく占いができるようになった。何もわからないのにね。

 けれど、そうして十年が経った頃、母親が病気に罹ったんだ。まったく、予想もできなかったよ。笑うだろ。父親が生きていたら、それも事前に分かったのだろうかね。けれど、父親は、確かに、不思議にそういうことを言い当てる人ではあったよ。僕には、微塵もその力は継がれなかった。そして、それから一年もたたずに母親も他界、それで僕は故郷を出たんだが、それ以降は今の僕さ。人を騙すことに、何も感じない」

「騙す、ですか」

「ああ、そうだ。占いも、嘘。その上、僕はこれを売ってるんだ」と占い師は一枚の紙を出した。「霊験あらたかな月の砂を含んだおふだ、だよ。これを、幸運を引き寄せるアイテムとして売りつけるんだ。占いで人を視るより、その後にこのおふだを売る。どちらかというと、こっちの方で儲けてるね」

「何円なんですか」

「五円だよ」

「ご縁だけにですか」

「うん」

 占い師のその相槌はとても低い声になった。それから彼は、今度は声音を変えて、

「しかし、君、無一文だったっけ」

「ええ」

「僕も、今は無一文だ」

「負けたんですか」

「ああ、やられたよ」

「見てませんでした。寝てしまってたみたいで」

「あまり飲み過ぎないように気をつけるんだよ。さっきのこと、覚えてるかい? すごく酔っていた」

「全然、覚えてないです。僕、初めてお酒を飲んだんです」

「あらら、君は、あれだね。意外と、馬鹿だね」

「そうですか」

 白明は占い師から無料で幸運のおふだを貰い、部屋へ帰って寝床についた。

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