再来

 穏やかに、ノクターンが笑う。だが、シドが耳元で鋭く囁いた。

「元の気配を知らないから、なんとも言えない。傀儡師は何にだって化けられるから、それかもしれない」

 シドの腕の陰から、シエロはノクターンを覗き見た。どこをどう見ても、ノクターンだ。外見だけではなく、優しい笑みも、柔らかな声音も彼そのものだ。傀儡師の、あの恐ろしさは感じられなかった。

 ノクターンは両腕を広げた。

「傀儡師だなんて、とんでもない。そっちこそ、シエロの大事な仲間に化けて、どうするつもりだい?」

 ぐ、と、シドが声を詰まらせた。シエロを抱える腕に力が入る。

「え。シド?」

 ゾクリと、シエロは彼を振り仰いだ。シドが傀儡師だとしたら、自分はすでに、囚われている。

「そう出るか」

 ギリ、と歯を食いしばる顔が、いつもより恐ろしく見えた。

 ノクターンが、手を差し伸べた。

「さあ、シエロ。そっちは危険だ。すぐに離れるんだ」

 やや緊迫した声で促される。

 足元から突き上げられた。噴煙が、一段と濃くなる。シドが舌打ちをした。

「くそ。こんな時に」

 地面は、小刻みに揺れる。石柱の上から、砂が落ちてくる。

 いつ噴火するか分からない火口が見えるところにいる。シエロは、荷物を抱えた。

 どうすればよいのか。傀儡師は、本当に、この場にいるのか。ノクターンの本当の姿を、知らなかっただけなのか。誰かに化けているのか。

 気配や力で判断できないシエロには、確かめようがなかった。極度の緊張と不安、戸惑いが気管を圧迫する。息苦しさが募り、シエロは咳き込んだ。

 薄く開いた瞼の間で、シドが杖を握りなおすのが見えた。かすかな詠唱も聞こえる。

「シド、待って」

 咄嗟に、シエロは杖を握った。

「やめろっ」

 シドが悲鳴をあげる。シエロを抱える腕が緩んだ。よろめき、シエロは、シドの前にまろびでる。反動で、肩から掛けた荷物が浮いた。目の端で、ノクターンがこちらへ掌を向けるのを見た。

 空気が爆ぜた。重い衝撃が、腰を押した。木の屑が飛び散る。全身に激痛が走る。一瞬、目の前が真っ白になった。そのまま地面に倒れたようだが、その衝撃が分からなかった。

 痛みに、声も出ない。シエロは、呼吸を確保するので精一杯だった。全身がジリジリと、強く痺れる。指先を動かすこともできない。

「おい、大丈夫か」

 レミが駆け寄ろうとする。直後、ファラが彼女の名を叫んだ。

 本能的に、レミは体を捻った。脇腹を黒いものが掠める。血と共に、黒い粘液が地面へ垂れた。

「ファラ?」

 脇腹を押さえ、うずくまりながらレミはファラを見上げた。

 シエロも、目の端でそれを見た。

 ファラの額から出た黒い蛇のようなものが、首へ巻きつくように、うねっていた。表面がぬらぬらと粘液で包まれている。

 丸みを帯びた先端が、粘ついた糸を引きながら開いた。擦れた声が漏れ出た。

『邪魔をして欲しくない、ねぇ。最後まで協力してくれなくちゃ』

 ゆらりと、ファラの黒目がちな目の前を通る。やや青ざめたファラの声は、いつもより硬かった。

「私が協力するとお約束したのは、シエロ様を王都から遠ざけ、最果ての地へお連れすれば危害は加えないと仰ったからです」

 どういう、こと?

 尋ねたくとも、シエロは声を出せなかった。唇すら動かない。

 かろうじて機能しているのは、視覚と聴覚だけだ。

「ファラに、憑いていたとは、ね」

 シドの杖が、地面に立てられた。小さく揺らいでいる。シドが、杖にすがっているのだ。大丈夫かと、声を掛けることも、軽率な行動を謝ることもできない。

 少し離れた地面に、竪琴が転がっていた。鞄は大きく引き裂かれ、竪琴の枠がへし折られている。破片と木屑が周囲に散っていた。斜面に吹きつける風が、切れた弦を揺らした。

 じわりと、視界が滲んだ。

 もっと早く、気がつけば良かった。

 温泉の茶屋で、ノクターンに弦の切れた竪琴を見せた。自らも楽器を奏で、常に細かく気を遣ってくれる彼なら、シエロに出会ってすぐ、竪琴のことを気にしてくれたはずだ。だけど「彼」は、竪琴に目を向けもしなかった。

 偽ノクターンは、高らかに哄笑した。醜く歪んだ顔は、降竜碑でシエロを襲った魔術師と同じ表情だった。

「さあ。お楽しみは、これからだよ。我がご主人様のためにも、たっぷり苦しんでもらわなきゃ」

 ノクターンに扮した傀儡師が、シドへ手を向けた。

 同時に、ファラと繋がっているものが、鎌首をもたげた。が、それは動き始める前に、黒い粘液をふき出し、激しくのたうちまわった。

「約束が、違います」

 低く言い放ったファラの手に、細い刃物が握られていた。レミが手首に仕込んでいる隠し刃だった。

「いつの間に」

 レミが呟く。手甲に触れるレミに、ファラは小さく頷いた。

「ちょっと、拝借しました。かわりに、割いた干し肉が入っています」

「やってくれるじゃない」

 レミが口端を上げた。いえ、とファラもかすかに笑ったように見えた。

「あなたが単純な人で、助かりました」

「鳥の分際で」

 傀儡師が、片方の眉を上げた。苦々しく、口の片端を引き上げる。

「ご主人様のお気が変わったのだよ。追放だけでは足りない、ってね。変化に柔軟に対応しなけりゃ、長生きもしんどいんじゃないか?」

 ファラに繋がる黒いそれへ、手を振る。

 それは、鎌首を回した。目にも留まらぬ速さで、ファラの腹へ突き進む。

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