葉桜の君に2

「あ、秋田先生!」



 学校が休みの土曜の昼過ぎ、桜の木の下に設置してあるベンチで本を読んでいると、聞き慣れた声で呼びかけられた。

 


「桜子さん。また来たんですか?」

「先生もいつもいますよね」

 


 本から顔を上げると白い厚手のセーターを着た私服姿の桜子さんが立っていた。



 初めて桜子さんとこの公園であって以来、私がこの公園に来ると度々桜子さんに出会うようになった。その度に他愛ない会話を繰り返し、ここで会う彼女とは秋田葉太という教師と春川桜子という生徒ではなく、ただの秋田葉太とだだの春川桜子という人間として関係が深まっていくように感じられた。



「先生薄着ですね。最近肌寒くなってきたのに」

「私はこれくらいの気温が好きですよ。本を読むのにちょうどいいですから」

「そうですか」


 

 桜子さんは私に話しかけながら、随分と葉も散った桜に近づいて手を当てた。まるであの日私がそうしていたように。


 そして『彼女』がよくしていたように。



「そう言えば先生は見ましたか?向こうの花壇で秋桜が咲いていましたよ」



 桜子さんが目を閉じて桜に触れたままそう言った。



『秋桜?あれは――』



「偽物……ですか」

「え?」



 桜子さんの言葉を聞いて思い出された『彼女』の言葉を呟く。その言葉に桜子さんが目を開いた。もしかしたら彼女は秋桜が好きだったのだろうか。



「気を悪くしたのならすみません。私の知り合いがよく言っていたんですよ。あれは偽物だと」

「………どういうことですか?」



 桜子さんが私の話に興味を持ったらしく、桜から手を離して私の隣に座ってこちらを見た。



「日本人は桜が好きで好きでたまらない一族です。桜の芽が出て花が咲いて、葉桜になって、花が散って、葉が散って。そんな姿を愛おしく思う民族ですが、秋になるとその桜がすっかり今のような姿になってしまいます。秋桜はそんな桜を寂しく思った日本人が、その寂しさの穴を埋めるために秋の桜と名付けた桜の偽物なんだそうです。全く根も葉も根拠ない彼女の勝手な持論ですが」

「それは……すごい意見ですね」



 何かを言い淀んだような桜子さんは、しかし何かを言うわけではなくただそうとだけ言った。今の話はつまらなかっただろうか。



「あ、そう言えば桜子さんは桜の木の下には死体が埋まっている、という話は知っていますか?」

「聞いたことはありますけど、でも埋まってなかったですよ?」

「……試したんですか?」

「えーと、その、中学生の頃ですけど」



 見た目だけじゃなくて行動まで似ているのですか。学校での春川桜子と立花桜花の違いはよくわかるけれど、ここにいる彼女と『彼女』はあまりにもよく似ている。どちらがどちらなのかわからなくなってしまうくらいに。



「私の知り合いもこの木の下を掘り返したらしいですけど、何も埋まってなかったそうですよ」

「……」



 この話なら笑ってもらえるかと思ったけれど、そんな予想に反して桜子さんは何かを考え込むように俯いた後、急に立ち上がった。



「すみません先生。今日は用事があるのでもう帰りますね」

「……えぇ、気をつけて帰ってください」



 桜子さんが一度私に頭を下げて去っていく。その背中を見て寂しく思う自分に気づいてしまった。そう言えば最近この公園に来る回数も増えている気がする。




 ――私はいったいどの桜に会いに来ているのでしょうか。






「先生ー!この問題わかんないよ!」

「俺も」

「私はこっちがわかんない」



 十月も終わりに近づき桜が枝ばかりになった頃、私と桜子さんの放課後勉強会はいつの間にか人数が増えていた。

 古文が苦手だった桜子さんがいつの間にか古文を克服していたことで、この放課後勉強会が人気になってしまったのだ。



「先生すげぇよな。古文以外も分かりやすく教えてくれるんだもん」

「数学とかめっちゃわかりやすいし。古文の先生なのに。先生理数系も得意なの?」

「実は昔は理数系のほうが得意だったんですよ。知り合いに古文が好きな人がいていつの間にか私も古文が得意になっていたんです」

「へぇー」


 元気のいい生徒の質問に答えながらこっそりと、あの日以降めっきり公園で見かけなくなった桜子さんに視線を向ける。桜子さんは楽しそうに友達に古文を教えていた。人数が増えたことで桜子も楽しそうなら良いことだと思う。



「さて、今日はとりあえずここまでにします。それとすみませんが、文化祭が近づいてきた事でしばらくの間、あまり放課後に時間を取れなくなって来ると思います。ですので――」



 生徒の顔を見渡しながら言った言葉に桜子さんの表情が凍りついた。



「桜子さん、どうかしましたか?」

「あ、い、いえ」



 気になって尋ねてみても桜子さんは首を振って何も答えてはくれなかった。

 私の話も終わり、皆が教室からいなくなったとき最後まで残っていた桜子さんが私に声を掛けてきた。



「先生、今度、少しだけお時間を頂いてもいいですか?どうしても相談、というか話したいことがあって」







「お待たせしました、先生」

「いえ構いませんよ」



 桜子さんに呼び出されたのはいつものあの公園だった。久しぶりにこの公園で彼女に出会えた事を嬉しく思ってしまう。



「それで、相談したい事とは」

「……先生は、桜の精霊はいると思いますか」



 桜子さんの言った言葉は予想していたものとあまりに違い、少しだけ面食らってしまった。けれどそれも直ぐに相談とは言いにくいことのほうが多いから、きっとこれは場を和ませるための話題なのだろうと思った。



「……私としてはいてくれたら嬉しいですね」



 もしもいたならそれは『彼女』のような姿だろうか。



「私はいると思ってなかったんです。でも中学生二年の春、私はここで桜の精霊に出会ったんだと思いました」

「中学生二年の春と言う事は三年前ですか」

「はい。その時偶然ここを訪れた私は、ちょうどそのベンチに腰掛けていた儚げな――散りゆく桜のような女性に出会ったんです」



 ……それは、もしかして。



「見た目は私とそっくりなのに精霊と見間違えてしまうほど儚げな雰囲気の人でした。その姿があまりに儚げで、今にも消えしまいそうだったから、つい私は声を掛けてしまったんです。そしたらその人は私にこう言いました」



 ――桜の木の下には死体が埋まっているらしいんだ。試しに掘り返してみたいから手伝ってくれないかな、と。



「……桜花」

「桜花さん、と言うんですか。私は結局最後まで名前を聞けなかったんです。ここからは私の一人語りになってしまいますけど、最後まで聞いてください」



 そう前置きをして桜子さんは話し始めた。僕の知らない彼女と『彼女』の思い出を。



 ――私の家族はその頃とても仲が悪くて、多感な時期だった私は精神的に参っていました。桜を見に来たのはそんな心を癒やすためだったのかもしれません。


 ――そんな時出会ったあの人は桜が大好きで儚げな雰囲気をまとっているのにとても饒舌で明るい人でした。あの人と居るときはとても楽しくて、あの人の話を聞いているときは重苦しかった心が空っぽになったみたいでした。


 ――そうしてあの人について知ったことは古文が好きで、桜が好きで、そして大好きな人がいるという事。よく彼氏さんの話を聞かされました。桜が好きで、理数が得意であの人の事を大好きだという彼氏さんのことを。


 ――そんなあの人との関係は三年の春まで続きました。この間先生が聞かせてくれた秋桜の話も私は聞いていたんです。


 ――あの人といる時間だけが心の支えで、そうして家庭での問題に耐えていましたが、三年の冬に家族の問題は一応の終わりを告げました。


 ――その事を伝えたらあの人はすごく喜んでくれて春、一緒にお花見をしようって約束したんです。でもその約束が果たされることはありませんでした。


 ――最後にあの人と会ったのは桜が咲くほんの一週間前のことでした。思えばあの時のあの人は様子がおかしかったんです。話の内容も、その身に纏う雰囲気も。


 ――そして約束した日にここに来た私は結局あの人に会えなかった。その日以降、あの人とは会っていないんです。それでもいつかは会えるんじゃないかと、毎年その日になるとここを訪れていました。その日が先生に初めてここで会った日、四月十九日の事でした。




「いちおう、私の話はここで一区切りです」

「……桜花に会っていたんですね」

「はい」



 桜花にそっくりな少女は桜花に出会っていた。そして話にあった四月十九日は――



「四月十九日は彼女の命日から三日後です」

「じゃあ、やっぱり」



 一年もの間会っていたというのだからやはり桜花から病気のことは聞いていたようだった。



「はい。……私から桜子さんにこんな事を言うのもなんですが桜花と一緒に居てくれてありがとうございました」

「お礼を言われることじゃないです。むしろ私がお礼を言いたいくらいでした」

「……今日の話、と言うのは今の事ですか?」

「それもですけど、私としてはこれからです」



 桜子さんはそう言いながら肩から下げていた鞄の中から小さな新品のスコップを取り出して、桜の木の下へと移動した。



「最期に合った日、あの人がおかしなことを言っていたと言うのは話しましたよね」

「はい」

「あの時あの人は私に三つの事をお願いしました。一つ目がこれです」


 桜子さんが立ち上がり、桜の木の下から掘り返した何かを私に手渡した。土に塗れたビニールに入れられていたそれは見覚えのあるペンダントだった。



「あの人がよく身に着けていた物です。私が穴を掘ったときに埋めていました」

「えぇ、確かによく見覚えがあります」



 なにせ『彼女』がまだ遠出することがでた頃、二人で旅行に行った時に『彼女』にせがまれて送ったペンダントなのだから。店先に並んでいたのを見つけて財布の中身を睨んでいた姿も私が購入した時の桜が咲き誇ったような笑顔もよく覚えている。いつの間にかつけなくなったので無くなっていたのだと思っていた。



「そして二つ目はメッセージ、ですかね、『世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし』と言った時、私と出会った事は君にとって不幸な出来事だったのだろうね、と言ったけれど私にとっては幸せなことだったと伝えてほしい、と頼まれました」

「……そうですか」



 ――私にとっても幸せな事だったと、伝えたかった。



「それと、最期に先生の事を頼まれました」

「私の事を?」

「はい。もしも先生に会えたらその時はよろしくお願いする、と」

「それは随分と勝手なことを頼まれましたね」



 それでは桜子さんがよくここを訪れるようになったのはそのお願いのためだったのだろうか。そう思うと少し寂しく感じる。



「はい、すごく勝手なことを頼まれました。私はそんな事を頼まれなくても先生の事を想っていましたから」

「……え?」

「さっき家の問題は一応の終わりを告げました、と言いましたが、実際家の中は私にとってずっと居心地の悪い場所でした。最初に先生に勉強を見てくださいとお願いしたのは、家に帰りたくなかったからなんです」

「……」

「でも初めて先生とここで会った日、あの時少し話して、それが凄く楽しくて、いつもの勉強会も日を重ねるごとにどんどん楽しくなって、いつの間にか先生に――恋をしていました」



 私に恋をしていた。その言葉が深く胸に突き刺さる。一瞬で色んなことが頭を巡った。教師としての立場、桜花との思い出、学校のこと、桜子さんという生徒の事、そして、これまでの桜子さんとのこの公園での思い出の事。



「先生にとって私は桜花さんの代わりですか?」



「―私は、桜花さんの代わりになれませんか?」



「――先生は、私の事を好きになってくれませんか?」




 言葉を重ねるごとに、桜子さんの瞳が潤んでいくことに気づいた。私は何かを言おうとして、口を開いて、でも何も言えなくて、それでも何かを伝えたかった。けれど、



「……何も言ってくれないんですね」



 最後にそう言われた言葉が私の心を掻き乱し涙を流して走り去っていく桜子さんになんの言葉も伝える事ができなかった。

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