第10話 五穀豊穣⑩
その数日後の昼頃、
「お父さん。今年は状況によっては・・・・・・」
「分かってるよ」
夫は遠い目をして、自分の栗林を見つめた。春は短く、急速に初夏のような気温になってきた。夫は顔の汗をしきりに拭く。
案山子は夫婦の後ろから見ている。夫婦と案山子の視線の先には栗林がある。
妻は夫の横顔をしばし見つめたが、すぐに昼飯の準備を始めた。弁当を包むハンカチをほどき、夫の横に置いた。「ああ、暑い」と言いながら、つば広の帽子を取った。帽子をしていても顔は黒い。夫はさらに黒い。特に夫の顔は、日焼けと土埃がついた顔だ。長年の農作業で、体中にこびりついた土汚れが落ちないのではないかというくらいに黒い。
二人の持つ栗林はそれほど広大なものではない。それだけでは生活は成立しない。だから、栗とは別に野菜も作っている。今日は夏野菜の準備をしに来た。
「頑張ってきたのにな・・・・・・」
うめくような声で夫は言った。視線の先には栗林がある。栗林の枝葉は初夏の暑さに耐えるように、まんじりとも動かない。歯の色は若葉から濃い緑に変わっていた。そんな栗林を夫と一緒に眺めていると、頑張ったのは夫なのか栗の木なのか分からなくなってくる。
案山子は二人の背中をそっと見守っていた。
「有機にこだわるのも分かるわよ。でもね、あの娘ももう高校生よ。大学にも行きたいって言ってるし、お金がかかるのよ」
妻には頑張ってきたのが夫であるように聞こえたようだ。
リラックマは娘の趣味なのだろうと、案山子は思った。
有機栽培で品質にこだわった栗は洋菓子店から注文が入り、高値で売れた。それが夫を栗作りに夢中にさせたのだ。案山子は生き物たちから噂話でそう聞いた。もはや生きがいになってしまって、採算度外視の部分もあった。だが、生きがいであることを妻も理解していて、今さら止められなかった。もう数年踏ん張れば、採算ラインに乗りそうであった。が、ここに来て去年のクスサン騒ぎだ。綱渡りの栽培は去年で完全に干上がった。
「うちの土地も売れればな」
ゴロンとレジャーシートの上に横になり、手枕になって自嘲気味に言った。
「何言ってんの」と妻は夫の脇腹を突いた。
「どうせね、養豚場の関さんみたいに、あったらあったで全部使っちゃうでしょ。お馬さんに!」
いいから早く食べて、と急きたてられ、不承不承起き上がって、弁当を手にした。弁当を持った指は太く、節くれ立っていた。
「今年だめだったら薬使うよ」
「そう・・・・・・すいません」
夫は寂しそうにそう言い、妻は思わずあやまった。
「どうしてあやまるんだ」
夫は弱々しく苦笑した。あやまるべきなのは栗の木に対して、なのだ、と案山子は理解した。
黙々と弁当をつかう二人の背中は丸まっていた。初夏だというのにまるで、冬の寒さに耐えているようだった。数日前のばあさまたちを思い出していた。
案山子はそっと天を仰いだ。
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