第2話 囲炉裏

刀一郎は故郷と呼んで差し支えない山を始めて下っていた。

何も持たぬ頃の生活はまず生きることだけで精一杯。

住むには最適な洞穴もあり、どこまで続くかもわからぬ山を下ろうという考えは抱けなかったのだ。

だが、環境は一変した。

大気に満ちる視覚出来ない何かを口にするだけで活力は満たされる。

そんな人とも呼べぬ異様に自分が成ってしまったのだから。

しかし睡眠は必要であるらしく、人らしさが残っていることに多少の安堵も覚えた。



「行けども行けども森ばかりだな。人はおらぬものか。」



歩き始めて既に夜を三度は越えた。

それでも集落はおろか人の影一つ見当たらないのだ。

そうして歩いていると、比較的開けた場所に何かの死骸が横たわっていた。



「これは、鹿か。…ふむ。」



今まで何度か狩ってきたこの生き物が鹿と呼ばれる動物だと、何故か今の刀一郎には分かった。

そしてここに獲物が置いてあるという意味を瞬時に理解し、警戒を強める。

鼻を利かせると、直ぐ近くから強い獣臭が漂った。

すぐさま腰にぶら下げた一振りの刃を抜き放つ。

それは言わずもがな、白き威容から授けられた美しき一振りである。

鞘は不格好ながら木を削って一日がかりで作り上げたものだ。



「ブフゥッ、ブフゥッ、」



それは大きな熊だった。

興奮しているのか、口からは涎が垂れ下がり、目をギラギラと輝かせながらこちらを睨む。

熊の視線が己を獲物と見定めたのを確認すると、剣を素早く両手で持ち、額上部からゆっくりと下げていき、腰のあたりに落ち着ける。

そして切っ先は熊の眉間の位置に合わせて相手の出方を伺った。



「グルルルルゥァッ!!」



熊は完全に刀一郎を胃に収める気らしく、大きく口を開き襲い掛かった。

刀一郎自身、この剣の切れ味を生き物で試したことはまだ無い為、半信半疑の部分がある。

それでも事ここに至って最早引く術などない。



「フンッ!」



意を決して上段に振り上げた剣を、風を切るかのごとき速さで振り下ろす。

しかし、思っていた感触が手に残らず、意識は動揺に包まれた。

瞬間、夥しい返り血が刀一郎を襲い、あっという間に全身が真っ赤に染まる。

熊を見ると、頭から胸までを綺麗な断面で切り裂かれており、刀一郎はそのあまりの切れ味に戦慄を覚えた。



「分かってはいたが、普通の剣ではないな。いや・・・刀か。」



自分の中の何かが、これは『刀』というものだと語り掛ける。

食する必要のない刀一郎には無益な殺生になってしまった為、一礼しその場を立ち去ることにした。

そして歩き続けていくと、



「水を浴びねば臭くてたまらんな。」



熊を斬ってから既に数刻は経過しており、鼻を突く異臭が立ち込める様になってきた。

先ほどから小川を探しているのだが一向に見つからず、このままでは寝ることもままならない。

そして辺りが夕闇に包まれる頃、漸く発見し待望の水浴びに歓喜するのだった。





翌日も、相も変わらぬ景色を歩く。

もしかしたら己以外の人など存在せぬのではないかと思っていた頃、



「あら~、お前さんどっから来た?」



ふと藪の中から声がして視線を向けると、両脇に枯れ枝を抱えた老婆が不思議そうな顔で刀一郎を眺めていた。

とても小柄な老婆だ。

五尺二寸(百五十六cmくらい)の刀一郎より頭一つは小さい。

見ればその向こうには簡素な作りの家屋らしきものも見える。



「どうした婆さん?熊でも出だが~?」



老齢の伴侶の声を聞いてか、家屋のある方向から腰の曲がった男もやってくる。

そしてこちらに視線を向けると、同じように不思議そうに眺めるのだ。



「あんらま驚いだ。向ごうがらやって来たんだが?おまげにその恰好何だ?」



原始そのものの出で立ちがおかしいのか、老人たちは愉快そうに笑う。

しかし、来た方角を告げると一様に口を開け驚いた。

その反応を不思議に思い理由を尋ねてみると、



「おめさん、あっちは昔がら足踏み入れだらもう生ぎで出るごど叶わね言われでるどごだぞ。」



そう言われあの威容を思い出す。

もしかしたら他にもあんな存在がいるのかもしれないと思い、刀一郎は身震いするのだった。

その後二人の老人は不思議に思いながらも、家に案内してくれるとのこと。

刀一郎はその好意に甘え、久し振りに屋根のある場所で眠りにつくことが出来た。



「その恰好じゃどご言っても門前払いだぞ。これ着てげ。」



老人はそう言って昔自分が来ていた者らしい衣服と藁で出来た履物を刀一郎に譲ってくれた。

早速渡された一枚布に首を通し、腰ひもを結ぶ。

もう一枚の長布は何に使うのかと思っていると、自然と体が動く。

そして一物を綺麗に包むと、腰をパンっと叩きようやく落ち着いた。

自分の中の何かが、これは『ふんどし』という物だと囁く。

そして囲炉裏を囲みつつ、どこから来たか、今までどうしてたか等を語り聞かせた。



「その白い山犬はきっと神様に違いねえな。おめさんは神の使いどして選ばれだんでねが?」



何でも神隠しなるものは稀に起こるらしく、発見される事は殆どないが、その数少ない事例では記憶を失っていたのだとか。

老人の憶測では刀一郎もそれにあたり、どこかから神様に連れてこられたのではないかとのこと。



「しっかし、飲み食いしねくても生ぎでいげるっつぅのは羨ましいな。」



こうして誰かと火を囲む光景を刀一郎は懐かしいと感じていた。

もう思い出せない過去だが、こうして誰かと食事をしていたのだろうと思い馳せる。

そしてこの暖かい老人たちに、何か恩返しは出来ないものかと考えていた。

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