葉桜の君に
@himagari
葉桜の君に
――今年この学校に来たばかりですが、二年から皆さんの担任になる秋田葉太です。担当は古文で、順当に行けば三年まで担任を務めることになります。よろしくお願いします。
そんな言葉を放ちながら私の心はそこに無かった。一人の生徒に目を奪われてしまい、しっかりと心を込めて放つつもりで考えられていた言葉は、まるで心など一欠片もなく意味すら頭の中で思われず、ただの音として口から出ていくことになってしまった。
「春川桜子です。よろしくお願いします」
私の自己紹介の後に続いて行われる生徒達の自己紹介で私が目を奪われていた生徒の名前を知った。正確にはこのクラスの担任になるに当たって渡されていた生徒の名簿を見て名前だけは知っていたのけれど、「春川桜子」という名前が春川桜子という生徒になったのは今この時が初めてだった。
『世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし。きっと私と出会った事は葉太にとって不幸な出来事だったのだろうね』
そんなことを言った私の元恋人と桜子さんはあまりにも似すぎていた。
彼女の姿に『彼女』の姿が重なっていく。彼女の声で『彼女』の声が蘇る。肩上で切り揃えられた黒髪、透き通るようで優しい声。私が初めての担任として受け持ったクラスの生徒であった春川桜子は、私の大学時代の恋人である立花桜花とそっくりだった。
今はもう居ない。この世界のどこにもいない『元』恋人に。
❀❀❀
「先生、ここの問題が分かりません」
「……」
「先生?」
「あぁ、すみません。この問題ですね」
校庭にある桜に葉が混ざり始めた頃、私は放課後に桜子さんと対面して座っていた。「狙っている大学があるけれど、今の自分の学力では不安があるので勉強を見てください」と言われ、放課後に勉強会を開くことにしたからだ。他の生徒にも呼びかけてみたけれど今のところ参加者は桜子さんだけである。
私の言葉を聞きながらカリカリとノートにメモをとっていく桜子さんをみて、思えば彼女との会話にも随分慣れてきたものだと息をついた。
放課後は初めてこのクラスで出会った頃は、桜花の姿がちらついてしまって桜子さんとのコミュニケーションに支障をきたしていたけれど、それも出会いから半月も経つ今日この頃にはあまり気にならなくなっていた。
「あと、ここと、ここと、ここも」
「……授業はきちんと聞いているんですよね?」
「も、もちろん聞いてますよ。でも古文は何ていうか、その」
春川桜子と立花桜花との見た目と声以外の差異を知れば知るほど、彼女と『彼女』が別人であるという事実を教えてくれる。桜花は理数系は嫌いで、古文、特に和歌が好きだった。よく病室でもその手の本を読んでいた記憶がある。桜子さんは『彼女』とは正反対に理数系は得意だけど文系はまるで駄目だった。
「……さて桜子さん。すみませんが今日はここまでです」
時計を見ればまだ五時を回ったところ。普段ならもう少し勉強を教えるところなのだけど、今日はどうしても行かなければならないところがあったためいつもより早めに終わらせることになっていた。桜子さんも同じように行かなければならない場所があるらしく、いそいそと帰りの準備を済ませて教室を去っていった。
その姿を見送った私も教室を出て職員室へ向かい、明日の授業の準備を確認した後車に乗って学校を後にする。向かった先は学校から車で十五分ほどの場所にある公園だ。周囲を木で包まれたこの公園には、あまり人目につかない場所に桜の木が立っている。
「また、会いに来てしまいました」
舞い散る桜は雨のようで、交じる葉が夏が来る準備を始めているようだった。
私はその桜の木の下まで歩み寄りそっとその幹に手を当てる。辺りも暗くなり始めた時間、元々人があまり来ないこの公園で、この場所に人が来ることはほとんどない。だから人目を気にせず桜の木に手を当てて目を閉じて、
――涙を流した。
おそらく数分ほどそうしていた私はざりっと言う砂を踏む音を聞いて目を開いた。
来ないと思っていた人の気配に私は涙を拭いて後ろを振り返る。
一瞬、本当に桜花が立っているのかと思った。
「――桜子さん」
「秋田先生ですか?」
振り返った先に立っていたのは先程教室で別れたばかりの桜子さんだった。制服姿であることを見ると、おそらく近くにある駅から歩いて来たのだと思う。
「こんな所に一人で来るには遅い時間ですよ、桜子さん。どうしたんですか?」
「私は、その、この桜を見に来たというか。すぐに帰りますし、家も近いのでそんなに危なくはないですよ。先生こそどうしたんですか?」
「私もこの桜を見に来たんですよ。思い出のある桜ですので」
❀
「なるほど、それでこの問題はこうなるわけですね」
「はい。その通りです」
桜の花はすっかり地に落ち、桜の木の衣替えが終わってしばらく経った頃、私と桜子さんとの放課後勉強会はまだ続いていた。というより、いよいよ数週間後に迫ったテストを前により遅くまで勉強会が続いている。
「随分とわかるようになってきましたね。古文の小テストもいい点数です」
「毎日秋田先生にこうして時間を割いてもらっているわけですから多少は良くなってもらわないと困りますよ」
「どうです?古文も好きになってきたのではないですか」
「古文は、まぁ……まあまあです」
まあまあですか。担当としてはまあまあでも好きになってもらえれば嬉しいですが。
「……先生」
今しがた出した問題の解答を見ていると、桜子さんが小さな声でそう呼びかけてきた。
「はい」
私は解答を見ながら返事をする。
「先生は……私の事、迷惑じゃないですか?」
「迷惑?」
あまりに予想していなかった言葉に、私は顔を上げて桜子さんの顔を確認した。
「先生も仕事があるのに毎日こうして時間を割いてもらって迷惑かなって」
「これも仕事のうちですよ。それに桜子さんに教えるのは楽しいですから」
「……え?」
「ちゃんと真面目に聞いてくれるでしょう?」
思わず口から出た言葉に私はそんな言い訳をした。
「そ、そうですよね」
「はい、そうです」
こうして今日も放課後が終わり、桜子さんは名残惜しそうに家へと帰っていった。
その数週間後に行われた期末試験の結果、桜子さんの古文の成績は学年で七番目だった。
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