お尻に関する世界の回転


 ある交差点にて。

 十歳の男の子と、十歳の男の子の幽霊が歩いていた。

 レルと、宗兵衛だ。二人とも上下とも派手な柄物を着ている。アロハシャツみたようなもの。

 それと、角からは若い女の人が走ってくる。彼女はシホ。二十二歳。


 彼女は横断歩道の前まで来るとそこで一度足を止める。膝に手をつき息を弾ませているところを、レルは見つけた。


 レルはシホの方へ走り寄って、「ねえねえ、お姉さん」と、彼女の前に立つ。

 それから、ふと、とても明るい笑顔になって、くるりと振り返る。

 見知らぬ少年に、やにわに目の前に立たれ、さらに背中を向けられたシホは、不思議がって彼を見つめる。するとレルはお尻を突き出し、ズボンをさっと下ろした。お尻が丸出しになる。

「ぎゃあーー」

 レルにとっては予想以上の悲鳴が上がる。肌が縮まる。瞬間、いけないことをしたかと心にくる。

 それと同時に、シホは大きく振りかぶって、その腕でレルを張り飛ばしていた。レルは吹っ飛ぶ。空中を横滑りするレルを、宗兵衛は、口をあんぐり大きく開けて、目で追うことしかできなかった。



 4時間前、レルと宗兵衛。

 レルと宗兵衛、二人は暇そうに歩いていた。レルは紺色のシャツにサスペンダーをつけ、首には蝶ネクタイをしている。宗兵衛はその服装を見て、「なんだそのバカみたいな格好は。だっせえな」と言った。が、レルは気にせず腰に手を当て胸を張った。この服は、三日目に会ったいろに貰ったものなのだ。色とは、無花果いちじく色という女の子のことで、エクラという少年と一緒に旅をしている。レルとは前からの知り合いだった。二人は近くへ来たからという理由で、少し遠回りしてまでレルの国を訪れてくれたのだった。ずいぶん久しぶりにも思えたが、エクラと色はあまり変わらなかった。


 宗兵衛は幽霊である。レル以外には基本誰の目にも見えない。レルと出会ってから彼は、ずっとレルと行動を共にしてきた。何百年もひとりでいたのだ。今までにこんなに楽しい時期はなかった。が、そんなことを自覚し、感じれるほど大人ではなく、いつまで経っても精神年齢の成長しない幽霊だった。彼はいつも和服を着ている。今日は紺色の甚兵衛だった。得意げに胸を張ったレルを見て、少林寺拳法のようなポーズで対抗する。意味のない対抗心。


 そしてまた歩き出す。宗兵衛がレルの名を呼ぶ。今日は二人で何をするのか、話し合って決めようと思ったのだ。いつもこの話し合いから一日が始まると言って過言ではないのだが、

「レル」

 と呼ぶと、

「ふふん。いい名前でしょ」

 と、宗兵衛の予想外にも、レルがこんな反応をしたせいで、なかなか今日の予定へ話がいかないのだった。


「そんな理由で名前を呼んだわけじゃねえよ」

「レイにつけてもらったんだ」

「何を?」

「レルっていう、この名前だよ」

「はあ。レイ……、ってのは、あのにいちゃんのことか?」

「違う、それはハクメーだよ」

「じゃあ、あっちの美人の方か。そりゃあよかったな。けれどよ、おまえ、名前も人にもらって、その服も眼鏡っ子に貰って、なんだか人にもらってばっかだな。ペットみたいに思われてんじゃん」

「そんなことないよ。たまたまだよ」

「なにがたまたまなんだよ」と宗兵衛は笑った。「けど、なんで本当の名前の方を使わないんだ」

「レイにつけてもらったからね。気に入ってるし、それにね、長いでしょ、あの名前、やだよ、あんな名前」

「メイなんちゃら、かんちゃら」

「メイ・シークラウド・エル・ケストナー4世だよ。覚えて」

「やだ」


 二人は煙草屋の前を通る。レルはちらとガラスケースの奥に並んだタバコを見た。


「タバコ吸いたい?」

 と、宗兵衛が聞く。

「違うよ。さっきハクメーの話したでしょ」

「ハクメーの話はしてないけど、レルの名前の話をしたんだ」

「それで思い出したんだ。ハクメーはタバコ吸ってたから。レイも吸ってたけど。二人とも似合ってたなあ」

「将来大人になったら吸う?」

「吸わない。体に悪いもん。僕には、ハクメーみたいな落ち込み症もないし」

「俺は大人になったら吸うよ」

「でも、宗兵衛は大人にならないでしょ」

「なる。なりたい」

「そうなんだ」

「大人になってタバコ吸って、カッコつけたい」

「えー。幽霊って時点で十分かっこいいけど」

「そうか。ありがとよ」



 三分前、シホ。

 彼女もタバコ屋の前を通り、あることを思い出していた。

 子供の頃。


——いちにとらん らんとらんせ しんがらほっけきょ ゆめのくに


 シホはともだちの千栄子と家のまえの神社で まりつき をして遊んでいた。タン、タン、と軽い小気味の良い音がなってとてもたのしいのだ。そばには祖母もいる。シホを育てたのはこの祖母で、というのは実は、彼女の両親というのはその家で銀行を経営しており(といっても別にお金持ちなわけではない。田舎の、地域の人や商店にお金を貸してどうにか回す小さな銀行で、都会にあるようなのとはちっとも同じでないのだ)、その仕事が忙しいらしく、シホを祖母(父の母)の家にあずけて、シホの面倒をみるのを彼女に任せっきりだった。


——いちにとらん らんとらんせ しんがらほっけきょ ゆめのくに


 遊びはじめてから三十分ちかくたった。祖母は二人が安全に遊んでいるのを見て、夕食の準備をしに、「それじゃあね。危ないことはなしね。奥に行っちゃあだめね」と家へ帰った。二人は元気に返事をして、それからもまりつきを楽しんだ。


 普段は優しい祖母であったが、シホは祖母のことを恐ろしく思うことがあった。それは祖母がシホのことを叱るときだった。いつもは何を考えているのかわからない祖母。ななめ右上をじーっと見つめて座り込んでいる祖母だが、何かの加減で一日、鬼のように気迫がめらめらと上がる時があって、そういう時は何かにつけてシホに叱りつけ、そしてさらに、そういう時は決まって彼女の尻を、これでもかと叩くのだった。


 シホは朝から気が休まらなかった。というのは、この日は祖母に気迫の満ちる日だったからである。そういう日は、目がかっと開く。その瞳にきりっと鋭い光がともる。シホは朝そのことに気がついてから、用心に用心を重ね過ごした。そのおかげで、まだ、一度も祖母の敏感になっている逆鱗に触れることはなかった。


 祖母が夕食の支度に帰ってシホはほっとした。

 彼女と千栄子、二人はいったんまりつきをやめて、神社周辺を探索しはじめた。見なれないきれいな花や、小さい実なんかを見つける。本殿の裏側に回りこんで、草を分け分け探していると、


——ケーーーン、ケーーーン……


 どこからか動物の鳴き声が聞こえてきた。ちょっとだけこわい反面、その正体が気になる好奇心もわく。シホは千栄子に、

——みにいこう。

 と言おうとしたが、そこに千代子はいなかった。

 けれど、シホは、それはそうとあの鳴き声の正体を見てやろうと、その方向へ向かった。鳴き声は参道の方から聞こえた。あの短い参道である。さっきまでまりつきをしていたところ。本殿をぐるりと回って、表にでる。と、そこにいたのは、千栄子だった。

 千栄子はそこに、四つん這いになっている。彼女は、シホがきたのをみると、シホのことを、じっとその透明な目で見つめた。シホには、その間がとても長い時間に感じた。


——なんしてるの、チエちゃん。

 シホが声をかけると、千栄子は空を向いて、

——ケーーーン、ケーーーン……

 と、あの鳴き声で、高らかに鳴き上げた。

——狐憑きじゃ。

 シホは、瞬間そう思った。

——おばあちゃんば、呼びんいこう。


 千栄子はその場所を動かない。ぷるぷると首を振って、前足に見立てた手の甲で顔を撫でる。まるで動物のような仕草だった。

 『狐千栄子』のそばを、瞬間を見計らって、さっと通り抜けると、シホは家へ急いで帰り、祖母を呼んだ。話を聞くと祖母は、その目の光をいっそう爛々と輝かせて、袖をまくり、雪駄に足を突っ込むと、物凄い勢いで神社へ走った。


 そして、まもなく祖母は狐に憑かれた千栄子を見つけると、さもなれた手つきで彼女を取り上げ、膝に乗せると、


——でてけー、でてけー。


 と、ばしばし千栄子の尻を叩いた。その物凄いこと。嵐か、雷鳴か、地響きかと思う、見てられない豪快さであった。ケーン、ケーンと鳴く狐の千栄子の尻を、これでもかこれでもかと、祖母は叩いた。シホはそれを隣で茫然と見守るしかなかった。


 そのうちに千栄子の元気がなくなって、眠るように気を失った。シホがその変化に気付いて、祖母を止めると、祖母はどばっと鼻から大きな息を落として帰って行った。シホは、参道に眠った千栄子を夕方まで見守ったのだった。

 その千栄子の実家はタバコ屋を営んでいた。小学生の頃からタバコを吸っていた千栄子。高校生になってタバコをやめた千栄子。今そのことを思い出したのだった。


 千栄子は元気にしてるだろうか。


 懐かしみながら旧友を思っていると、力が抜けたのか、手に持っていた、これから見に行く予定の映画のチケットを、風に飛ばしてしまった。慌ててつかまえようと思ったが、かすりもせず、チケットは空に吸い込まれて行った。天気の良い青い空を見て、自分の無力さを痛感する。



 レルと宗兵衛がやることもなく散歩していると、空から一枚の紙が落ちてきた。みると映画のチケットである。

「今日のすることは決まったよ」

 とレルが言った。

「ああ、もちろんだな」

「映画を観にいこう」

 と二人は声を合わせた。映画館は少し前に通り過ぎた道沿いにあった。

 きた道を戻り、映画館に入る。


「ぼっちゃん、これは大人料金のチケットだよ。子どもはこの半分のお金で入れるんだよ」

 と係員の男の人に言われたが、

「でも、入って良いでしょ」

「ああ、もちろん。次は子どものチケットで買うんだよ。間違えないようにね」

「うん」

 と入れてもらった。


「宗兵衛もいるし、これで妥当な料金だけどね」

「まあね、俺は何するのだって、料金はかからねえ」

「まあね」

「命を払ってるからな」


 レルはチケットの席に座って観たのだが、宗兵衛はどの席よりの前の、ステージの上にひとり座って間近で観る。彼の姿が見えるレルにとっては、気になってしかたなかった。

 二人が見たのは『勇者、走り出す』。この映画は、水溜りに飛び込むと、好きなところや、過去や未来に行ったり、最後には別世界にだって行ってしまうファンタジーアニメ作品だった。


 そうとう面白かったのか、二人は顔を真っ赤に、興奮したまま映画館をでてきた。そして、二人ともが相手の話も聞かずに、感想や、白熱したシーンを語ったり、再現したり、好き好き同時にやるもので、会話として成り立っていなかったが、レルが、

「水たまりを探そう」

 と言ったのは宗兵衛にも聞こえたらしく、反応を示す。宗兵衛、

「よっぴ」

 と答えながら、顔の両横でピースをした。この「よっぴ」と言うのは映画に出てきたマスコットキャラの口癖だった。顔の横でピースをしたような耳をしていたのだ。


 しかし、ここ数日好天気の続いているこの街中に水たまりなんてない。街中を縦横無尽に、驚くべき子どもの体力で走り回って探したのだが、結局ひとつも見つからなかった。


 ここでレルはある提案をした。

「公園に、池ならあるよ」

 すると宗兵衛はうなずいた。

「しょうがねえ、そこ、行くか」


 どこからきた確信なのか、いつの間にか二人は、水に飛び込めば別の世界へ行けると、信じて疑わなかった。ではさっそくと、レルが公園へ行こうとすると、宗兵衛はレルに手を差し出した。


「おい、レル。手、繋げよ」

「なんで? 嫌だよ。恥ずかしい」

「照れるな、バカ。別に手を繋ぎたくて言ってるわけじゃねえよ」

「じゃあ、なに?」

「おまえ、足遅いだろ」

「うん」

「連れてってやるよ」


 急になぜ手を繋ぐのか、変に思いながら、気恥ずかしさをおしてレルは宗兵衛と手を繋いだ。するとその瞬間、二人は バシュッ とその場から消えた。


 気づくとレルは公園の中にいた。

 レルの目がみるみるひらいてゆく。顔も上気してくる。レルは胸いっぱいに空気を吸い込んでから、その興奮を宗兵衛にぶつけた。


「なに、いまの!」

「瞬間移動だよ」

「そんなことできたの。なんで今までやらなかったの。ねえねえ、そういうことって、知り合ってすぐに教えておくべきじゃない。なんで隠してたの」

「隠してたつもりはねえよ、でもさ、これは新月の日しか使えないんだよ」

「すごいよ宗兵衛」

「そうか。そんなに褒めてもらえるとはな」

「うんうん」


 レルは意気揚々と池を目指す。もう完全に別世界へ行ける感覚だ。

 二人は池についた。蓮の葉や、蓮華のつぼみが浮く。遠くの方では鴨が泳いでいる。二人は水際に立って透明な水の奥の、暗くて見えない深いそこを眺めた。


「じゃあ、準備はいい?」

「ああ。飛び込むか。俺は、ロボットが宇宙戦争をしている世界に行きてえな」

「僕はお菓子の王国」

「じゃあ、また会う日まで」

「そうだね」


 そう行って二人は、ついに池の中へ飛び込んだ。二人分の着水音と、飛沫が上がる。暖かくなった季節の、柔らかい日の光が水滴を通る。その光は、池の中まで染みていた。そうして二人は水の中。底の泥が、二人の足に蹴られて、水中に舞い上がる。


 すぐに、二人は顔を出す。髪から顔面へしとどに水がしたたる。二人は はぁはぁと息をしながら、


「宗兵衛、いる?」

「いるぞ」

「どうだろう、どこにきたのかな」

「いちどあがってみようぜ。泥が口の中に入っちまってよ」


 二人は上陸する。そこは飛び込む前の公園。


「変わってない……かな?」

「そんなことねえだろ」

「でもいつもの公園だよ」

 と、落胆したようにレルは言った。

「そうか?」と宗兵衛。「俺にはU F Oとか見えるけどな。隣にはいるけど、俺だけは違う世界に入っちまってる感じのやつかな」


「えー、ずるいよ宗兵衛だけ。僕もその世界見たいよ」

 そう言った後、レルは大きくくしゃみをした。

「ねえ、宗兵衛、君がいるところも寒い世界」

 ちょうどその時宗兵衛も、両腕で肩を温めていた。

「俺がいるのも、十分寒い世界だ」

「服買いに行かなくちゃね」

「そうしよう」



 映画を諦めたシホはふと部屋に本棚が欲しいことを思い出した。

 シホは電車に乗って隣町へ向かう。買う買わないにかかわらず、とりあえず今日、どんな本棚があるのか、どのくらいの大きさのを買えばいいのか、そう言ったことを確かめに店に向かう。駅を二つ行ったところに、家具屋さんがある。シホは店に入った。


 店にはいろいろな家具や調度品が並んでいる。最初シホは雑貨なんかを眺めて歩いて、それからいよいよお目当ての本棚のゾーンにやってきた。


 十種類近くの本棚が並んでいる。


 シホは順番に見て行った。一番小さな本棚以外であれば、どれを買っても十分そうである。そう思って、シホはそれぞれの値段を見比べた。しかしその値段表というのが、展示の下の方に貼り付けてあって、視力のあまり良くないシホはしゃがまないと良く見えなかった。

 シホはその場に膝を折って、しゃがみ込む。横移動しながら値段や、そこに記されているその商品の特徴などをマジマジ見ていると、チクッ、と尻に何かが刺さったような痛みが走った。


「なに?」

 と驚いて声を上げてしまうシホ。


 後ろを見ると、ほんの五歳くらいの男の子が名札の安全針を手に持って、立っていた。


「ああ」

 と半ば安堵する。「だめだよ、人を刺しちゃあ」と言ってあげると、それと同時に向こうからその子の母親らしき女性が走ってきた。状況から事情を察したのか、母親らしきその女性はシホに平謝りして、男の子の手を引きその場から去る。シホはお尻を撫でて、また本棚の見分に戻った。


 大体二つくらいの候補に決めて、シホはまた自分の町へ戻るのだが、この電車を使って移動する二駅分は、別段歩いても行ける距離なので、彼女は、帰りは歩いて帰ろうと思い至った。


 道はほぼ真っ直ぐ。その道を歩いていると、後ろからカシャカシャとなる音が近づいてきた。それは犬の足音だった。女性が犬を散歩させているのだ。しかし、その犬はどうしても走りたいのか、前傾に前傾を極めた、息苦しい格好になっている。首を前に突き出して、足をけたたましく動かして、全力で前進している格好だ。それをリードを引く女性は、重心を後ろにして犬を押さえつける。犬と女性はそのように拮抗しながら、ゆっくりと歩くシホを追い越して進んでいった。


 シホはその犬を見て、嫌な思い出が蘇った。

 昔の恋人のことだ。


 彼はシホに首輪をつけたがった。ちょうどあの犬のように。それも赤い可愛くない首輪だった。彼はシホに首輪をつけると、彼女のことを四つん這いになるよう命令し、どこから持ってきたのか軽い鞭で、彼女の突き出た尻を叩くのだった。


 シホにとってはなにが正解で、どのように振る舞えばいいのかわからなかったが、その時は彼のことが好きだったので言われるままに従った。けれど、いざその熱も覚めて、彼と別れてしまうと、シホはただつまらなさと、なんだか分からない、怒りとも恥辱とも取れる感情だけが残るのだった。


 あの犬の姿勢を見てると、ふとそんなことを思い出してしまった。それに、彼と別れた理由というのが、彼の浮気によるものだったので、そのことおを思い出し、掘り返したように怒りが湧き上がってきた。なぜあんな男を好きになったのか。自分に対しても腹が立つのだ。見たかった映画も見れなかったし。


 映画は過去や未来に行ける話である。シホは原作を読んでいたので、内容は知っていたのだ。


「私が過去に行ったら、あの男だけはやめとけと言いたいわ」

 と、そんなことを思いながら歩いていると、


「危ないよ、お嬢ちゃん」

 と声がした。

 何かと思い声の方を見ると、そこには黒い帽子をかぶった老婆がいた。


「私……ですか?」

「ああ、お嬢ちゃんさ。凶相が出ておる」

「何か、悪いことでも起こるんですかね」


 お金でも取られたら癪だと、シホは適当に流そうと思った。が、次の言葉に引っかかり、彼女はゾッとしたのだった。


「お尻に気をつけるのじゃ」

 お尻……。



 古着屋に到着したレルと宗兵衛。

 公園のすぐ近くにあった。

 二人はその店に入って服を見る。嬉しくなさそうに、宗兵衛がレルのもとへ来た。


「この店和服ないぜ。他の店探さねえか」

「外でたら風邪ひいちゃうよ」


 そういうレルは確かに鼻水をたらしていた。


「今回だけは、ここにある服で我慢してよ」

「しょうがねえな」


 宗兵衛は渋々、服探しに戻った。

 結果、二人が選んだ服は似通っていた。

 柄物のシャツと、半ズボン。レルは宗兵衛の分と合わせてお金を払う。

 二人は路地へ移動して、こそこそ服を着替える。宗兵衛が服を着た瞬間、その服はさっと幽霊色に変わった。


「宗兵衛が着る前の服はもちろん見えてるよね」

「うん、多分」

「着たら見えなくなるよね」

「そう」

「着る前の着替える瞬間の、宗兵衛が服を持ち上げてる時って、その服はみんなには見えてるの」

「見えてると思うぜ。ポルターガイストってやつかな。だから人を驚かせるんだ」


 二人は着替え終わると、家に帰るべく歩いた。宗兵衛は着慣れない服が落ちつかないのか、裾をめくったり、ズボンの高さをしきりに調節したりした。宗兵衛が自分の服をいじっている隣で、レルは犬の首輪らしきものを見つけた。道の真ん中に落ちていた。


「捨ててある」

 とレルは言う。

 が、宗兵衛はその首輪を拾って、

「捨ててあるのかな、なんかちぎれた感じじゃね? 見ろよ、ここ。金具が引きちぎってある」

「たしかに。ワンちゃん逃げたのかもね」


 レルが宗兵衛の肩越しに覗き込む。


「探さね? 犬」

「もちろん」

 と二人は新たな楽しみを見つけてご満悦。だが、夕方、暗くなるのもすぐで、あまり時間はない。急いで取り掛かろうと、走る心構えをしたその時、後ろから女の人が走り寄ってきた。


「ああ、あった。プルトンの首輪だ」

 彼女は犬の飼い主だった。「拾ってくれたの? ありがとう」


「ワンちゃんが逃げたの?」

「そう、散歩してたらね。あの子、物凄い力でリード引っ張るから」

 とその女の人は手に残ったリードをレルに見せた。


「僕たちで探します!」

 レルは言った。

「ホント? もう暗くなっちゃうよ」

「暗くなったら、帰るかもしれない」

 とレルが言うと、女の人は笑って、

「じゃあ車に気をつけて、あまり遠くまで探しに行かないようにね」

 と逃走犬探しを頼んでくれた。


 元気よく返事をすると、レルはすぐに走って探しに行った。

 その場に残された飼い主の女性は、「僕たち?」と首を捻った。


「遠くまで逃げちゃったかな?」

 とレルは隣を走る宗兵衛に聞く。

「わかんね、ここら辺一帯見てみようか」

「お願い」

 とレル。


 すると、宗兵衛はスッと宙に浮き、そのまま空高くまで上がった。ある程度まで行くと宗兵衛はその場にとどまり、町中を見晴るかす。そして、一生懸命走っているレルのもとへ降りてきて、


「見つかんない」

 と言って、今度は走らず浮かんだまま、レルの隣についていた。

 あることをレルは思いついた。


「聞いてみよう」

 すぐにレルは近くにいた男性の元へ行き、


「すみません。ワンちゃん見ませんでしたか。首輪のちぎれたワンちゃんです」

 と聞いた。


「ペットが逃げたの?」

「違うけど、そんな感じ」

「もうすぐ暗くなるからね」

「はあい」


 次にあった人にも聞いてみる。けれどまた知らないと首を振られる。移動してまた見かけた人にも聞いてみる。やはり知らないらしい。


 男の人と話しているときからずっと、レルがそうやって人と話している間、宗兵衛は何のためか服をまくり上げてお腹を出していた。それもちょっと出すのではなくて、見せつけるように、大胆に大きく出しているのだ。レルはずっとシカトしていたのだが、その時に話していた若い女の人が去ってから宗兵衛に聞いた。


「ずっとなにしてるのさ。お腹なんか出して」

「いや、面白いかなと思って」

「お腹出すのが?」

「うん、やってみな。知らない人に初めて会って、その時に意味もなくお腹を見せる。相手はその状況を処理できないだろ、それを想像するんだ」

「やってみるよ」


 レルはちょうどそのとき通りかかった人に、

「ねえねえおじいちゃん」

 と話しかけ、やにわにお腹を出した。するとどう言う反応をしたか。目を丸くして、唖然とするだけである。レルは他の人にもやってみた。仕事帰りの女の人や、男子高校生にも。誰もが理解できずに終わった。レルと宗兵衛は、それがだんだん楽しくなってきた。


「誰も理解できないね」

「まあ、俺らも理解できてないから。でさ、思ったけどよ、腹よりもっと面白いこと発見したぜ」

「なに?」

「一回お尻を出してみろよ」

「それはだめだよ」

 と言いつつ、レルは泉の水が溢れるように、脳に好奇心が溢れたのだった。



 お尻、お尻……

 たしかに、思い返せば、今日はお尻に関することをよく思い出しては嫌な気分になっていた。それどころか、さっきはついに、実際的な出来事も起こった。お尻に針が刺さったのだ。


 財布から五千円は減ってしまったけれど、聞くべき預言だったろう。

 シホは一刻も早く家へ帰って、安全を確保しようと考えた。


 その道中、公園の横を通る。そのとき、シホは異様な雰囲気、空気感、オーラを公園から感じた。彼女は吸い寄せられるように公園を覗きに近寄った。


 生垣から中をのぞいてシホはたまげた。

 公園のなにもない広場には、銀色の大きなU F Oがあった。

 シホは釘付けになってみる。

「映画の撮影か何かだろうか」

 時折、その独特な流線型の、継ぎ目のない、銀色の壁面に、ぺかぺかと光の玉が浮かぶ。


 どれくらい時間が経ったのか全くわからない。シホがU F Oをじっと見ていると、ついにU F Oに動きが見えた。突然なんの予兆もなく壁面に線が入り、その線はちかちか光を漏らしながら伸びて、直角に折れ、また伸びて、直角に折れ、長方形に区切ると、それが扉となって開き始めた。

 シホはじっと注視する。

 すると、中から出てきたのは、身長一メートルほどしかない、銀色の服を着た宇宙人だった。シホは、見惚れるように興奮した。扉の中からは、白い煙のような空気が流れ出る。水蒸気だろうか。それによってその正体はぼんやりとしか見えなかったのだが、ついにその白い空気が晴れるにしたがって、その宇宙人の姿がはっきりと見えるようになる。シホは怖気をふるった。宇宙人の頭の形は、ちょうど人間のお尻と全く同じだったのだ。


 シホが傍から覗いていることは、まだ宇宙人に気づかれてはいない。

 気づかれる前に、逃げてしまおう。宇宙人と関わってしまう前に、逃げてしまおう。あれはお尻だ、関わってはいけない。

 と、シホはそっと動いて、その場から去ろうとした。


 公園から離れて、歩道を、なにも知らないふりして、歩こうとした。


 すると、目の前にの空間が玉虫色にぐねりと歪んで、次の瞬間には、目の前に宇宙人が立っていた。

「ぎゃーーー」

 シホは叫んで走り出す。

 家に向かう。

 角を折れて、川沿いをいくらか走る。


 ずいぶん走って、宇宙人ももう追いかけてこないだろうと、シホは息を整えた。気持ちを落ち着かせつつ、帰り道を歩く。橋を渡って、また進む。


 しかし、とんでもない恐怖だった。シホは思い出さないようにしたが、心の底に気持ち悪いものがずっと残る。早く家に帰りたい。


 シホは交差点までやってきた。すると向こうから男の子が走ってくる。初めはあのトラウマから、宇宙人かと、びくついたが、よく見るとそうではない。安心する。


 少年はシホのところまで来た。

「ねえねえ、お姉さん」

 と言った。

 何の用かと見ると、少年は後ろを向き、さっとお尻を出した。

 シホはパニックになった。今自分が目の前にしているものが、何なのかわからなくなった。


「ぎゃーーー」

 ふたたび彼女は叫んだ。今度は反射的に腕を振りかぶって、少年を叩いて、吹っ飛ばしていた。少年は、大砲のように、弧を描いて空中を行く。



 尻を叩かれたレルは、空を飛び、地面へ落ちてしまうと、ごろごろと転がった。


 感覚は、世界をスローモーションにする。赤く染まった雲が見える。視界の端に、真顔でレルを見送る宗兵衛が見える。地面が近づく。レルを叩いた女の人も驚いているようだ。そして、その彼女の向こうから、嬉しそうに走ってくる犬も見えた。


 派手に転がったレルは、その先の水たまりに行き着いた。そこでとまる。またびしょ濡れだ。元気いっぱいの犬は、レルの奥に飼い主の女性を見つけたようで、レルを踏み台にして飛び上がり、飼い主の元へ戻った。


 気づくと隣に宗兵衛がしゃがんでいた。

「勇者は尻出すってか」

「勇者、走り出すだよ」

 ふん、と宗兵衛は鼻で笑って、

「散々だったな」

 と言って、宙に浮く。そして宗兵衛はレルを真似して、空中で寝転ぶ。


 けれどレルは、清々しい表情だった。黄昏ている。

「僕は、水たまりばかり探して、下を見ていた。……けれど、それが良くなかったんだ。……空を見上げている今、僕は水たまりを見つけた……。見える世界が変わったんだよ」

「そりゃよかった」

 宗兵衛はどこかへ飛んでいった。先に帰ったのだろう。


 遠くから、謝りながら駆けてくる、シホの声が聞こえる。

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