いや、俺はもう落ちているようなんだが……


 翌朝、出立しようとした王子はイラークに、

「王子、ちょっと」

と軽い感じで手招きされる。


 ……仮にも一国の王子を手招きして呼びつけるとは、と思いながら、王子は、のこのこ厨房まで行った。


 この宿でもっとも偉いのはイラークだからだ。


 絶品料理を作り出すイラークには、どんな王様も盗賊も敵わないと思う。


「王子、よく贔屓ひいきにしてくれるから、これをやろう」

とイラークはガラスの小瓶に入った、美しい小さな星屑のようなものを渡してきた。


「ピンクの粒を偽アンブリッジローズに飲ませ、水色の粒をお前が飲め。

 すると――」


 すると? とイラークを見ると、イラークは出口の方で巨大うさぎと抱き合って別れを惜しんでいるアキを窺いながら言ってきた。


「お前たちは恋に落ちる」


「いや、俺はもう落ちているようなんだが……」


「共に飲めば、偽アンブリッジローズもお前を好きになることだろう」


 それは……と王子は瓶を手に黙る。


「別に卑怯なことではないぞ。

 そのあと、愛を持続できるどうかは、お前次第だからな。


 だが、ひとつ注意することがある。


 これを飲んで恋に落ちても、女というのは恥じらうものだから、すぐには首を縦に振らないかもしれない。


 だが、それでもめげずに愛を訴え続けていれば、そのうち、ふたり結ばれることだろう」


 頑張れよ、と肩を叩かれた。


「……ありがとう。

 また来る。


 ……海老がたくさん獲れてそうなときに」


 そう礼を言い、王子はアキたちの許に戻っていった。




「お兄様、いいんですか?

 あんな惚れ薬のようなものを王子様に差し上げて」


 ミカは厨房でアキたちに持たせるお弁当をカゴに詰めながら、イラークにそう文句を言った。


 アンブリッジローズ様の気持ちはどうなるのだと思ったからだ。


 だが、イラークはチラとアキたちの方を見ながら言ってくる。


「あれは、コンペイトウとかいうただの砂糖菓子だ」


「え?」


「あの王子、昨夜ゆうべも結局、ヘタレて部屋に帰って寝たようだ。

 アンブリッジローズ……


 いや、ア……


 ……もあの王子のことを好きなんじゃないかと思うのにな。


 だから、もうちょっと王子が強く押して出られるよう暗示をかけただけだ」


「お兄様、今、なんて?」


「強く出られるよう暗示をかけただけだと言ったんだ」


「その前です。

 今、アンブリッジローズ様のお名前を違うお名前で呼びませんでしたか?」


 だが、そんなミカの言葉に被せるようにイラークは言ってくる。


「ミカ。

 早く持っていかないと、弁当の数なんて、まともに数えていない呑気なあの御一行様が行ってしまうぞ」


 えっ?

 はっ、はいっ、とミカは慌てて、今、まさに外に出ようとしているアキらを追いかけ、呼び止めた。


「お待ちくださいませ。

 あと三つございますっ」


 そう叫びながら、今、お兄様はアンブリッジローズ様の名をなんて呼んでいたかしら? と思っていた。


 ア……


 まで一緒だった気がするのだが。


 確か、もっと短い名前だった。


 ア、アキ……


 アキなんとか


 だが、なんだか本人には訊いてはいけない気がして、ミカはただ、

「いってらっしゃいませ」

とだけ言って、アキたちに頭を下げた。


 彼女は、自身の本当の名を隠しているのかもしれないからだ。


「ありがとう。

 また来ます」

と言い、アキが微笑む。


 ああ、素敵なアンブリッジローズ様。


 またのお越しをお待ちしております。


 あの瓶を小袋に隠し、複雑な顔をしている王子とともに、アキは馬にまたがり、行ってしまう。


 ミカは巨大うさぎとともに、いつまでも手を振り、見送った。


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