第4話 紅蓮の煌火-3

 燐の目の前には件の白と黒の体色が特徴的な怪物が立っていた。二本の角、大きな翼、長い尻尾、太い手足、鋭い牙が並んだ口。目線は燐と同じくらいだが、猫背なのでおそらく全長は2メートル近い巨体だ。

 筋骨隆々のがっしりとした肌は艶のある黒で、肩や手足、背中や頭全体を鎧のような白い甲殻が覆っており、鋭利な双眸は真っ赤な眼光を灯しながらじっとこちらを捉えている。目の前のナニかがとても作り物には見えず、燐はごくりと唾を飲み込む。


 動かずに待つか、先制攻撃を仕掛けるか、逃げるか。

 選択肢はいくつも浮かぶが、その中のどれかを燐が選ぶよりも先に怪物が動いた。素早い動きで振り抜かれた裏拳が燐の顔面に突っ込む。


「うおっ!」


 しかし燐は後ろにすっ転ぶ形でなんとか回避した。決して相手の動きに反応した訳ではなく、足が竦んでバランスを崩したのがちょうど同じタイミングだっただけだ。直後何かが軋む音があり、燐はちらりと横目で背後を確認すると、怪物の放った拳がすぐ側の街灯の柱をへし折っていた。


「はぁ……!?」


 相手の人間離れした筋力を目の当たりにして燐は咄嗟に距離を取ろうとした。少なくとも相手の移動速度は今の所緩慢だ。パワーはあるが、全力でここを走り去れば追いつかれない気がする。そうすれば助かる……そんな希望を抱き、燐は「逃走」を選ぼうとする。


「……くそ……っ!」


 しかし視界の端に未だ目を覚まさない少女の姿が入った。おそらくこの怪物に襲われたのだろう。全身の傷は痛々しく、呼吸も弱い。きっとこのまま放っておけば今度こそこの怪物に息の根を止められてしまうだろう。そんな子をここに残して逃げるべきだろうか?


(……仮にここでこの子を置いて逃げたって誰も責めたりはしねぇよな……でもそんなことをしてこの子が犠牲になって俺が生き延びたとしても、俺は絶対に後悔する……! ならやることはただひとつだ!)


 我ながらどうかしてると思いつつ燐は足元に落ちていた、折れた街灯の支柱を握り、怪物に向けて構えた。大分重いのがキツイが、長さはちょうどいいくらいで、太さも案外しっくり来る。明らかに人外じみた見た目だが、こいつが生物であるならば、力いっぱい打ち付ければそれなりのダメージは与えられるだろう。燐には武術の心得も喧嘩の経験も無いが、無抵抗のまま嬲り殺しにされるよりはマシだ。


「おりゃああああああああああああああああああああ!!」


 全力で支柱を怪物の頭部目掛けて振り下ろす。怪物の怪力で捩じ切られ、ひしゃげた支柱の切っ先はちょうど怪物の顔面にまっすぐ向かっている。しかし怪物は上半身を大きくひねることでその攻撃を回避した。攻撃を外した燐は咄嗟に重心を移動させ、勢いはそのままに今度は支柱を怪物の脇腹目掛けて横薙ぎに振るう。だが、今度は怪物は回避すらせず右手で受け止めると握った支柱を燐から奪い取り、そのまま適当に放り投げた。すると無造作に投げられた支柱はコンクリートの砂防に垂直に突き刺さる。


「嘘だろ……」


「オオオオオオオオオオオ!!」


 あまりの膂力に唖然とする燐に怪物が高速で突っ込む。身体が大きいので鈍重なものだと決めつけていたがどうやらその予想は外れていたらしい。思わぬ動作に燐は反応が追いつかず、無防備な状態で怪物に身体を掴まれる。


「ぐあああっ!」


 ギリギリ、と首を締め上げられそのまま身体を持ち上げられる。息が出来ず、意識が飛びそうになるが燐は必死に相手の顔を睨みつけ、足で怪物の腹を蹴るが相手はびくともしない。絶体絶命の危機だった。


 このままじゃやられる。

 己の死を確信した燐はなんとか相手から逃れようと必死で藻掻くがやはり怪物は少しも力を緩める気配を見せない。意識が朦朧としてきた燐はそれでも抵抗をやめないが、ふと我に返ると怪物が手刀を目の前に突きつけているのが見えた。鋭い爪は一本一本がよく研ぎ澄まされたナイフのようであり、人体など容易く切り裂いてしまうだろう。


(くそっ……あんなもん食らったらマジで死ぬ!)


 燐の背中が凍りつく。必死で怪物に蹴りを叩き込むが、やはり怪物は意に介することなく構えた手刀をまっすぐ燐へ放った。身体を拘束されている以上、回避や防御なんて不可能。出来ることなど奇跡によって助かることを祈るだけだ。己の死を悟った燐は思わずぎゅっと目を瞑る。せめて楽に痛みや苦しみが無く死ねたら良いな、と考えつつ。

 しかし痛みも苦しみも一向に感じない。まさか即死したのだろうか。しかし思考は出来る。不審に思った燐はゆっくりと目を開く。


「え……?」


「……きみ、大丈夫……? 無事みたいで良かった……」


 目の前に居たのは先程まで気を失っていた白い銀髪の少女だった。足取りは覚束なく、息も絶え絶えだがなんとか動けるようになったらしい。

 一方で燐の方はいつの間にか怪物の拘束から介抱され、アスファルトの上に尻もちをついていた。すぐそばには丸太のように太い怪物の腕が青い焔に包まれてみるみるうちに崩れ落ちている。

 彼女は何も言えず呆然とする燐を安心させるように優しく微笑みかけると右手から発振させたオレンジに輝く光剣を構える。それに対して少女の向こうに居る竜のような怪物は低い唸り声を発しながら少女を睨みつけている。怪物の右腕は肩口からばっさりと切り落とされており、傷口から禍々しい赤い光が勢いよく噴き出していた。


「《葬装機ブレイズ》、《天聖神祇テンセイジンギ》起動……」


 弱っている怪物に逆転の隙を与えないように少女は己の武器である光背を背後に出現させ、それを目の当たりにした怪物は警戒しているのかわずかに下がる。おそらく少女の背負っている武器ならばあの怪物に有効打を与えられるのだろう。思ってもみない形勢逆転に燐は思わず拳を握る。


「今度こそ決める……!」


 少女は両腕を大きく広げ、光背が一際強く輝き出す。すると少女の周囲から一二の光球が生じ、一斉に怪物目掛けて飛んでいき着弾と同時に爆発した。しかし少女は手を止めず、次々に光球を生み出しては怪物の居たところに目掛けて飛ばして爆破させる。圧倒的な物量に怪物は成す術無いかに見えた。

 だが、突然少女は呻き出すと胸を押さえて膝から崩れ落ちる。それと同時に少女の後方に浮かんでいた光背も闇に溶けて消えてしまった。


「くっ……また……駄目、なの……っ!?」


 少女が蹲って攻撃が止んだことで、ゆっくりと爆風が晴れていく。あれほどの激しい攻撃を受けて怪物は破片すら残っていないかのように思えた。しかし爆心地の中心には黒い影が依然として残っている。燐は目の前の光景が信じられなかった。


「無傷なのか……!」


 怪物は真紅の禍々しい炎を周囲に展開することで少女の攻撃から身を守っていたようだ。その身体は腕の切断以外のダメージは見受けられない。反対に少女の方は疲労困憊で今にも倒れてしまいそうだった。おそらくもう先程のような攻撃を繰り出せる体力は残っていないだろう。


 少女はなんとか立ち上がろうとするものの、胸の痛みに呻いてすぐに倒れ込んでしまう。対する怪物はゆっくりとした動きで掌を少女の胸目掛けて突き出した。そして掌の中心に莫大なエネルギーが集まっていく。あれが放たれてしまったら今度こそ終わりだ。


「やばい……ッ!」


 燐は慌てて怪物の元へ走り出す。全力でぶつかれば怪物の放った攻撃の軌道くらい変えられるかもしれない。そうすればほんの短い時間だろうが少女が快復するまでの時間稼ぎ程度にはなるだろう。恐怖を押し殺し、燐は全速力で怪物へ突っ込んだ。


「……あ……!」


 直後、怪物と燐の目があった。そして下に視線を動かすとその掌も燐の胸に向けられている。どうやら少女を狙っていたのは演技で、最初から怪物はこちらを狙っているつもりだったらしい。狡賢い真似を、と思う一方で燐は力なく笑ってみせた。そう、自分が少女の代わりに標的になることで時間稼ぎにはなった。自分は殺されるだろうが、やっと立ち上がった少女が今度こそあの怪物を倒してくれることだろう。だから自分はこれでいい。


「――ごめんね」


「えっ……?」


 声と共に燐の身体は横合いから割り込んできた少女に弾き飛ばされた。予想しない一撃に燐はアスファルトの上を転がり、上も下もわからないほど混乱した頭で起き上がる。そうして視界に飛び込んできたのは鮮血の赤色だった。


 怪物の放った光弾は少女の脇腹を抉っており、そこから鮮血が噴き出して宙を舞っていた。そんな真っ赤に染まった世界の中心で何故か少女は燐に向かって笑っていた。嬉しそうな、泣き出しそうな、寂しそうな、申し訳なさそうな、そんな複雑な笑顔がやけに目に焼き付いて燐は思わず息を呑む。


「どう、して……」


 どうして死にゆくのにそんな笑顔を浮かべられるんだ。どうして自分なんかを庇ったんだ。どうしてこの子が死ななければならないんだ。


 どうしてどうしてどうしてどうしてどうして


 どさり、と。重たい肉の塊が横たわる音がした。その肉塊はぴくりとも動かず、どくどくと赤い液体が止めどなく溢れ出し、血溜まりをどんどんと広げていく。燐は非情な現実を目の当たりにし、思わず崩れ落ちた。何か言おうとしたが、言葉が詰まって出てこない。


 ゆっくりと怪物がこちらへ向かって歩いてくる。しかし燐は項垂れたまま動かなかった。もう何もかもがどうでも良くなった。どうせこんな怪物から助かる方法なんて無い、ならばいっそこの少女と一緒に死んでしまえれば……


 怪物が燐の前で止まる。欠損した傷口に紅い炎が灯り、ずるずるずる、と水っぽい音と共に断面が盛り上がると一瞬で喪った腕が再生した。しかし燐はそれを意に介さず、ぎゅっと目を閉じる。瞼の裏に焼き付いているのは少女の最期の笑顔だった。会ったことのない、知らない少女。しかし何故だかその子がとても愛おしくて、その喪失がひどく狂おしかった。


「あ、ああ……」


 視界がぼやけ、頬を熱い雫が伝う。どうしてこんなに悲しいのか、自分でもわからない。ただ一刻も早くその少女の身体を抱き締めたかった。しかし腕を伸ばしてもその少女には届かず、燐はわずかに一歩足を踏み出した。


 ゆっくりと怪物が再生した右腕を掲げる。あれが振り下ろされたら最後、今度こそ命が尽きる。それでもやはり燐は動けずにいた。最早心が先に死んでしまったのかもしれない。心を満たす諦観と絶望は燐のあらゆる感情を麻痺させた。いっそこの苦しみから開放されるなら殺されても構わなかった。燐はそんな自分の思考に力無く自嘲の笑みを浮かべる。


 ――俺は死ぬのか、あの子を救えないまま…

 ――ふざけるな

 ――このまま死んでたまるか

 ――この命を使い潰してでもあの子を救え


 そうして怪物は頭上に掲げた右腕を振り下ろし、鋭い鉤爪で燐の胸を深く切り裂いた。

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