第1話 白き威容

まだこの地の者が畑を耕し狩りをし、自然と共に生きていた頃、一人の青年が山に分け入った。

日々の糧を得る為、狩りをするのである。

だが、この日の山はいつもとは明らかに空気が違った。

鳥のさえずりも獣の気配も感じず、まるで音が何かに飲み込まれたような静けさに包まれていたのだ。

それは心地良いものではなく、どこか不気味な雰囲気を漂わせるものだった。

そう思いながらも生きる為には糧を得なくてはならないと、青年は山の奥へ進んでいく。

そして目にすることとなる。

この何とも言われぬ空気を作り出した元凶を。



「何だこれは…。こんなものは昨日はなかったはず…。」



大地が大きく抉れ陥没していたのだ。

自らの知る光景とあまりに違う景色に、青年は暫し立ち竦んでいた。

そして、その大きな穴の中心に視線を向ける。



「何かいる。あれは……何だ?」



真っ白な何か大きなものが、そこに横たわっていた。

恐れに支配されつつある心を押さえつけ、青年はそれに歩み寄る。

その時、耳鳴りの様な音が響いたと同時、頭の中に何か声が響いた。



『こっちへ来い。お前だ。そう、お前だ。』



これは不味いと思うが、何故かその声に抗うことが出来ずふらふらと足が勝手に前に進み出る。

そしてその姿を眼前にて捉えることとなった。



「これは…何と大きな山犬だ。このような山犬が何故…。」



異様、そう表現することしかできない光景に青年は生唾を飲み込む。

その山犬は全身が真っ白な体毛で覆われ、青年の黒々とした髪色と相反してより際立っていた。

瞳は力無くも未だその片鱗を宿し赤く輝いている。

弱っていることは見受けられたが、不思議なことにその体には傷一つ無いようだった。

すると、山犬は何を思ったか自らで体の一部を噛みちぎったのだ。



『飲め。』



またあの声が頭に響いた。

やはり抗うことは出来ず、ふらふらと流れるその赤い液体に顔を埋める。

青年は気でも触れたかの様に、一心不乱に時も忘れ飲み続けた。

どれほどそうしていたのだろう。

体に強い衝撃を感じ我に返ると、山犬とはそれなりの距離が出来ていた。

どうやらこの山犬に突き飛ばされたのだということを認識する。



『骸を晒すのは好かん。』



またも声が響いたかと思うと、肌をチリチリと焼くほどの熱が山犬から発せられた。

その熱は大地さえも赤く鼓動を始めるほどだ。



『血を守れ。』



またも声が響くが、それはこれまでとは違いまるで体の芯を犯すような感覚があった。

形容するならば魂に刻まれるというのだろうか。

青年はその威容から目を離すことが出来ず、砂塵の如く溶け消えるまで眺めていた。



「…一体、何だというのだ。ん?何かあるな。骨か?」



山犬がその身を晒していた場所に、白い何かが落ちているのを発見する。



「これは…剣、か?」



それはこの世のものとは思えぬ見事な片刃のつるぎだった。

少し反りのある刀身が、太陽の光を反射し怪しく輝いている。

その全てが白。

刃の長さは三尺(九十cmくらい)近くはあるだろうか、つばなどは一切なく、単一の素材から削り出されている様だ。

青年は美しさに惹かれ、恐る恐るそれに手を伸ばした。



「ぐっ…あっ、ぁぁぁぁああっ!!」



持ち手と思われる個所を握るやいなや、全身を焼き尽くさんばかりの熱が青年を襲う。

青年はあまりの痛みに耐えきれず、その場を転げまわり、ただひたすらに耐えた。

そしてどれほどそうしていたか、心が砕けるかと思われた頃、漸く収まったのだった。



「はっ…はっ…何だというのだ。何が起こっている…。」



不可解なことに、その現象の発端であろうその剣からは、手を放そうという意思が欠片も抱けなかったのだ。

そして不可解なことはそれだけではない。

疲れ果て帰り道を歩いていると、肌をさらさらと心地よい感触が撫でる。

今までは感じられなかったが、大気に何かが満ちている、今はそう感じることが出来た。

本能に突き動かされる様にそれを体に取り込むと、活力が溢れ、不思議と疲れも霧散したのだ。



「俺は一体……何になってしまったのだ。」



心の有り様も普通とは言えないものだった。

これほどの出来事があったというのに、言葉とは裏腹にそれが当たり前であるかの如く受け入れてしまっている。

しかも己の状態を確認すると、疲れだけではなく喉の渇きさえなくなっていることに気付いた。



「ふぅ、これからどうすべきか。今まで通り暮らしていけるのか?」



自宅へ戻り青年は一心地つくと、己の状況を嘆くように呟いた。

そこはとても家とは呼べぬ、ただ山にぽっかりと空いただけの洞穴だった。

しかし近くには小川も流れており、奇跡的なほど生存に適した場所ではないだろうか。

青年は自らのことを何も知らない。

気付けばただ一人、この山にいたのだ。

石を砕き刃物にし、服は獣から剥いだ皮に穴をあけ纏っただけの姿、原始さながらといえよう。

そうして、それなりの月日をここで一人で生きてきたのだ。

青年はふと目をやる、収める物さえないそのあまりに美しすぎる刃に。

すると、何故か不思議と手に馴染んでいることに気付いた。



「ここを出るか。食べずとも生きられるのならどこへでも行けよう。」



手荷物など何もなく、青年はその身一つで旅に出ることを決意した。

目覚めて以来、一度もここから離れたことは無く、僅かな郷愁をその洞穴に抱く。

そんな感情を振り払う様に目を瞑り、これからを思い耽る。

この世界のことも、自らのことも青年は知らないが、ただ一つだけ覚えていることがあった。

それは名だ。

今となっては己が人であったと実感できる唯一のもの。

そして己に刻むが如くそれを言葉にする。



自らの名は刀一郎とういちろうであると。

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